突如雨中のトレラント市街地に落雷が生じたかのような衝撃が
奔り、『
貪食の悪魔』に吸収される
蒼獣の軌跡を追っていた大陸軍人がその風圧で吹き飛ばされた。
衝撃の中心地では盛大に煙が上がり、一帯の
煉瓦状の
家屋が広範に押し倒されるように崩壊していた。
市街地への砲撃は制限していたはずが
何処か誤射したのではないかと大陸軍側が
騒めき立っていたが、
軈てその煙の中から全長30メートルはあろうかという巨大な図体と翼を持つ青白い獣が姿を現した。
それは
御伽噺に描写されるような
翼竜と言い表すべきだと大陸軍の誰もが捉え、そのうえで
未曽有の
畏怖と
焦燥を覚えた。
そしてトレラントの張り詰めた空気を八つ裂きにするように、青白い
翼竜が都市全体を
震撼させるような
咆哮を放った。
次の瞬間には
翼竜が城壁へと飛び掛かり、内戦時代の
名残であった堅牢な壁はその史実を
嘲笑うかのように粉々に
叩き潰された。
唐突な挙動に反応が遅れた大陸軍人が何人か
翼竜の
掌に呑まれたが、当の
翼竜は何か別の獲物を探すように鎌首を
擡げていた。
間もなくして崩落した城壁の端に
佇む
紫紺のローブを
纏った謎の人物を視線に捉えると、その壁ごと
薙ぎ払うように右腕を振り下ろした。
謎の人物は直前までどのように立ち回るべきか迷っていたように見えたが、意を決したように飛び上がると、振り下ろされた右腕に軽やかに着地した。
そして
間髪を入れずにその腕を駆け上がり、
蒼獣を討ち払っていた黒い棒を
翳して翼竜の胸元に突き刺そうとした。
だが青白い輝きを放つその身体は想像以上に硬い
鱗で
覆われていたようで、謎の人物は弾かれた反動に
蹌踉めいて足を踏み外した。
落下するその身体は
翼竜の右手に
掴まれたのち、握り潰されるようにして吸収されてしまい、黒い棒は金属が打ち捨てられるようなやや重みのある音を立てて地面を転がっていった。
翼竜の右手には黒い棒を同時に握った際に感じた
痺れが少し残っており、その
微かな刺激が
朧げになっていたピナスの意識を
僅かに呼び戻した。
——やはりこれも隕石の
類か…
小癪なものを…。
——だが、
儂を討つにはあまりにも
脆弱すぎる。
そのピナスの思考を更に
叩き起こすかのように、後方から無数の銃撃や弓矢が浴びせられた。
蒼獣、
延いては『
貪食の悪魔』の対策と聞かされていた黒い棒が
最早通用しなくなっことが知られ渡るや
否や、大陸軍は総力を
以てこの厄災の化身を討ち滅ぼす他なくなった。
他方で青白い
翼竜へと進化を遂げたピナスにとっては、銃弾など豆鉄砲を連射されているかのような
煩わしさでしかなく、
鏃はそもそも刺さることすらなかった。
だが
愈々解禁された砲弾が胴体に直撃すると、
流石に
殴打に似た痛みと衝撃を覚え、ピナスは都市を囲む城壁全体に配備されている大砲を一様に
睨み返しながら低い
唸り声を響かせた。
——
懲りない奴らめ。貴様らはその武力が
齎す痛みを理解しておるのか。その痛みが
自らに跳ね返ったときどうなるのか覚悟しておるのか。それとも
命乞いなど浅はかで愚かな選択肢だと最初から放棄しておるのか。
——結局人間もラピス・ルプスの民も同じ言葉を話しながら、言葉で真意を交わそうとしない。その方が合理的で
解り
易いからだと覚えてしまっておる。
——だから
儂はどこまでも悪魔になってやる。…貴様らが
自ずと理解するまで、
只管に破壊し
殺戮してやろう!!
一段と強まる雨脚を吹き飛ばすような
咆哮を放ったピナスは、暴虐の限りを尽くす一心でトレラントを
蹂躙し始めた。
最早蒼獣を生み出すことすらせず、
自ら城壁を
薙ぎ払って砲台を粉砕し、
家屋を踏み荒らし、必死の抵抗を続ける大陸軍人をその
大顎で
貪り続けていった。
**********
7年前。雨上がりのとある日に狩猟に出ていたピナスは、獲物を深追いしすぎて
泥濘に足を取られ、崖から滑落して脚を負傷してしまった。
何故深追いしていたかといえば、クラウザに
棲まう若い男が直近200年ほどの間で極端に減少してしまい、狩猟の担い手が不足しつつあったために、少しでも多くの成果を求めたからである。
減少の理由は、単純に人として
異形の姿であるラピス・ルプスの民を恐れ
嫌悪する人間によって、
或いはその
稀有な体毛に価値を見出す
下賤な
輩によって、狩猟に出ていた若い男が撃ち殺されてしまうようになったからである。
内戦時代という愚かしい時を経て、人間はより
容易く確実に人を
殺める武器を生み出し、携帯するようになっていた。
そのためラピス・ルプスの民は、安易に人間に姿を
晒すことがないよう一層厳しく喚起されるようになっていた。
況してや人間と接点を持つことなど論外であった。
「…ねぇ、大丈夫?」
それにも
拘らず、負傷に顔を
顰めるピナスの前にはいつの間にか栗毛の人間の幼女が
屈み込み、
鈍色の瞳を不安そうに
瞬かせていた。
滑落したピナスは不覚にも人間の村落に近い、草花が生い茂る広場に行き着いていたことを理解した。
幼女はその村落の住民であると思われたが、ピナスの銀色の体毛もそこに
滲む血にも臆することなく、抱えていた
鞄を
漁りながら声を掛けていた。
「待ってて。手当してあげる。」
「…!? やめろ! 触るでない!!」
「いいから!!」
だが幼女は強情にもピナスの拒絶を振り払うと、
鞄から取り出した筒を傾けて傷口を洗い流し、
軟膏を塗って手早く包帯を巻いて見せた。
幼いながらも慣れた手付きで介抱されることにピナスは複雑な感情を
抱いたが、新たにこちらへ近付いてくる足音を察知すると、
強張っていた顔つきを和らげるわけにはいかなくなった。
「…リオ、離れなさい。『
獣人』を見かけたら大人に
報せろって言われてたでしょ?」
リオと呼ばれた幼女と似たような、長い栗毛と
鈍色の瞳を持つ姉と
思しき人間の少女が、冷たく叱責するように呼び掛けていた。
その声音の
微かな震えと数メートルもの距離感から、
彼女は
『
獣人』について十分に言い聞かされ恐れを
抱いているのだとピナスは察した。
「でもお姉ちゃん、この子怪我してる。」
「そういう問題じゃないの! 出会ったら最後食べられちゃうってお父さんお母さんに言われてたでしょ!? 早くそこから…」
「お姉ちゃんの馬鹿! 大人に
報せたらこの子殺されちゃうんでしょ!? 怪我してるのに
可哀想だよ!!」
負けじと声を荒げた幼女の反抗を受けた姉は、何か言い返そうと一瞬表情を引き
攣らせたが、そのまま深い溜息をついて断念してしまった。その反応に
安堵した幼女は、ピナスに向き直って優しく話し掛けた。
「ごめんなさい。でも大人には
報せないから、安心して。えっと…私リオナ。こっちはお姉ちゃんのサキナ。あなたのお名前は?」
名前など答えるまでもなく、刺すような痛みが残る脚を引き
摺ってでもこの場を退散したいとピナスは切に願った。
だがその一方で、何の偏見も
抱かず怪我の処置をしてくれた人間の幼女の優しさを
無下にすることもまた、後ろめたい思いであった。
「……ピナス。」
「ピナス…じゃあ、ピナちゃんって呼ぶね!」
仕方なく答えたその名前を、リオナは姉妹の名の発音と重ねてなんとも嬉しそうに口にしてみせた。
その後
暫しの間、ピナスは人間の姉妹との会話に付き合わされることになっていた。
リオナからは雨上がりに効能が上がるという薬草を探して、村から少し離れた広場を訪れた際にピナスを発見したことを聞かされた。
他方でサキナは
未だピナスに警戒心を
抱きながらも、リオナがピナスと打ち解けたがっていたために、気が済むまで付き合っているように見えた。
「ねぇねぇ、ピナちゃんはいま
幾つなの?」
リオナは以前から『
獣人』に純粋な興味があったのかと思わせるような、
喰い入るような質問を繰り返していた。
「
齢は…おまえたちの感覚で言うなら、11か12くらいになる。」
「…そうなんだ? じゃあお姉ちゃんと同じくらいなんだね! 私はね…もうすぐ8つになるの!」
ピナスの
曖昧な返答にリオナはきょとんとした反応を見せたが、深く
囚われることなく近く訪れる自分の誕生日の話題へと移っていった。
会話とはいっても大半はリオナが一方的に
喋り、時折サキナが口を挟んで軽く言い合いになる程度で、ピナスから何か話しかけることは
皆無だった。
齢がサキナと同じくらいとは言っても、それは人間と外見的に合わせるための配慮であり、
既に23年を生きているピナスとはあまりにも
語彙量や精神面に
乖離があった。
——人間とは
解り合えないものだと思っていたが、
至極真っ当な現実だったな。外見の幼さが同じくらいでも、中身はまるで違う。我々は人として数えられても、人間とは本質的に異なる存在なのだ。
だがその一方でピナスは、リオナとサキナの屈託のない関係性に
細やかな
羨望を
抱いた。
ピナスにも
齢11の妹アリスがおり、外見的な
齢はリオナと同じくらいであったが、控えめで口数の少ないアリスとはここまで賑やかに会話したことなどなかった。
——
何故だろうか。居た
堪れないはずなのに、不思議と悪い気がしないのは。
無意識に
微笑ましさを覚えてしまったピナスは、痛みが和らいできたことを機に狩猟へ戻ろうとした際に、また明日もここで会おうと約束を取り付けようとしたリオナへ自然と
快諾の返事を口にしていた。
快諾には元々介抱の借りを返すつもりだったという背景もあり、翌日には自家製の干し肉を持参して人間の姉妹に振る舞った。
リオナはそれをとても美味しそうに
頬張り、
躊躇っていたサキナも妹に促されて仕方なく
齧ると、
満更でもない反応を示した。
ピナスはその2人の表情を
眺めていると、胸の内がほんのりと温かくなってるような気がしていた。
——ひょっとしたら、一部の人間とは
解り合える余地があるのではないか。この姉妹と
関わることで、今まで見えなかった何かが見えるのではないか。
そのほんの一握りの希望を少しでも多く
掬い取ってみたくなり、その次の日も姉妹と同じ広場で出会う約束を交わしていた。
だが、
流石に三度に及ぶ人間との交流を両親は
快く思わなかった。
とりわけ母プリムは、人間と関わることで娘がいつか悪魔を顕現させるのではないかと気が気でなかった。集落の事情から仕方なく狩猟の任を負わせているとはいえ、
頑なに再会を許そうとしなかった。
ラ・クリマスの悪魔は昔から女にのみ宿ると言われ、極力女性はクラウザから外界に出ないよう
自重する風潮があったため、ピナスは母の拒絶反応に無理を通すことが
憚られた。
一方でピナスの意志も尊重したかった父カランは、妥協案として明日を最後に人間の姉妹とは縁を切るようけじめを付けさせようとした。
ピナスは釈然としなかったが、これ以上の妥協は得られないだろうと
渋々同意せざるを得なかった。
来る翌日、天候は
愚図ついていたがピナスは約束通りに広場の茂みに身を
潜めて姉妹の到着を待った。
とはいえ時計など持っておらず、分厚い雲に日差しを
遮られて正確な時間を把握できていたわけではなかったため、いつまで経っても姿を現さない2人に
痺れを切らしつつあった。
——遅いな。昨日は先に待っていてくれていたのに。…何かあったのだろうか。
ピナスはそのまま別れを告げず集落へ帰るのではなく、
寧ろ少し人間の村に近付いてみようかと思い立ち、一旦茂みから身を
退こうとした。
だがその
刹那、鋭い発砲音が響くと同時に、銃弾がその茂みを突き抜けてきた。
尾を
掠めたその銃撃の理由をピナスは呑み込むことができず、一瞬で血の気が
退いてひっくり返ったような姿勢で硬直してしまった。
——狙撃された…!? 表には顔も尾も出していなかったのに……!?
少しでも物音を立てれば再びこの
鉛玉を撃ち抜かれるのではないかと
危惧する一方で、そのままの姿勢では銃口の位置も距離感も視認できなかったため、
身動ぎすら
躊躇われる状況に冷や汗が吹き出していた。
ピナスが銃撃に狙われたのは、これが初めての経験であった。