クランメの分厚い眼鏡の奥に浮かぶ
紺青の瞳に吸い込まれるように、カリムは問いかけに対して自然と口を開いていた。
「…僕も詳しくは知らないんです。『
陰の部隊』がいつから存在して、どれだけの規模を誇る組織なのか。いまディヴィルガムを持たされているのは僕ですけど、僕1人の力だけでラ・クリマスの悪魔と
対峙できたわけではないことは理解しています。」
「ですが、その舞台を意図的にお
膳立てされていたと思ったことはありませんでした。…最初にディレクタティオで悪魔と
対峙した時は、ドランジア議長から厄災が起こる可能性を
示唆されて事前に現地で待機していましたが。」
「ドランジアが予見したんはディレクタティオんときだけやったんか?」
「あとはメンシスとグリセーオ…ですけど、グリセーオのときは大まかに大陸東部での待機を指示されていただけです。」
するとクランメは何か納得したように
頷いたが、その表情はどこか
忌々しいものを
眺めるような目つきをしていた。
「やっぱりな。ドランジアは最初から何人かに目星を付けとって、直接的か間接的かはさておき手を下すよう
丹念に仕込んでたんや。」
「…そう言いますけど、具体的に議長が何を
謀ったっていうんですか?」
カリムが
訝しむ通り、この先はクランメが何の証拠も
掴んだわけではない、憶測と捉えられても仕方がない内容であった。
——でも無反応や無関心よりはよっぽどええわ。こっからは、うちの実体験にどれだけ
信憑性を持たせられるかにかかっとる。
「ちょいと話を戻すけどな、厄災を起こすためにラ・クリマスの悪魔が重視するもんは、君も知っての通り悪徳の強さや。せやけど厄災の規模をより大きく、長期的に発達させるためには、そんだけ膨大な魔素が必要になる。」
「人の体を蒸気機関車に例えるなら、魔素は石炭、悪徳は
火室の炎、そして悪魔は
投炭者や。蒸気機関車の出力は
火室で
如何に大きな熱量を生み出せるかに掛かっとる。とはいえ、それを維持する
投炭者は過酷な労働を強いられる。
況してや石炭を外から補充しながら
火室に
焼べるなんて初動は
怠すぎる。…でも逆に言えば、最初から石炭が
仰山積まれとる車体なら
悦び勇んで仕事に励むと思わんか?」
「つまり、それなりに悪徳を高めた
者に
予め魔素を過剰摂取させとけば、悪魔が顕現しやすい条件が
出来上がる。あとは
些細なきっかけで悪徳が更に高まれば、悪魔が顕現して仕事を始めるようになる。」
「…
勿論これはただの推論でしかない。でも恐らくうちがその
被験者第1号
やったんや。うちが悪魔を宿したんは
凡そ5年前…ドランジアに
喰わされたリンゴに、魔素がみっちり染み込まされとったんや。」
カリムはこれまでの説明のなかで最も
驚愕を受けたように目を
瞠り、少し血の気が
退いているように見えた。
——
何や、
未だ仮説の段階やのに
蒼白な顔になっとる。…まぁ食い付きが良いに越したことはないけどな。
「ドランジアもまた、魔素を認識し操ることができる奴なんや。具体的な能力は生意気にも明かそうとせんかったけど、
魔魂として魔力を可視化させたり、単純な構造や形状の物体なら魔素を浸透させることが
出来よった。」
「そもそもそないな技術があらへんかったら封瓶なんて開発
出来てないねん。液体はうちが仕込んどる言うたけど、それが機能するかの実験には毎回ドランジアが立ち会って、そん都度
疑似的な
魔魂を生成してもらってたんやで。」
苦労して作り上げた封瓶が、決して欠陥品ではなく試作品であるという主張を補完するようにクランメは言い聞かせようとしたが、カリムはこれまで以上に
神妙な
面持ちで質問を挟んできた。
「あの…ドランジア議長にも、ラ・クリマスの悪魔が顕現しているってことなんですか?」
「それは
解らへん。伝承される7体以外にも悪魔が存在するんか、大前提として奴が何の悪徳を
拗らせてるんか、それとも悪魔を宿さんでも魔素に干渉する方法があるんか。…ただ、断言できることは2つあんねん。」
「1つは、ドランジアはうちが悪魔を宿すより更に何年も前から魔力を
培うとること。そしてもう1つは、そんな奴が今や一国の首相に成り上がって、この大陸を表からも裏からも
牛耳れる椅子に座っとるってことや。例えば、大陸中を
行脚しとる国土開発支援部隊に『
陰の部隊』を
紛れ込ませて、食糧物資に魔素を染み込ませたリンゴを混入させて拡散する…なんて手口も不可能やない。」
「実際の手段は憶測でしか語れへんけど、確かな道具と豊富な手駒が
揃ってりゃ
幾らでも
遣り
様があるってことなんや。…どうや? 多少は自分の上官を疑う気ぃになったか?」
クランメは少し休憩を挟むように
温くなった
珈琲を
啜りながら、カリムの表情を
窺おうとしていた。
——今のところは順調に思えるが…
未だ本来の目的である
幇助の取引に決定打を放ったわけやない。この子にも少しばかり自分で考えさせる時間を与えてやらんといかんな。
暫くして、情報の洪水に溺れないよう
藻掻いていたカリムから投げ掛けられたのは、至って
素朴な疑問であった。
「あの…リヴィアさんは、
何故これまでドランジア議長に協力していたんですか? …失礼を承知でお尋ねしますが、悪魔を宿している
貴女であれば
幾らでも、あの人が議長に成る前にでも抵抗する手段があったように思えます。」
その真っ当な問いかけに、クランメは苦笑を浮かべて椅子に
凭れかかった。
——あんまし昔のことは思い出したないんよな。…『
嫉妬』が再発するかもしれへんし。でもこの子に理解してもらうためには、この
期に及んで出し惜しみをするべきやない、か…。
クランメは腹を決めて
珈琲を一気に飲み干すと、ゆっくり溜息を付いてから語り始めた。
「せやな…
柵、制約、そして不意打ち、色んな条件と結果が重なって今日まで来てしもた。さて、どっから話そうかね…。」
**********
10年前、大陸南西部ミーティス州の
田舎を出てグラティア学術院に入学したクランメは、その初日から院内で名を
馳せていたルーシー・ドランジアという同期生の存在を
垣間見ることになった。
ドランジアという姓を知らぬ者は、少なくともこのグラティア州には存在しないだろうと言われていた。。
約150年前に長く続いた内戦時代が
終焉を迎え、共和国としての政治体制を作り上げた立役者として、学舎の授業では2つの家名を教わるのが決まりであった。
1つは、内戦における事実上の勝利者として現代における大陸平和維持軍を創設したピオニー家。そしてもう1つが、共和制の
礎として大陸議会を創設し現代へ
繋がる立法体系を起草したドランジア家であった。
ピオニー家が今でも貴族の
名残を残しているのに対し、ドランジア家は庶民の生活に根付いていながらも
突如として大陸史の表舞台に現れ、世襲で大陸議会を
牽引し続けてきた異色の背景を持っていた。
3年ほど前までも大陸議会の議長を務めていたのがナスタ―・ドランジアという男であり、ルーシーはその次女として、大陸随一と評されるグラティア学術院に入学した事実が
既に脚光を浴びていたのであった。
だが他の同期生が野次馬のようにルーシーの周囲に
集る
様を、当初からクランメは
鬱陶しそうに
眺めていた。
ルーシーの
黄金色の眼光は、脚光を浴びて当然だと言わんばかりの
太々しさを放っているようで、それでいて何か野心に満ちた鋭さを
湛えているように感じられた。
そして周囲の期待通りに、ルーシーは
颯爽と主席の座に就くことになった。
田舎の農家育ちだったクランメが必死に勉学に励み、
漸く
辿り着いた学び
舎で
目の当たりにする親の七光りは、
反吐が出るような印象だった。
そのうち政治経済専攻であるはずのルーシーは、何の意図か他学部の研究にも顔を
覗かせるようになっていた。
それはクランメが所属する農学部も例外ではなく、ある日には農業盆地として発展しているセントラムの土壌調査へクランメと共に同行していた。
当時は
壊月彗星が最接近していた時期でもあり、5年に一度の豊作期に関心があったというルーシーの動機をクランメは小耳に挟んでいたが、直接会話を交わすことはなかった。
それどころかルーシーはセントラムに到着しても
頻りに
宙を仰いでは思慮に
耽っているばかりで、まるで
魂胆を推し
量ることができなかった。
だがこの時既にルーシーには
壊月彗星から降り注ぐ魔素が視認できていたのではないかと、クランメは後になって思い返すことになった。
一方でクランメが掲げていた研究目的もまた、セントラムの周期的な豊作期に関連していた。
プディシティア州の主な生産品が野菜や果実であるのに対し、故郷であるミーティス州は麦などの穀類が生産の中心であったが、セントラムで見られるような周期的な生産量や品質の変動は特段生じていなかった。
クランメはこの特色の違いについて、千年近く前に大陸に墜ちた隕石を引き合いに着眼点を
見出そうとしていたのであった。
「セントラムの盆地は千年前の隕石の衝撃で
丘陵地帯が
陥没したことに由来しとる。せやけど現代で確認されとる隕石は、グレーダン教総本山で十字架や
司教杖に加工されとるもんを除いて
未だに残存してへん。」
「セントラムの地形変動を考慮するんなら、もっと
馬鹿でかい質量の隕石が見つからんと
可笑しいのに、この千年の間に
欠片も出土した記録が残されてへんのや。例えば衝撃の熱で土壌に溶け出して、特殊な成分として
馴染んどるんかもしれんやろ?」
だが当時は農学と考古学を結び付けるような取り組みは評価が得られず、
況してや考古学に
於いてもクランメ自身が述べた背景の通り、隕石は研究の余地のない遺物として扱われていた。
それでもクランメは農学を専攻する
傍らで、幼い頃に読み聞かされ
浪漫を抱いた伝承上の隕石の研究に、どうにかして一枚
噛みたいという野望があった。
元より学術院への進学は故郷の農業発展に寄与することが目的だったが、大陸随一と名高い学び
舎ならばより詳細に研究した記録があるのではないかと期待し、施設内の書庫に日常的に入り浸るなどしていた。
そんななかクランメの研究課題をどこかで聞きつけたのか、不意に尋ねてきた1人の学生がいた。
「大昔の隕石と農業を関連付けようとしてる変人は君の事かい? 良かったら話を聞かせてくれないか。」
「…あんた
阿呆なん? 変人に興味持つんは変人しかおらんのやで。」
それがクランメにとって、初めてルーシー・ドランジアと口を
利いた瞬間であった。