第137話 錆びた線路【8】

文字数 933文字

【8】

 そんな淋代の人々の献身的な協力の逸話と共に、私は祖父の言葉を思い出していた。

『戦後、占領軍から「日本人の精神年齢は十二歳並みだ」という言葉が出て、それが一種の流行語のようになったことがありましたなぁ』

 他人の夢やロマンに対して純真に共感し、損得抜きで献身的に協力する様は、まるで十二歳の少年の行動と重なるのだが、これは淋代の人々と言うより日本人の特質のように思える。
 しかし、その日本人の「純真さ・共感性・献身的」という一見ナイーブな特質は、実は日本人の宝なのであり、その特質こそが、現代までの日本を造り上げてきたように思えてならないのだ。

 その好例が、祖父が尊敬してやまなかった本田宗一郎だろう。
 磯崎技研の社名は、畑違いの業種にも関わらず祖父が本田技研にあやかって付けたものだ。
 本田宗一郎は、技術者としての姿勢を貫いた企業経営者であり、日本人として初めてアメリカの自動車の殿堂入りした人物であり、終生夢追い人であった。

 彼は、創業時の経営危機の際に、世界のバイクレースの桧舞台であるマン島TTレースに出場宣言し、周囲から非難や冷笑を浴びせられながら、エンジン開発の不可能を可能にし、数年後にはそのレースにおいて、一位から五位までを本田のバイクが独占するという快挙を成し遂げた。

 また、七十年代アメリカで制定されたマスキー法という排出ガス規制法に対して、当時アメリカの全自動車企業がそのあまりの基準の厳しさに、基準のクリアーは無理だと法案の見直しを訴える中で、唯一日本メーカーであるHONDAだけは異を唱えず、遂にはCVCCという世界初の排出ガス規制をクリアーするエンジンを作り上げたことは、今も自動車業界の語り草になっている。 

 そんな、本田宗一郎が成し遂げた偉業の数々は、彼の「HONDAを世界一にする」という、当時の状況からすれば途方もない「ナイーブな夢」が根本にあり、周囲の者を巻き込むほどの「情熱」が原動力であったのではないか? 
 そして、それはまるで十二歳の少年の好奇心や純真さや真っ直ぐな行動力のようにも見える――。

〈そんな日本人の特質を、「幼い、拙い」と嘲笑って捨ててしまってはいかんな……〉

 また冷たい風が耳元をさあっと吹き抜けた――。
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