第114話 足跡を辿って【3】

文字数 1,126文字

【3】

 航空科学館の位置と重なる「乙基地」の官舎は、一式陸攻が駐機していた巨大な「北部飛行機援体地区」と「東部飛行機援体地区」の中間に位置している。
 一式陸攻の搭乗員であった祖父が寝泊りしていた場所は、どちらの援体地区にもすぐに駆けつけられる場所、つまり「乙基地」の官舎であったはずだ。

〈ということは……、あの場所が「乙基地」だとすれば、もしかしてジイちゃんは、あの航空科学館があった辺りに寝泊りしてたってのか?〉

 一瞬、鳥肌が立った。
 私はそのことを全く知らぬまま、その場所に足を踏み入れていたのだ。

〈あの写真の、一式陸攻が黒煙をあげている光景を、ジイちゃんはあの場所のどこかで実際に見てたんだな……〉

 私の脳裏に、航空科学館で目にした、あの雄大な八甲田山の峰々がまざまざと甦った――。

 『ミサワ航空史』に目を戻すと、航空科学館の展示で気になっていた「藤部隊」についても次のような記述があった。

【昭和19年7月10日の海軍の機構改革で、横須賀海軍航空隊審査部が、横須賀から三沢に移動して来たのは、昭和20年4月~5月であった。
 この部隊は、試作機や改造機などの試験や飛行実験をおこなう部隊であったが、もともと海軍航空廠飛行実験部という機関で、機構改編で横空審査部と改称されていたが、三沢基地に移駐してからは「藤」部隊と呼ばれていたのである。
 この部隊の行っていたことは、
海軍試作重爆撃機「連山」の試験飛行
我が国初のジェット特攻機「橘花」のエンジン「ネ-20」の空中実験
試作戦闘機「烈風」の飛行試験
零式戦闘機六四/五四型の試験飛行 などであった。】

 読み進めるうちに、更に興味深い記事を目にした。

【三沢基地の横空分遣隊審査部長から横空司令官に宛てた飛行機の実情報告の電文が残されてあり、米海軍艦載機による被害状況が報告されている。電文は以下の通りである。
 「関連当部飛行機ノ実情左ノ如シ 一、零戦六四型、烈風並ニ連山ハ何レモ九日一○日(注・20年8月)米機動部隊来襲ノ際被爆中破ノ為右ノ理由ニ依リ現状ニテハ整備不能ナリ」
 この電文によって、「零戦六四型」「烈風」「連山」が三沢基地に配転されていたことが、実証されるのである。】

【烈風は「零戦の再来」といわれており、第一技術廠の戦闘機担当官は、「昭和20年に本機が2000機あれば、戦局は逆転せりというも過言ならず、その優秀さは欧米にも比類を見ず。まさに世界一の(プロペラ)戦闘機といい得べし」と絶賛している。
このような絶賛の言葉が出たのも、ヘルキャットやムスタングなどの高性能戦闘機に圧倒されていた戦争末期の当時としては、「烈風」の出現は、まさに干天の慈雨どころか、救世主の出現と思えたのであろう。】
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