第11話 カセットテープA面【5】

文字数 942文字

【5】

 戦後、祖父が一代で興した会社は、父が跡を継ぐ頃には時流に乗って県内でそこそこの地場企業となっており、父の代にはなんとか安定成長を続けていた。
 バブル崩壊後の「失われた二十年」から右肩下がりの経済環境が続くなか、五年ほど前に兄が社長、次兄が常務となり、経営内容は必ずしも順調とは言い難いものの、世間的にはどうにか体面を保って会社を存続させている。

 私は二人の兄とは性向が違っていたようで、実業の世界には進まなかった。
 大学院を出てから、なんとか文系の私立大学に潜り込み、今は語学の准教授として教鞭をとっている。

 祖父は、息子や孫に自身の戦争体験を話さなかったかわりに、多くの油絵を残して旅立っていった。
 祖父が油絵を始めたのは、父を社長に据え、自分は会長となって半ば引退した頃かららしい。
 祖父の油絵のモチーフは、四季の自然や樹木や草花という素人画家にありがちなものだったが、その画のどこかに必ず蝶が描かれていた。

 それは季節に関係なく、冬山を描いた雪景色の中にも蝶が飛んでいたし、花火の上がる夏の夜景にも、薄紫に染まるコスモス畑にも、稲穂が頭を垂れる黄金色の田圃にも蝶が舞っていた。
 それはたった一羽のときもあれば、いくつもの蝶が乱舞していることもあった。

 六十歳を過ぎた頃、有名な公募美術展で初入選したときに地方紙の新聞取材を受けてから、地元では『蝶の画家』と言われるようになったらしい。
 その画の数も膨大になり、七十を迎えた祖父は古希の記念にと、それらの画と共に所蔵の美術品を公開する小さな美術館を社屋の敷地の隅に建てたのだった。

 その『磯崎記念美術館』という名前だけはやけに立派な素人画家の美術館の現在の館長が、私なのである。
 二ヶ月に一度、忙しいときは三ヶ月に一度、実家に帰って美術館の掃除をしたり、作品の入れ替えをしたりするのだが、もとより訪れる人もほとんどいないので、その作業にはまことに張り合いがない。

 しかし、「文系の大学で語学をやりたい」と言い出した高三の私に、烈火のごとく大反対した父を制して、「一人くらいそんなのがいてもいいじゃないか。俺は賛成だ」と予想外の助け舟を出してくれた祖父への恩返しだと思いながら、無給の館長を引き受けてかれこれ十年になる――。
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