第141話 錆びた線路【12】

文字数 793文字

【12】

【マッチ擦るつかのま海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや】

 三沢は、おそらく戦後の日本でもっとも早く復興した街であり、どこよりも早くアメリカ文化に触れ、それ以来長らく慣れ親しんできた土地だ。

 戦争が終わってすぐに寺山食堂の真ん前は、基地建設のために日本各地から集まった労務者の群れで溢れかえっていた。
 その喧騒は昼夜を問わず続いていたことだろう。
 少しだけ開けた二階の窓から、その光景を息をひそめて覗き見している修司少年の姿が目に浮かぶようだ。
 寺山は、日本人の誰よりも早く、戦後の日本の復興とそれに伴う、狂乱ともいうべき人々の姿を目の当たりにしていたと言えるだろう。

 そして寺山は、戦後の大人たちの節操のない転身を、これもまた誰よりも早く、それも最愛の自身の母の豹変に見出していた――。
 修司少年の瞳は、夫の戦死を知って無理心中を迫る母の狂気をみつめ、派手な化粧をし見慣れぬ洋服を纏ってヤンキーのジープに乗せられて帰ってくる母の嬌態をみつめ、愛人である米軍将校を追って九州に旅立つ母の背中をみつめた。
 十歳の少年が見た戦後とそこに生きた大人たちの姿、三沢での原体験こそが「表現者寺山修司」の原点ではないのか。

 寺山にとって、己の母の狂態こそが、戦後の日本と日本人の姿そのものなのだ。だから、寺山にとって「身捨つる祖国」などありはしないのである。

 そう考えれば、寺山のあの歌は、赤黄男の句に対する真摯な返歌ではないのか。
 それは、体裁はどうであれ寺山の心情の真っ直ぐな吐露であり、寺山にしか詠み得ない歌なのだろう。
 彼にとって、そこに剽窃や虚構は存在しないのだ。

 そして……、祖国には冷淡な寺山も、「故郷」と「母」からは生涯逃げ切れなかった。
 寺山はそのふたつを、自身の表現のをモチーフにすえて世界に羽ばたいていったが、その動機は、それらに対する「復讐」ではなかったのか――? 
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