第3話 プロローグ【2】

文字数 1,282文字

【2】

2016年 初夏

 飲み残した缶ビールを(あお)ると、もう温くて苦くなっていた。
 通路側の席はまだ空いており、私は気兼ねなく帰途の新幹線の窓側のシートにもたれていた。
 初夏の夕陽に照らされた田圃は、まだ出穂には程遠く青々とした芝生のような色をしており、この北国の木々の緑と同様に心なしか色彩が薄いように感じられた。

〈それにしても、こんなところで赤黄男(かきお)の句を聞くとは思わなかったなぁ……〉

 黄昏ゆく車窓の光景をぼんやりと眺めながら、私は今日講師として招かれた市民セミナーの様子を思い返していた――。

 *

「えー、ご覧の、このふたつの英文は、寺山の代表的な短歌を英訳したものです」

 【 Striking a match
    momentarily
  I see the foggy ocean-
   is there a motherland
  I can dedicate myself to ?】

 【 I rubbed a match.
  In the sea which I saw at the moment, fog was deep.
  Is there the mother country where I give a life to ?】

「それでは、寺山のなんの歌か、お分かりになる方はいらっしゃいますか?」

 東北の人は引っ込み思案な人が多いと聞いていたので、答えはないと思っていたら、ひとりの若い女性がすっと挙手をした。

「あ……、ど、どうぞ」

 少々、虚を衝かれた私はまごまごしながら彼女を指した。

「マッチ擦るつかのま海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや、だと思います」

 訛りもなく、澄んだ声で彼女は寺山修司の歌をこともなげに詠んでみせた。周囲の参加者から「おーっ」と軽い歓声があがった。

「ご名答です、素晴らしい。ありがとうございました。さすがは寺山の地元ですね。
 このように皆さんのレベルが高いと、私も心してお話しなければいけませんね」

 八割が女性の参加者たちは、私のそんなお追従(ついしょう)に嬉しげに隣と顔を見合わせていた。

「では、ふたつの英訳を見比べていきましょう。
 前者は、英語圏の文学者が訳したもの、後者は日本人が訳したものです。
 作者の心情と歌の雰囲気を再現しようとする前者に比べると、後者は説明的で単なる叙述に留まっています。
 それも無理はありません。後者は私のゼミの学生が訳したものでして、これでも短歌らしいテイストが残っているシンプルなものを選んだのです。
 英語の得意な学生ほど修辞が多く散文的になりすぎまして、短歌本来の味わいから離れているものが多かったのです。
 例に出したのは、普段はあまり成績の良くない男子学生のものです。もしかしたら、ネットの翻訳サイトを使って出した答案かもしれませんが……」

 そんな冗談に座も湧きながら、予定調和のうちに会も終盤の質疑応答となった。
 これも、世話役からは「形ばかりの質疑応答です。質問はほとんどないと思います」と聞かされていたのだが、しょっぱなから手が挙がった。それは六十歳前後の女性だった。
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