第142話 錆びた線路【13】

文字数 903文字

【13】

 この三沢の地から世界に飛び立った男がもう一人いる。
 戦争写真の世紀の傑作といわれる『安全への逃避』を撮った、戦場カメラマン沢田教一である。
 青森市生まれの沢田は、昭和三十年から米軍基地BX(Base Exchange 商業施設)の写真店でアルバイトをしていた――。

 当時の沢田は、写真現像の技術が未熟過ぎて写真部からアクセサリー部門へまわされていた。
 また、趣味の撮影の際、海岸で遊ぶ子供たちの姿を遠くからしか写さない沢田に、「もっと近寄って撮影しろよ」と先輩が言うと、「なんか気まずい」と答えて全く近づこうともしなかったそうである。

 そんな極度の人見知りの田舎の青年が、三沢基地で知り合った米軍将校の伝手でUPI東京支局員となり、その後サイゴン支局員となって、あの写真を撮るのである。
 ベトナム戦争の終結を二年は早めたといわれる『安全への逃避 Flee to Safety』や、『泥まみれの死』『敵を連れて』などの写真は各国の写真賞を受賞し、沢田の写真集は日本人としては二人目のピューリッツァー賞報道写真部門を受賞する。

〈米軍基地が隆盛だった頃の三沢って、人をインスパイアする何かを持っていたんだろうな……〉

 吃音の寺山と人見知りの沢田――、沢田は寺山の一つ下。
 ポートレートのふたりの眼差しはどこか似ている。
 もしかしたら、田舎の市井の人物で生涯を終えたかもしれないふたりを、世界の桧舞台に押し上げたのはまぎれもない三沢という街と米軍基地であった。

 病身を押して時代を駆け抜けた寺山は四十七歳で没し、サムライ・フォトグラファーと呼ばれベトナム戦争を撮り続けた沢田は、その戦場で三十四歳で没している。
 それは短すぎる人生であったのかもしれないが、彼らが駆け抜けた人生は、まさに戦後の世界を体現したものではなかったか。
 ふたりの人生に三沢という交差点がなかったら、彼らのその後の人生はまったく違うものになっていただろう。
 そして、それは寺山や沢田だけでなく、激動の時代に日本とアメリカがクロスした三沢という交差点を通り抜けた多くの人々の人生にも言えることだ。
 その通行人の一人に祖父がいた――。 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み