第21話 存在するということ

文字数 1,563文字

 それは一体どういうことなのか。とても考えてみたい。
 関係としての存在、他者と自己。
 在る自分自身のうちの存在としての自己、根源的なところ。

 存在するということは。
 存在するということは。

 図書館に行こう。

 出掛けに、玄関前で、こちらに向かってくるふたりの女性。
「おでかけですか?」(レレレのおじさんか。)
「ええ、でかけます」
「おでかけのところ、申し訳ないのですが、」と、「真理」と書かれたパンフレットのようなものを1人の女性が、私に。
「ああ、宗教はちょっと苦手なので」
「いえ、宗教ではなくて、云々」
「うん、学問としてなら面白いでしょうけれど…」私もわけのわからないことをいって、とにかく受け取り拒否。

 おでかけのところ、すみませんでした、と女性がいい、いえいえ、と私は家に鍵をかける。ふたりの女性は隣家へ向かう。

「真理」は、自分でさがす。
 図書館は、西洋哲学コーナー、カントやヘーゲル。キケロ、プラトン…なぜかハイデガーが多かった。
 で、借りてきたのが、池田晶子の「41歳からの哲学」と、一番読み易そうだった「ハイデガー 存在の謎について考える」(シリーズ・哲学のエッセンス、NHK出版)著者は、北川東子さん。
 ハイデガーの言葉はとても難しい。が、北川東子さんの言葉はわかりやすい。

 おもしろい。

 …すでに自分がわかっていることについて、わざわざ考えようとすること、これを循環論法という。
 ハイデガーは、「円環の道」と呼んでいた。「結論先取り」である。(これは、結局は、もともとわかっていることにたどりつくだけであって、無駄な議論の典型とされる。)
 たとえばハイデガーが考えた問題、「芸術の本質とは何か」。これを考えるためには、真の芸術作品をよく見ることが必要となる。けれども、ある作品が本当に真の芸術作品であるかどうかを決めるためには、「芸術の本質は何か」をわかっていなければいけない、という具合。「芸術の本質」という問題をめぐって、堂々巡りをするだけ。

 こうした循環論法は、一般に不毛な議論とされるが、ハイデガーは、反対に、「強み」だと言う。
 私たちが原理的で本質的な事柄を考えるとき、思考は必ずぐるぐる回って最初の出発点に戻ってしまう構造をしていると言う。
 だいじなのは、この円環を抜け出ることではない。この無駄と思える思考の運動のなかにあえて跳び込んでいき、「この道にとどまりつづけること」である。それこそ、「思考の祝祭」だと言う。(!)

 古代ギリシャのデュオニソスの祭りを哲学のテーマにしたのはニーチェだったが、「思考の祝祭」とは、デュオニソスの祭りのように、狂ったように踊り続けるうちに、次第に陶酔が起こり、その陶酔のなかで新たな知恵が開けるような状態をいう。
「存在とは何か」── この本質的な事柄に関わる以上、私たちも思考の円環のなかに跳び込む覚悟が必要になる。

 実際、ハイデガーのさまざまな考察は、一見、何の結果ももたらさないような堂々巡りの思考運動の印象がある。
 その堂々巡りのなかで、何かが見えてくるのを待つ、「存在」そのものの姿が現れてくるのを、じっと待つような印象がある。
 …こうしたハイデガーの手続きは、私たちの生きる仕方に似ている。人生の難問にぶつかって、ひたすら問いを発することしかできないときがある。
 そのようなときに、私たちは、機が熟すのを待つようにしか生きることができない。
 いわば、答のほうが、私たちに姿を見せてくれるまで、問いの円環のなかで待ち続けるわけだが、ちょうどそのように、ハイデガーは、問うことの円環のなかにとどまり続ける。……

 ── 以上、ざっと、かいつまんで引用。北川東子さんは「です・ます」調で書かれているので、実際はもっと読みやすい。

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