第4話 猿のような子どもだった頃 

文字数 857文字

 性欲は、身体を喜ばせるものには違いなかったが、

〈 快楽も、深く落ちれば苦痛になる 〉

 もし健康であり普通であるということが、成長の安定を計る尺度だとしたら、私は不安定な、偏った天秤ばかりをもった子どもだった。親に心配を掛け、困らせるための要素には、事欠かなかった。多くの子どもがそうだとしても、私はやはり極端だったと思う。0か100かといった性質、これは大人になっても変わっていない。

 今、自分は性の衝動には理性をもって対しています、などと言ったって、なんの自慢にもならない。当たり前のことなのだ。あの子どもが、もしあのまま大きくなったら、罪がいくつあっても足りなかったろう。

 食べ物の好き嫌いが極端な人間は、人への好悪の感情も同様になるという。学校に行かなかった私が、唯一、今現在後悔できるとしたら、「イヤな人間とつきあう」訓練を受けずに来たから、その術を自分に体得できなかったことだ。

 だが、それは仕方がなかったとしか思えない。私は確かに甘やかされて育ったけれど、逆に言えば、甘やかされなければ育たなかったのだ。
 そして、それほど公共に迷惑をかける人間になったとは思えない。むしろ、わがまま好き勝手に育ったような私が、どうして社会にひどい災害を及ぼさずにいるのかということを考えたい。
 懺悔後悔は、どちらかというと感情的な刹那の部類だから、「考える」理性の方が細く長く続く持続する。

 ところで、哲学が、様々なものの見方、多様な考え方を学ぶ学問であるなら、「学校に行かなくていい」という考え方に、私は救われた人間だった。
 親が、そう考えてくれたことが、同じ家に住む日常の細部に渡って、私には実感できたし、これほど心強いものはなかった。

 考え方が、私の生活をつくっていた。これを、身をもって知ったことは、空気のように大きな影響を私に与えた。キルケゴール、ニーチェ、モンテーニュ、老子荘子ら「世界の名著」が兄の本棚にあったことも手伝って、子ども心に、漠然と「思想」というものの存在、その匂いは嗅いでいたようだった。
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