第7話 哲学の起源

文字数 665文字

 思想、哲学、考え方、といったものは、それを持った人が自分に楽になるように使われなければ、かれらも不本意だろう。
 かれらは云うだろう、苦しみをもたらすために、われわれは生み出されたのではない、と。
 実のところ、この世に、そのようなものは、ひとつもないのだ、と。

「私」は無いとする考え方がある。それは、何か考える時、「考える」という思考が思考しているのであって、「私」が考えているのではない、という。
 同様に、何か感じるというのも、「私」が何か感じているのではなく、感受するところのものが感受するのであって、「私」が感じているのではない。

 耳は、耳が耳として、音を聞き、眼は見たものを見、鼻は鼻として空気を出し入れし、口は口として、ものを入れたり出したりする。心臓、肺、その他の臓器、血の流れ、これらの「私」をつくり「私」を「私」とするところのものは、すべて、各々が各々のはたらきを各自にしているだけなのであって、「私」のものではなく「私」自身でもない。

 生命も、生きていようが死んでいようが、実は「私」には関係のないところのものである。生が、向こうから来たのと同じように、死も、向こうからやって来る。生命が「私」のものだったら、死にたい時に死に、生まれたい時に生まれ、自由にできるだろう。
 では、「私」とは? それらの傍観者、あるいは、それらの監視者である──

 2500年前、そのような思想を宗教家が。その100年ほど後、無知の知を知った哲学者が。インドとギリシャ、それぞれの国で、自己について人間について、考えていたということ…
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