第25話 暴力について

文字数 976文字

「愛を乞うひと」の下田治美が亡くなった時も驚いたが、その一人息子のリュウ君が酷い暴力を受けたという話を見た時も、心が痛んだ。
 もう何年前になるのか、派遣社員か何かで、有名なナントカ電気の店に勤めていたリュウ君が、家に押し掛けてきた店の正社員どもに殴る蹴るの暴行を受けたのだ。
 どんなことがあっても、こんなのは許されるべきでない。しかも、お母さんの目の前でである。どんな気持ちだったか…

 以来、私はそのナントカ電気からは、どんな安い物も買わない。同時に、下田さんの明るい作品が好きだったのだが、つらくて読めなくなってしまった。もともと下田さんは精神的に不安定なところもあったと思う。それが、暴力を目の当たりにして、いっそうひどくなったのではないかと想像する。下田さんの死因はよく分からないし、リュウ君もその後どうなったのか分からない。
 暴力というものは、何も生まない。子どもへのそれは恐怖と残酷しか与えないし、「愛のムチ」などという美化を私は認めない。

〈われわれの病いは、それに対して行なわれる手当てによって悪化する〉(出典不詳)

 私は、人間に(自分に)潜む残酷さを最大に恐れている。ローマでは、動物たちを虐殺する見せ物に飽きてしまうと、人びとは、人間の剣技者たちの虐殺を見て楽しむようになったという。

〈ああ、きみの見ているものは、すりへった肉体の骸骨でしかないのだ〉(マクシミアヌス)

 ソクラテスの顔つきは、その内面とは反対の外貌を示している。彼は、「自分の生来の醜悪さは、自分の修養によってためなおされた」と云っている。人間には、厄介だが、理性とよばれるものがある。
 ある人が、アンティステネスに向かって訊いた、「最もよい学び方は何ですか」
 彼はこう答えた、「悪を学ばないようにすることだ」
 恐怖と残酷を覚えさせる暴力は、遠からぬ悪の親戚ではないだろうか。
 モンテーニュが「子どもの教育について」の中で語るように、子どもに一切のムチはふさわしくない。

〈抜け殻に対してならよいが、生身に対して加えてはならない〉

 昔々のペルシアでは、何か悪いことをした者達に対して、その衣服を脱がせ、彼らの代わりに衣服をムチ打ったという。それだけでも、観衆たちは充分に震え上がったということだ。
 人間には、想像という、厄介だが、使いようによってはとても有益な性能がある。
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