第9話 「長く生きたい?」

文字数 1,309文字

 そう問われて、Yes、と何の曇りもなく答えられる人は、どのくらい、いるだろう。
 笑顔で、もちろん!と言える国であれば、きっとそれは良い為政が行なわれていることだろう。

 中国の思想家・老子は、一種の無政府状態にこそ真の民の幸福があり、無為なる国家を理想とした。それは実在したユートピアでもあった。国土の広い彼の国では、政府の目の届かぬ農村地帯があった。そこで農民たちは、今どんな政治が行われているのか、全く知らずに、実にゆうぜんと暮らしていたというのである。

 孔子の時代、道徳や仁義こそ美徳とし、それを民に根づかせることによって国家の安泰をはかろうとした。老子は、それに反発するかのように、そんな人為による徳が、国を頽廃させたのだ。政治は民に何を強要することなく、無為であればよい。人間には、おのずから生きていく力がある──とまではハッキリいわないが、放任主義の如き「無為自然」を説いた。

 孟子の「性善説」というほど、やはり老子は明確にものをいわない。白黒ハッキリした言葉を残さなかったから、どうにでも解釈でき、また難解ともいわれ、それが老子の言葉を2000年以上も残した力でもある。
 老子は政治的な視点をもっていたが、荘子となると、もはや政治への関心など皆無になる。荘子自身に最も近いとされる「内篇」は、生きるとはどういうことか、といった永遠のことにのみ主題が置かれ、弟子たち(というより後世の人たち)が書いたといわれる「外篇」に、政治への近づきが見られるだけである。

 それにしても、思想、つまり人をその人となりにさせる哲学といったものは、どうしたところで「時代」と無関係でいられない。
 荘子が内篇を書いた頃、中国は戦国時代の真っ只中(モンテーニュがエセーを書いたのも内戦の真っ只中だった)。弟子のような人々が書いた外篇は、戦のときが過ぎ、平安が訪れる頃だった。インドではバラモンの人々が真摯な修行と生き方をしていたが、国が富をみせていく時代になると、経典の内容を変えはじめ、贅沢な暮らしに憧れて質素な生活を放棄してしまった。

 老子は、結局文明の利器など、人を幸せにすることはない。これをものにすれば、またべつのものを欲しがっていく。欲がある限り、果てしなく、満たされない。便利なものなど、民に見せぬほうがよい。ないならないで、やっていけるものだ、といった、為政についての意見めいたことも云っている。

 ところで、今は、どんな時代なのだろう。自分に、そんなだいそれた定義はつけられない。ただ、みんな、下を向いているような気がする。
 三無主義とか新人類とかゆとり世代とか、その時代時代に何かと名称がつけられるが、下降志向世代…名もなき時代、何か物質はありそうだが物質以外は何もない、何も残らない「無」の時代のような気がする。
 個性なんて上っ面ばかりで芯も核もなく、何も上昇することはない。特に目標もない。現実の直視もつまらない。下を向くしかないではないか…自分がそうだからそう見えるのだろうか。

 何が言いたかったわけでもない。ただ、今日はいい天気なのだ。少し遠くまで歩こう。なるべく前を向き、上を向いて…
 失礼しました。
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