第31話 心は、反応しかしない

文字数 944文字

 不思議なものだ。
 何かに対してしか、心は反応しない。
 その何かがなければ、心もないかのようなのだ。

 心が反応することによって、初めて心があり得るということだ。
 考えてみれば、思い悩んだり、希望に満ち満ちていたりする時、心は必ず何かの対象に向かっている。
 仕事とか恋愛とか人間関係とか、先への不安やら過去へのこだわりなど、何か対象があって、そこから時間とともに、そっちの方へ飛んで行く。
 いつも何かに捕らわれている、と言えるだろう。
 捕らわれていないなら、捕らわれていないで、また心は何かに捕らわれようとする。心は、捕らわれないでは、いられない。

 赤ン坊のようになることが、「心が何ものにも捕らわれていない自由な状態」と言えるだろう。だが、それはそれで、いいトシこいて、赤ン坊のようであっては、まわりを不安がらせるし、何かの病気になるらしい。
 以前、20歳を過ぎた人で、突然赤ン坊のようになってしまう人がいた。もちろん時間が経てば、また20歳すぎに戻るのだが、突然その「幼児回帰」が現実に起こり、そうなっている間、赤ン坊そのものになっているという。

 老子は「赤ン坊が、人間の完全な状態である」と、わけのわからない(わかるけど)ことを言ったけれど、荘子も同じことを言っている。きっと荘子なら、「そのままにしておくのがいいよ」と進言するだろう。

 赤ン坊の状態が、人間のなかで最も理想の「無」の状態、すなわち「心がない」、だから「完全な状態」であるとしたら。

 椎名麟三に云わせれば、赤ン坊は、「世界そのものである」という。なぜなら、おっぱいやおむつ、またはその他の何かが原因で泣く。放っておかれれば放っておかれたままで、何か対処されれば対処されたままである。かれにとって、その世界がかれそのものであり、そこから全く離れることがない、というのだ。

 老荘は、そのように生きればいい、と言いたいのだと思う。
 下心とか、打算とか、はからいを捨てて生きよ、と。
「ムリだ」と、ぼくの心は反応する。でも、やるだけのことは、やってみたい。たとえ現実にできないとしても、やってみる方向へ、心を導くことは、できると思う。
 完全完璧にはできないけれど、もって行こうとすることはできる。もって行こうと、することだけは。
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