第16話 ゴータマさんによる「苦」の考察

文字数 1,411文字

 ブッダの言うところの「苦」の考察。かれはリアリスト、現実家であったから、論理的にそれを体系づけた。
 ・苦がある。苦を感じる「私」がある。
 ・苦の原因、生成がある。それを考える私がある。
 ・苦の消滅がある。それを見る私がある。
 ・苦が消えるに至る道がある。それを見つける私がある。
 というふうに。

 そもそも、「苦を苦とする自分とは何か」ということについては、人間に備わっている6つ機能に依っていると言う。すなわち、眼、鼻、口、耳、身体、心、このうちのどれか1つを通して、苦は入ってくる、と。楽も、入ってくるのだが。
 それぞれに、色・形、匂い、味、音、痛み、アイデア・考え、が、その6つの機能が働く対象となる。

 その苦を苦とする「意識」については、その対象を「認知しない」と言う。それは、対象をただ「感知する」にすぎないと言う。
 また、われわれが一般に「存在」「個人=私」と呼んでいるものは、絶えず移り変わって一定しない、変化を続ける肉体的・精神的なエネルギーの結合にすぎない、と言っている。

 この、ヒトと呼ばれるものは、5つの要素によって成っていると言う。
 1)物質…固体、液体、熱、運動。いわゆる身体と呼ばれるところ。
 2)感覚…眼が色・形を見ることによって経験される感覚。鼻が匂いを嗅ぐことで経験される感覚、口が味と接触して経験される感覚、耳が音に触れて経験される感覚、心が概念・考えに触れて経験される感覚。

 3)識別…これも、眼、鼻、口と同様に、その内的機能が、対象に対応し、各々に分類される。
 4)意志…これは「意図」といってもいい。善悪に関わらず、すべての行為に意志・意図が含まれている。
 5)意識…これは、眼、鼻、口、耳、身体、心のどれか1つを基礎とし、それに対応する外的要素(色・形、匂い、味…)に対する反応、あるいは返答である。

 存在するのはこの5つの集合要素であり、われわれがわれわれであるとする「個人」とか「私」は、この5つの集合体の、便宜上の名称にすぎないと言う。
 要するに、ヒトがひとりひとり違うように、ひとりのヒト自体も、いえばバラバラなのだ。寄せ集め、といっていいかもしれない。

 と考えていくと、よく苦しんで、苦しみの中にしか生きている実感がしないような私には残念なのだが、「苦しみは存在するが、苦しむ主体は存在しない」ということになる。
 また、冒頭の「苦」の考察からは、こう考えられる。たとえば一杯になった部屋のゴミ箱を見て、憂鬱になるとする。それは視覚が心的に作用した結果であって、その原因であるゴミ箱を片づければ憂鬱は消滅する。それに至る道は「片づけること」である、と。

 心が、何かの概念・イメージに捕われ、それによって「病んだ」としたら、その概念・イメージが病いの原因である。心は物質に対するものではない。だが、その機能は視覚や聴覚、嗅覚と同様である。だから制御し、発達させることができる、とブッダは主張する。
 その制御・発達の方途として、彼は呼吸による瞑想法を絶えずやっていたようだった。これについては、項を改めて書きたい。

 人生における主要な悪の1つに、嫌悪・憎しみがあるという。苦しみに対して、腹を立てたりイラ立ったりしても、苦しみはなくならない。そういった反応は逆効果で、必要なのは、怒ったりイラつくことではなく、苦しみという問題を「理解」することである、という意見なのだった。
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