第1話 「教育」とは?
文字数 1,353文字
人間の不幸、というより個人の不幸、全体を見渡した気になれば人間の不幸、不幸というのがあまり居心地の良くない状態であるとして、そういった人の立ち位置の土台には、「自分ではない」ということが欠くことのできない要素であるようだ。
自分以外のものになる。これほど過酷な情況はない。
会社の上司に、おまえはこういう人間になれと言われ、社員教育としてマニュアル化されていたために、かなり上等な会社を辞めた人を知っている。
ところで、教育の目的とは何だろう。戦争時代は、国のために尽くす、死ぬということ、そういう人間になれというものではなかったか。何事もソツなくこなす人間であるように、どの教科もまんべんなく平均点以上を取るように、「共通一次試験」はできたという話もある。要するに、「社会に有益な、社会が必要とする人間」をつくるのが、教育の実相のように思われる。
モンテーニュの考えるところによれば、人間は生まれたと同時に、その人固有の思想も産まれるのだと言っている。そして人間という個体、その個々に産まれ備わった性質というのは、教育によって根本的に変えられ得ないものだと考えている。
そして最もよい、大人が子どもに与え得る、最もよい教育は、小さな頃から旅をさせることだという。この世にはいろんな人があり、風習があり、その土地土地によって種々雑多な人間がいるということを、知るということ。いろんな国を巡ればいいが、とにかく大切なのは「いろんな人間の存在」をその空気、地面、現実によって体感、経験することだという。
これは、長く生きた人間が、まだ長く生きていない人間に対し、もし「教育」という機会を与え得るならば、これ以上にないものだと私も思う。
モンテーニュは、あの宗教戦争の内乱の真っ只中を生きた人だから、またもともと平和的なのんびりした人であったから、よけいに人のいがみ合う根底には、「異質な者を認めない」頑なさを認めざるを得なかっただろう。
人間として生まれて来た以上、精神的にも身体的にも平和であるということ、それを、彼は口にしないけれども、おそらく善きものと考えていたに違いなく思われる。
さしあたって、彼自身がそうあろうとした。
そうして彼は、「自分自身の以下でも以上でもなく、中道中庸を行くこと」に、その手段を見出したように思う。
世界は無常であり、自分自身も無常である。それをじっと、彼は見続けて、きっと彼らしい、そうやって生きて来たに相応しい死に方をしたように思う。喉の病気だったらしいが、仔細なことは分かっていない。
モンテーニュ・ファンとしては、彼のように生きたいと思う。だが、それではモンテーニュに反してしまう。私は私のように生きられればいいのだ。私が彼のようになりたい時点で、私の範疇を越えてしまうことになる。
思想、考え方というのは、それに染まっては自分を失う。宗教によって、どれだけ自己を棚上げにし、他教を排斥しようとした人間が多かったことか。
あくまでも地上に立っているのは自己の足である。オトナであれコドモであれ、いろんな人間があること、考え方があるということは、その足をより小回りの利く、柔軟で堅固な、闊達な足に、それを知ることで育み得るに違いない。
と、今は思うが。
無常、無常。
自分以外のものになる。これほど過酷な情況はない。
会社の上司に、おまえはこういう人間になれと言われ、社員教育としてマニュアル化されていたために、かなり上等な会社を辞めた人を知っている。
ところで、教育の目的とは何だろう。戦争時代は、国のために尽くす、死ぬということ、そういう人間になれというものではなかったか。何事もソツなくこなす人間であるように、どの教科もまんべんなく平均点以上を取るように、「共通一次試験」はできたという話もある。要するに、「社会に有益な、社会が必要とする人間」をつくるのが、教育の実相のように思われる。
モンテーニュの考えるところによれば、人間は生まれたと同時に、その人固有の思想も産まれるのだと言っている。そして人間という個体、その個々に産まれ備わった性質というのは、教育によって根本的に変えられ得ないものだと考えている。
そして最もよい、大人が子どもに与え得る、最もよい教育は、小さな頃から旅をさせることだという。この世にはいろんな人があり、風習があり、その土地土地によって種々雑多な人間がいるということを、知るということ。いろんな国を巡ればいいが、とにかく大切なのは「いろんな人間の存在」をその空気、地面、現実によって体感、経験することだという。
これは、長く生きた人間が、まだ長く生きていない人間に対し、もし「教育」という機会を与え得るならば、これ以上にないものだと私も思う。
モンテーニュは、あの宗教戦争の内乱の真っ只中を生きた人だから、またもともと平和的なのんびりした人であったから、よけいに人のいがみ合う根底には、「異質な者を認めない」頑なさを認めざるを得なかっただろう。
人間として生まれて来た以上、精神的にも身体的にも平和であるということ、それを、彼は口にしないけれども、おそらく善きものと考えていたに違いなく思われる。
さしあたって、彼自身がそうあろうとした。
そうして彼は、「自分自身の以下でも以上でもなく、中道中庸を行くこと」に、その手段を見出したように思う。
世界は無常であり、自分自身も無常である。それをじっと、彼は見続けて、きっと彼らしい、そうやって生きて来たに相応しい死に方をしたように思う。喉の病気だったらしいが、仔細なことは分かっていない。
モンテーニュ・ファンとしては、彼のように生きたいと思う。だが、それではモンテーニュに反してしまう。私は私のように生きられればいいのだ。私が彼のようになりたい時点で、私の範疇を越えてしまうことになる。
思想、考え方というのは、それに染まっては自分を失う。宗教によって、どれだけ自己を棚上げにし、他教を排斥しようとした人間が多かったことか。
あくまでも地上に立っているのは自己の足である。オトナであれコドモであれ、いろんな人間があること、考え方があるということは、その足をより小回りの利く、柔軟で堅固な、闊達な足に、それを知ることで育み得るに違いない。
と、今は思うが。
無常、無常。