第30話 教育!

文字数 2,174文字

 オーストリアの「シュタイナー教育」が近いのかもしれない。子安美知子さんの本が有名だけれども、読んでいないから何とも言えない。でも、ざっくり言えば、「子どもの好きなことにさせるのが基本。まわりは、その手助けをすることしかできない」が、近そうだ。
「教育」という言葉自体が、上から下への動線をはらむ。そんな上下を排斥したい自分としては、浮わつきながら書くことになる。一般に、教育と呼ばれるものだから、この言葉を使って話を進めるしかない。

「教育」から、自分が連想するのは、あの戦争時代の仕方だ。「前を向け、気をつけ、礼、右向け、右……」
 天皇のために死ねるのを、名誉とすること。洗脳するように、そんな教育下で育てられると、兵士が一丁、ほんとうにできあがったのだろうか。何のためにか、そうなってしまったんだろう。
 できあがったとしたら、国家の施した教育は、「国が求める人間をつくること」が目的だったと、言ってしまえなくもない。
 戦時中でない今も、根本は変わらないだろう。家庭の内にだって、イイ学校に行かせたい→イイ企業に就職できる、の、幻想にすがりつく一本道がある。

 年端のいかぬ子どもにとって、社会なんかどうでもいいことだ。なのに、年長者たちは「この社会で立派に生きて行けるように」

を施す。
「この社会で」が前提で、「この子本人」を、その前に見ようとしない。
 出来合いの枠にはめて、そこからこぼれないよう、またはそれより上位へ行こうとさせることだけに熱心であるように見える。

 何か、残念に思う。
 賢者の石を取り出そう。モンテーニュが500年前に書いている。「世界中を、子どもが旅をでき、世界にはいろんな人間がいることを知る」の実現ができたらと想う。
 一国の、その土地の、狭すぎる常識や慣習の枠にとらわれず、この世界にはいろんな場所があり人間が存在することを、体験できる環境がつくれたら。
 これは、かえすがえすも子どもに大人が与え得る、最良の教育になると思う。いや、ほんとに、本人が体験することが何よりだ。もしそんな環境が夢物語であるなら、それこそ物語として、いろんな考え、見方、つまりは人間の存在があるということを、伝えよう。

 この中世の賢者によれば、「まわりの環境によって人格が形成されるとしても、その個人の生来の性質、持って生まれた気質を変えるのは難しい」から、その子が好きになったこと、興味を持ったものを、思う存分、やってもらおう。いろんな国への、子どもの旅ができないのなら、せめてそのくらいのことは、子どもにしてもらおう。

 一点に集中することは、その一点の周囲を知ることになる。穴を掘る際、自分の足の下だけを掘ることはできない。一つのことを、好きで、集中してやることは、一歩一歩、確実に大きな歩幅に繋がっていく。
 好きなことをすることで、忍耐も自然に必要になる。マンガ家になろう、棋士になろう、サッカー選手になろうとして、がんばって、挫折したとしても、自分で好きで始めたことに、唯一無二の、本人の内にかけがえのない体験が残るだろう。
 誰に強制されたものでもないから、自分自身の事そのものとして受け止めざるを得ない。
 おとなになって、軽薄に「責任、責任」を連呼する多くの大人と違い、自分のこととしてしっかり「責任」を受け止められる、土台の一端になるだろう。

 それもできないならば、せめて公教育、学校で、子どもの頃から「哲学」の教科を取り入れよう。
 繰り返しになるけれど、この世界には、さまざまな人間があり、多様な生き方があり、いろんな考え方が存在する。これが正しい、というものはない。この2500年の間に、「自分が正しい」とした主張は、掃いて捨てるほどあった。
 ただ、こんな考え、あんな感じ方、そんな思考の仕方を持った人たちがいたことを知ってもらう。考える仕方、ものの見方によって、苦しい時も、苦しくなくなることがある。目に見えない「考え」に、多くの人が救われた歴史がある。救われなかった歴史もある。

 アリストテレスはこんな人だった、ソクラテスはこう生きた、ツァラトゥストラはこう言った、その時代背景、個人の生涯、残した言葉の意味などの授業。
 それも実現不可能なら、今、せめて教職者を、「先生」と呼ばれる人たちを、何でもない、ただの人間として見てみよう。
 実際、彼らも、その人自身以上になれないのだ。「聖職」といわれた教師に過度な期待をせず、先生方も、授けられた借り物の社会的枠に収まらず、ひとりの自己として、それ以上のことをしようとしなければいい。

 さしあたって、わけのわからないことを書いた。
 言いたかったことは、生まれ持った個人の性質・気質が生かせる、職業・生業によって、個人個人が生かされていく社会であるように、ということだ。適材適所というけれど、われわれは材料ではない。われわれによって、「所」がつくられていくのだし、実際、つくられてきたものも多い。
 真実で正しいことは、1つだけではないこと。人、ひとりひとりにそれはあり、それを尊び合うことが、まずほんとうの真実、正しさ、善、といったものに繋がる、欠かせぬ紐帯であるということ。
 それを、子どもたちに(大人が先かもしれないが)、その頭の中の余白に留めておいてほしい、ということだった。
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