第23話 賢者の石

文字数 1,378文字

 生きているのがイヤになって、死にたいなあと思う時、まわりにいる人が疫病に罹り、ばたばた死んで行く情況のなかで、「ぼんやり死にたい」を貫徹して死ねる人は、そうそういないだろう。そんな想像をしてみる。
 そのなかでは、死が、身近に感じられ、まるで生きているのが当然であったそれまでの情況と180℃変わってしまう。死にたかった本人、まざまざと生死の境を現実にまのあたりにして、生きたい、生きたいと願うようになるかもしれない。

 とするならば、死は、そのような情況にならない限り、ほとんど身近に感じられないものである。まるで、生きているのが当然至極であるかのような幻想のなかに生きていることになる。
 どうして死ばかりが、災厄のように疎んじられてしまうのだろう。死ぬのは苦しいかもしれないが、生きていることだって立派に苦しいではないか。
 そも、誰にとっての苦しさなのか。死した本人ではなく、まわりの人間の労苦のように思える。死を厭うのは、本人よりもまわりなのではないか。(もし、やさしさというものがあるのならば、そんなまわりのどこがやさしいのだろう?)

 死した本人は、もう死んでいるのだから、その痛苦や悲喜を感じることができない。残された者が勝手に感じているだけである。
「荘子」に、長年連れ添った妻をなくし、お盆をたたいて歌い、楽しげに踊る荘子のことが描かれている。「プラトン」のソクラテスは毒杯を仰ぐ際、死後の世界は素晴らしいかもしれないのに、なぜ悲しむのだ?と、むせび泣くクリトンたちを励ましている。

 私が書物に知る賢人たちは、死を恐れていない。死ははじまりであり、鞘に納まった刀のようなもので、死して初めて刀がその身をあらわす。仮の宿であった肉体からやっと抜け出すのだ、という。
 といって彼らは、妙な新興宗教のように死をけっして美化しない。死ななければ、生もない。その永遠の繰り返しを、われわれは繰り返すだけである。実に恬淡としている。

「生ばかりをあたかも善とし、死が同様の扱いをされぬが如くみられるのは、いかにも身勝手な見地ではないか。そんなことだから、くだらぬ地位や名声、金銭や富、勝ちだの負けだのに拘泥するのだ。
 考えてもみたまえ、われわれが生きている今の、どれだけ小さな、矮小であることか、それまでわれわれの存在しなかった時間の、いかに悠久であったことかを。
 それだのに、たったの今のこんな一瞬に、何を欲張っているのか。」

「賢者の石」は、ほとんど誰に破壊されることもなく、自然に在り続けるものだ。歴史は紙に記され、しかし石の意見はかたくなに口承される。人間のあいだに、息のように生き続けるもの。もしこの世に価値あるものがあるとしたら、紙の上よりも石の中にそれがある。
 ブッダ、荘子(老子はよくわからない)、ソクラテス、彼らはそれを見る人たちだった。これはもう、運命というほかない、そのような人としての内性を生きざるを得ない人たちだった。

 誰もが同じ生命であり、木も虫も、川も瓦も、藁も砂利も、すべてが同じ生命である。それを観じ、よく心に留め、生きるということ。
 石は何も言わずとも、それを観じる人間に、必ず何かものを言う。それは耳でなく、心で聞ける。石は、雄弁に語る。
「ほんとうのことをして、生きなよ」
 さっき、石はそう言ったような、言わなかったような。
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