第22話 拝啓 読者様

文字数 2,270文字

 先日、エピクテトスという人の本と、孟子に関する本を読んで、どちらも「権」という言葉を使って、何やら云っている文を読みました。まったく偶然の一致でしたので、妙に心に残りました。で、少し、ご報告させて頂こうかと思った次第です。
 エピクテトスは、ソクラテスより少し後の人でしょうか、ヘラクレイトスの友達だったらしいギリシャの哲人です。孟子は、孔子の弟子の、性善説を唱えた思想家でした。プラトンのように、エピクテトスも、弟子によって描かれています。頭のわるい私には、難しい本で、よく分かっていません。ですが、ああ、これはこう解釈したらいいのかな、と、自分に引きつけるようにして読んでいます。すると、輪郭だけでも、何かが自分の中に強く残っていく感じがします。

 西洋哲学は、論理的という印象です。論理によって、筋道立てて、分かり易く伝えられているはずなのですが、その論理、理屈のために、かえってややこしく、頭のわるい私には理解しにくいことになっています。
 逆に、東洋哲学は、情緒の面が重んじられているようで、西洋より論理的でなく、読み易く感じます。農耕民族である東洋と、牧畜民族である西洋との、生活に根づいた違いによって、ヒトの気質・信仰する対象も変わってくる、という学者もいました。その生活様式は、東洋的には「自然のなかに神がいる」、西洋的には「神がこの世界をつくった」という具合になるようです。

 豊作や不作が、直接天候、気候の影響を受ける農耕民族の場合、自然に抗うことはできないことを身に沁みて生きてきたようです。ですが、牧畜民族の場合、自然というより人間の力によって生きてきた歴史があるようです。3、40年前、「自然破壊」をして道路を造ろうとする西洋人に、「自然を守ろうとしないのか」と異を唱えた東洋人が、「おかしなことを言う。こうするのが自然だろう」と言われた話もあります。
「雨土の神=自然によって生かされてきた」気質と、「神が創った最高傑作が人間=自然は人間のもの」という立ち位置の、根本的な違いがあるようです。

 それはさておき、「権」の話に戻りたいと思います。
 エピクテトスによれば、「自分の権内にあるものは慎重に思慮し、権外にあるものは大胆に接せよ」「自分の権内にあるものは対処可能だが、権外のものはどうにもならない」というニュアンスで、「権」という言葉を使っていました。
 孟子は、儀礼を尊ぶ人で、「礼を重んじよ。男女が物品を授受する際は、手と手が触れ合ってはイカンから、物品は床に置いて授受せよ」と言い、「では、兄嫁が海で溺れていたら、僕は助けてはならないですか?」の問いに、「いや、その場合は礼よりも『権』が重んじられる」、というふうに、「権」が使われています。

 私は、エピクテトスと孟子が使った、この「権」という言葉、非常に気になりました。哲学は、人がHappyに生きるためのものですから、この西洋と東洋の哲人がいみじくも使用した「権」に、「Happyの要素が多分に含まれている!」と、ほとんど体験的直観で、絶対的に感じられたのです。
 その私に思い浮かんだのは、大リーグで活躍している、ヤンキースのマー君の言葉でした。「自分でコントロールできないものには、労力を使いません。」そんなようなことを、イチローも言っていました、「打率は、他者が関係してくる問題なので、首位打者は意識しません」

 要するに、エピクテトスが云うところの、「地位、金銭、生命(ここに生命も含まれていました)は、外部のものであって、内にあるものではない」、「それら自分の権外にあるものは、こちらが使用するだけである。そして、いかに使用するか、それを吟味検討し、判断するのが、内にある権の及ぶ範囲である。だから内には慎重に、外には大胆に」が、マー君とイチローの言葉に呼応すると思いました。
 孟子の云う、「兄嫁と身体が触れ合うのは儀礼に反する。しかし、溺れた兄嫁を助ける際には、権が重んじられる」の「権」は、エピクテトスの云う「内なる権」に呼応します。

 つまり、人間に最も重んじられるべきものは、「自分の権内」にあるもので、権外にあるものは対処不能のものである。しかし、生きている以上、外部のものと関係せざるをえない。だが、そのふれあいについても、「それを判断する際、よく見つめ、よく自分の権内で慎重に吟味し思慮し、自分自身を鍛え、可愛がった後で、大胆になるのが良い」と、そう、私には解釈できました。

 何ということもない話かもしれません。ですが、人間関係のようなところ、「自分の外」との接触で、私は悩むことが多かったです。で、もし人間関係で悩まれている方がいらっしゃいましたら、もしかして、少しはお役に立つ考え方かと思いました。内権と外権、ここの「権」のところに、境界線をしっかり引く、とでもいうことでしょうか。
 よく、職場や日常生活なんかでイヤなことがあると、私はそれを「内権」のなかにまで持ち込んで、メシも喉を通らなくなりました。しかし、結局、結界の線を自分のまわりに引いて、その内権のなかで自分を養い、外権にあるものにはエサを与えない、ということであるようです。

 といって、完全に外権に無関心であるわけでもなく、その外権にあるものに対する際のエネルギーのようなものを、自分の内権のうちに、よく滋養する、自分のためだけに滋養する、ということのようです。
 哲学、思想は、その栄養のために、確かにあるようです、ということを、ただお伝えしたかっただけなのでありました。
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