第6話 哲学は死を学ぶもの?

文字数 1,154文字

 このジャンル、「社会・思想」に関係のないような話で申し訳ない。

 家にはテレビがないので、ニュースはもっぱらインターネットで見ている。
 コロナで自粛するのが当たり前の時期、自殺のニュースをほとんど目にしなかった。だが、その自粛ムードが緩み、世間が動き出したかなという頃、鉄道自殺のニュースを立て続けに見たのである。
 コロナのために、いつ死ぬか分からぬという状況下では、わざわざ死ぬこともない。だが、少し落ち着いたかなという段になると、わざわざ死ぬ必要が出てくる。
 考えてみれば、永遠に生きられるはずもなく、こちらから死ななくてもいいはずなのだが。

 その自殺者の一員に、いつなってもおかしくなかった者としては、自殺はとても気になることなのだ。自殺について、あれこれ机上の空論を打ち立てるつもりはないから、まず自分の場合を書こう。
 最初に死にたいと思ったのは、学校に行かなくなった、9歳の頃だった。自分の不登校によって、母は泣いた。祖母は老衰で亡くなったのだが、心配をかけすぎて、自分が殺してしまったのだと本気で思った。

「まわりに迷惑をかけている」という意識。これが、自分には痛かった。自分は、普通のことができないということは、もうこの世で生きて行けないということではないか。子どもの頭で、そこまで考えられていたかどうか、それよりも、現実に目に見える「まわりに迷惑をかけている」「自分などいなくなればいい」その意識の方が圧倒的に大きかった。それしかなかった、と言える。

 この場合、まわりにも、学校に行かない人が、行っている人と同じ位の数がいたら、自分は自殺を考えなかったろうと思う。つまり、まわりと同じことができる自分であれば、自殺など考えられなかったように思えるのだ。

 自殺は、自分を殺すことである。その自分とは、殺さなければならぬ、と、もうひとりの自分が命じることである。その「もうひとり」とは、自意識であり、その自意識をつくるのは自分自身であったとはいえ、まわりの影響が大きくあったのは事実だった。

 そんな自分が「救われた」のは、それもまわりの影響であった。つまり、親である。端的に、「学校なんか行かなくていい」と言われたのだ。もう亡くなってしまったが、千葉の国府台病院の小児精神科に、渡辺位さんという医師がいらっしゃった。そこに相談に行った親に、「なぜ行かせたいのですか。行かなくていいじゃないですか」と渡辺さんは質問したという。親は、返事に窮した。
 そして「ああ、そういう考えもあるのかあ、と思ったら、気が楽になった」そうなのだ。

 考え方ひとつで、変わる。その「考え方」によって、自分は救われたのだと思っている。今、自分が哲学、思想のような本ばかり読み漁っているのも、そんな原体験によるのかもしれない。
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