第8話 学問をするというのは、一体何をするということなのか

文字数 1,400文字

 昔、この根本的な疑念に捕われた人があった。
 その人は、結局「自分の心の理を知ることが学問であろう」という、一種の悟り、開眼に至った。
 こころの、ことわり。
 人間の心には、理が備わっている。だから、ただ食欲や性欲、身体の快楽を満たしただけでは、ほんとうの満足は得られない。
 読書から得る知識といったものも、それと似たようなものである。(読書から得るものが、自分の心の理を体系化、形象化する、その場合は、心の理を知ることと通じなくもない)

 だが、では、自分の心の理を知るとは、どういうことか。「体験する」ということである。自分が体験をすること。それが、自分の心の理を知ること、即ち学問をするということである、と。

 では、「体験する」とはどういうことか。電車に乗った、バスに乗った。介護の仕事をした、工場で働いた。恋人がいた。親しい人と会い、話した。庭に花を植えた、鳥のさえずりを聞いた…これら全ては、私の体験に過ぎない。
 その体験の中で、様々な自分(制御不能なもの… ∴ 怒り・悲しみ・喜び)が立ち現われる。その「自分を体験する」ということが、ほんとうの私の体験である。
 ただ、これだけでは「理」を知ったことにならない。なぜ、どうして、どういう道筋で、そういう様々な自分になったのか。ここをつかまなければ、私は自分の心の理を知ったことにならない。

 つまらない私事の例を書く。先月、私は、「あなたの元で働きたくありません」と上司に言って、職を辞した。あの時、強いわだかまりが自分に残った。その上司に言いたかったことをハッキリ言った。セイセイできるはずだったのに、あにはからんや、ずっと悶々としてばかりいた。
 これは、なぜ私がそのような心情になったのか、全く自分自身を学べていないせいだった。

 何か本能のままに言い、行動をしたとしても、なぜ自分がそんなことを言い、行動したのか。その体験の中の、自己のなかの「心のはたらき」を、よく観じるべきであったのに、私にはそれができていなかった。

 道理というものが、ものごとには必ずある。心もその「もの」のひとつで、そうなる必然、道理が、そのものの中にある。
 なぜ上司と自分はそのような関係になったのか? 自分の心の中にある道理を、私は学ぼうとしなかったということだ。
(こんな「気づき」を私にもたらしたのは、本からのものだったが…自分の中の「理」に気づかせてくれた、そのたったの数行は、実体験するような手ごたえのあるものだった)

 人間は…少なくとも私は…言葉によって頭の中で考えている。論理的でないもの(そのような結果になったもの)を、論理的に筋道をたてて考えようとする。その言動と心のはたらきが結びつかなかった時、あとで悶々とする仕儀になるのは、そのためだと実感する。
 おそらく、これは夫婦関係やら近所づきあいやら、いろんな些細な場面に現れる。
 理は、理性といってもいい。
 その理性(根拠、論拠、筋道)を生かさず、理性に反するもの(感情、恣意、直情)に捕えられるだけで、何かを言った/やったとしても、畢竟悩まされることになる。なぜなら、人間は心に理をもつから。

 学問をするということが、どういうことか、わかったつもりになったとする。では、具体的に、何をどうしたらいいのか?
 自分をよく観ずること…自分を観ずること。どうしても、私の乏しい理性は、ここに帰着してしまう。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み