第17話 賢者による、賢者になる実践法

文字数 1,794文字

 賢者の定義。
 たとえばパスカルは、その「パンセ」の中にモンテーニュからの引用を少なからず使用している。けっこう影響を受けていたはずだが、モンテーニュのことを「神を信じない人間の不幸」と言ったりして、否定的な態度も見られる。
(モンテーニュはカトリック信者であったが、「自然」を信じていて、どうも神を本気で信じてはいなかったフシは確かにある)
 そのパスカルはガチガチのクリスチャンだった。だが、その生涯を見た時に、なかなか不幸だったらしい。よほど、「不幸」と罵られたモンテーニュの方が、幸せな生涯であったように見える。

 荘子もそうだ。逸話によれば、ぼろぼろの服を着ていても、特に本人は気にしない。そんなことより、もっと大事なことに気をかけていたからだ。たいして弟子も多くなく、まわりから見れば不幸そうに見えたかもしれないが、本人はとても満たされた生涯だったように思える。
 私には、パスカルのようにすごい発見や発明をした人は、確かに偉人ではあるだろうけれど、賢者だとは思えない。賢者とは、自分のいきかた、人生に心から満足して、死ねた人のように思う。

 ところで、賢者は、あれやこれやと形而上のことばかり言っていて、肝心な、具体的に「これ」といった、われわれが実際に実践できるようなことは、あまり言っていないように思える。
 宗教は、「こうしなさい」ということを教えてくれるそうだけれど、そういうのは、こちらから御免こうむりたい。
 ブッダについて書くことも、仏教だから宗教的であるけれど、私はあくまでゴータマ・ブッダという個人に興味があって、その教義的なものをやみくもに信じたいとは思わない。
 そもそも、ブッダの説いたことには、特に決まりもないし、「自分でどうにかしなさい」が基本である。それを、あれこれがんじがらめにしたのは、ブッダの説いたことから派生した、いわば「ほかの仏教」と言えるようなもので、ナムアミダブツを唱えないとダメだとか、天国があって地獄があって、などと、ブッダは一言も言っていない。

 で、今回取り上げたいのは、ブッダが「自分に道を開かせた」(換言すれば、彼をブッダにさせた)と断言した瞑想方法である。これは、パーリ仏典の「ティピタカ」に記載されている、誰にでも出来るやり方が記されたマニュアルのようなもの。
 現代では、「マインドフルネス」という名称で、元ソフトバンクの川崎選手や、GoogleやIntelが社員教育に用いているらしい。
 全然、自分の文を読んでほしいわけではなくて、私もこのノベルデイズに「健康法」とかで書いたけれど、こちらにも載せたい。悪いことを書くわけではないから、バチも当たらないと思う。
 その具体的な瞑想の仕方。
 ・基本的に呼吸は鼻から出入りするもので、口を開けてしない方がいい。
 ・姿勢は結跏趺坐(よく仏像がしている座り方)が望ましいが、背筋を伸ばしてアゴを引いて、なるべく楽な体勢であればいい。椅子に座ってもいい。手は、好きなところに置けばいい。
 ・携帯電話の目覚まし機能でも使って、とにかく10分間だけやってみる。瞑想中、眼は閉じていても開けていても構わない。開けている場合も、つむっている場合も、鼻先に意識を集中する。(そこが呼吸の入り口だから)

 肝心なのは呼吸の流れを意識することで、鼻から入った息が胸→ お腹→ おへそへ行くのを「見つめる」こと。
 おへそにまで行ったら、今度は、息がお腹→ 胸→ 鼻へ抜けて行くのを、やっぱり「見つめる」…この繰り返し。
 何も考えず、ただ、この息の出入を静かに「追う」だけ。だが、これがなかなか難しい。頭の中は、あれこれ妄想だらけになる。
 でも、妄想はそのままにしておいて(放っておいて)、自分の意識はあくまで鼻先から出入する息、身体に入って行き、出て行く息を、ただひたすらにじっと見守る。
 ソクラテスの、「自分の内に学問がある」に通じるものがあるし、「おのずから、然り」を自然とする、荘子の思想にも被ると思う。

 この「呼吸を見つめる瞑想」は、私には、生命の無常さが、せつなく感じられた。
 息が身体に入った時、生命が生まれて、身体から息が抜けていく時、生命が死んでいく…そんな感覚をもった。
 何とも、「この身体さん、けなげに、この繰り返しを何十年もやってきたんだなぁ」と、しみじみ感じて、涙ぐんでしまったりした。
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