第11話 哲学者としてのゴータマさん

文字数 712文字

 確かにブッダは仏教の人だが、古来のインド哲学にその思想の根拠の置くところ、けっして無関係たり得ない。たまたまインドの哲学は瞑想・修行といった行動にその発露があったと私は思う。
 ところで、ソクラテスとブッダが実際に会って、真理について話し合ったとしたら、一体どんなふうになったろう。
「執着を手放す」という心の状態について、きっとソクラテスは何だかんだと言ってくるだろう。そこでブッダはまたこう答えるだろう… 想像すると、楽しくなってくる。
 ふたりとも、真実・真理に向かって、その労を惜しまなかった。

 アレクサンドロスがインドに渡ったのがB.C300年代で、おそらくブッダの死後だ。あの類い稀な、ほとんど神がかったような大王が、ブッダと逢ったなら、どんな会話を交わしていただろう。「仏教王」といわれたアショーカ王がB.C268~だから、やはりアレクサンドロスとの邂逅はなかった。
 暴君ネロは、ストア学派の賢人セネカの教育を受けながら、なぜ凶暴になってしまったのか。うまれつき「性悪」の人間というのは、ほんとうに存在するのか。
 モンテーニュは、「人間に潜在する残酷さが恐い」と言った…

 身近なことを書こう。
 よくお寺、お墓参りなどの際、手を合わせる。この「手を合わせる」というのには、心を落ち着かせる作用があるそうだ。
 また、姿勢を良くするということは、正しく身体が呼吸できる手助けになるらしい。腰への負担も軽くなるということだった。腰痛持ちとしては、ありがたい。実際、姿勢を良くして瞑想を40分もすれば、日常生活でもかなり姿勢が良くなっている。健康法としての瞑想も有効だと思う。
 瞑想は、とにかく毎日続けることが大事だそうだ。
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