第34話 何をもって「賢者」か

文字数 1,267文字

 賢者、というと、歴史に名を遺した偉大な人物だとか、その人物が云った言葉であるから感心して聞けるとか、とにかく「一目置かれた」存在、というイメージがつきまとう。
 だが、ぼくにとっての賢者は、もっと身近にいる。それは存在そのもので、いつもニコニコして、ものを憂わず、会っているとこちらもニコニコしてしまう、銭湯で出会った90歳位の人である。

 もう、8年位のおつきあいになるのか、滅多には会わないけれど、ふっと電話をくれたりして、もちろん銭湯で会えば会話をする。
 ずっと、傘をつくる職人でいらっしゃったそうだが、温和で優しく、人に気遣いができ、思いやりをもっている、何でもないような人かもしれないが、ぼくにとっては大きな、「賢者」と言っていい存在である。

 健康でいらっしゃるけれど、やはり年齢のことを意識して、死(と明らさまには言わないが)のことをユーモアをもって、何かおっしゃる。そのたびに、ぼくはあっけなく笑わされる。実に、どうしても、朗らかな人なのだ。
 誰にでもやって来る死。それを、堂々と、という意識もなく、当たり前のように、ほんとに当たり前のように、受け入れることのできる人 ── ぼくは、その人から、そんな、何でもないようなことを本当に何でもないことのように受け入れることのできる、包容力、受容力のような凄みを、かってに感得している。

 そう、ぼくにとっての賢者とは、死を、自分の死を、微笑みをもって迎い入れる、そんな死への態度をもった人を指す。
 抗うこともなく、淡々と、死を。
 なかなか、できないことかもしれない、ぼくには。病気で苦しがっていれば、淡々どころではないだろうし、まだやりたいことがある、などと未練があれば、死から逃れたいとするだろう。

 しかし、やはり死は、どうしたところで、やって来るのだ。
 微笑み、とまで言わないが、淡々と、自分の死を受容できる人間になりたい。
 そう想うと、いかに日頃の生き方が、大切か、ということに突き当たる。
 毎日の繰り返しの中で、いかに自分が自分であり続けられたか。その自己は、幻想であったとしても、時間の中でずっと変わらずに来た、自己というものを、ぼくは自覚する。

 自己というものを意識して以来、ずっと変わらず、あり続けた自己というもの。
 だからぼくは、そのために、たとえば餓死したとしても、そう、シホンシュギ社会に抗ってきたんだから、当然だ。最後まで自分は自分だった、と、死に際に、貫徹した気になって、何をうらむでなく、生きたことに、いくばくかの満足をもって旅立てる気がする。

 哲学は、確かに、死を学ぶことかもしれない。正確には、いかに死ぬか、だ。しかし、そのいまわの時を想像し、そこから人生、自分の生を見つめるということ。さすれば、自然、おのずと、自己としての生き方が決せられ、じつは自己というものは、ものごころがつく以前から存在し、それにしたがって生きてきたということに、気づくような気がする。

 常識とか、平均寿命とか、何をやったかとか、そのようなもので、いのちは、くくれない。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み