第40話 賢者は自分が賢者であることを知らない

文字数 1,238文字

 それは、他者が判断することだからだ。
 だが、わたしにとっての賢者とは、ソクラテスをおいて誰もその定義に及ばない。
 彼は、自分が賢者であることを自覚していたが、そうさせたものは実は惰弱なもので、たいした根拠があるわけではなかった。
 彼が彼たり得たのは、いかに正しさとは斯くあるものか、ということへの追及、徳とは何であるか、真のもの、善とは何か、生きて行く上で肝心かなめのことへの、あくなき求心だった。
 そして実際、彼はこの上なく貴い、彼が彼であることに自身が納得して、いかに不条理な裁判であったにも無頓着に、自分の運命に杯をあげ、生きてきた姿と同様の堂々たる死を遂げたのだった。

 その後、キルケゴールが、「時間が止まったままの」ソクラテスから、一歩進み出た。ソクラテスのまま、時が止まったままでいてはいけない。さらには、かのキリスト教への批判を、ほとんど決死の覚悟で書いた。「神は、人間の概念でしかない。」
 ニーチェが、ひとりひとりの人間が自己超克することによって、神、あるいはそれ以上のものになると説いた。悪は、人間の大いなる活力である。苦悩が深ければ深いほど、大きく跳べる。精神は、肉体の一部にすぎない。だのに、賢者は精神ばかりを優遇する…賢者がなぜ賢者であるか。大衆に、迎合したからにすぎない。真の賢者は、そんなものではない。

 荘子は、最後まで隠者であった。自然のままに、生きるがいいよ。なるようにしか、ならないよ。何も、執着するものなど、ないんだよ。彼自身が、まるで風のように、自然と同化して、生きた。ぼろぼろの服を着ていたが、「服が疲れているだけで、わたしは疲れていない」と言った。
 モンテーニュは、悠然と時間を味方につけ、時の流れと敵対することなく、生を終えた。そのまま、時間の中で、今も生き続けているかのようだ。
 ブッダも、よく説いた。一神教的なものには否定的で、実に大らかな、「ひとりひとり」に重きを置き、その全体から見える共通の「煩悩の元」、苦悩の排斥方法を説いた。悟ること、それは暗い部屋に灯る灯りのようなもので、つまりは暗さがなければ明るみも見えないことを知っていた。永遠の悟りなど、ないことを知っていた。

 彼らは、彼らが死した後に、いわば世界に広まった人間たちだ。キルケゴールは没後100年後にやっと注目され、ニーチェは自費出版などをして、しかしほとんど売れず、発狂してその魂を終えた。あれほどの真実を書いたふたりのことを想うと、胸が詰まる。

 運命というのは、ある。
 賢者は、その運命を、快く受け入れ、微笑みながら死ねることを定義としたい、ぼくの考えは変わらない。世の中に、認められるかとか、お金になるとか、そんなことはどうでもいいのだ。
 自己に帰ること。自分を自分と認識した以前の、本来生来の自己自身であること。
 ここへ帰り、これを貫徹した生を生きた者、そして死を死んだ者が、どうしたところで賢者の石そのものであるというところで、この連載を終えよう。
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