主の不在に現れるもの

文字数 3,798文字

 悪魔に魔界に攫われてもうどれ程過ぎたか。
 最初はあった不安も、今はすっかり無くなっている。この屋敷から出られるわけではなかったけれど、その理由はよく理解しているし、別にそれに不満を覚える事はなかった。彼女に恋をしたというその赤い髪の大悪魔は、悪魔ではあったが非常に彼女を大事にしてくれているのを知っているから。
 悪魔の恋の実例を、他にも知っている。
 偶然ではあるが、創世の存在である彼女は過去に悪魔に恋をされた天使を他に見たことがある。その悪魔は非常に残虐な側面を持つ者で、恋着は直ぐに執着と暴力へと変わり、散々に嬲られた後で存在が保てずに滅んだその天使の後を追うようにその悪魔も自ら滅んだ。戦争をしていた頃の話だ。
 悪魔には基本、抗えない何らかの欲望が本質に存在している。善悪以前のそれは神に定められたもので、天使が均衡を重んじ嘘をつけないのと同じように、どうしようもない根幹であるのを彼女も知っている。
 故に過去のその恋を見ても、その悪魔への恐怖や怒りが浮かぶわけではなかったが、ただ欲によってはどうしようもなくそれが残酷な結末を辿るらしい、ということだけは知っていて。恋をした天使がその均衡を狂わせ堕天するのと同じくらいにそれはどうしようもないものだ、と。現在天使の方で恋の最中である軍団長と知り合いでなかったら常識としてしまっていたかもしれない。
 あの軍団長は、長らく恋をしているにも関わらず、堕天する程に均衡を乱したことはない。多少の暴走はあるらしいが。当事者をして「別に恋は罪悪じゃない。そりゃ振り回されて大変だけど、幸せなものでもあるよ」と恋の相手と会う度に笑いながら言うものなのだから、悲しいばかりのものではない、と彼女も思っていた。
 まぁその自分が恋をされる側になるとは予想もしていなかったのだけれど。
 実のところ、恋というのはもっと特別な者たちが遭遇するものだと思っていた彼女をして、中天使の中でも普通の容姿で普通の力とよくある属性しかないような自分が、そんなものをされる対象になる、などとは夢にも思っていなかった訳で。勿論万が一にそういう対象にされるなら相手が天使だろうが悪魔だろうが真摯に向き合おう、とは思っていたけれど。
 まさかいきなり、あんな綺麗な大悪魔に誘拐されるとは。
 創世からずっと存在するのに、こんな未来は予想外すぎた。
 天使として平凡な彼女からして、自分を攫ったその相手は、なぜ自分などを見初めてしまったのだろうかと心底疑問に思うほどに、綺麗で、強くて。後で知ったけれど、大悪魔の貴族の中でも相当に上の方らしいその悪魔が、何故こんなただの中天使に恋をしてしまったのか。神が定めたものとはいえ、本当に恋とは謎が多すぎる。
 最初の陵辱は確かに辛かったけれど、その直後からの様子と言動から、どうにもその大悪魔は不器用ながらも彼女を大事にしようとしているのが伝わってきてしまい。欲を本質とするのだからその欲によっては昔見た光景と同じようになるかもと思っていた彼女に、むしろ欲の為に幾らでも己の希望より彼女を優先するという驚きの行動をして見せたその存在を、嫌いになれる筈もなかったのだ。
 基本的に無表情で冷たく見えるのに、目が合えばその金の目が柔らかく輝き、手を伸ばされると直後には優しく髪を撫でられる。あまり会話を楽しむ方ではないらしいのに、彼女が話しかければいつもどんな内容でも興味深げに耳を傾けては真面目に返答してくれて。
 特別な相手などいなかった彼女が、そうやって自分を特別に大事にしてくれている相手を、本当に自分も大事にしたいなぁと思い始めるのには、さほど時間はかからなかった。恋ではない。それは言い切れるけれど、しかし心の中でこの大悪魔を特別に想い始めたのは事実。
 多分最初を許してしまったから、もう自分の負けだったのだ。
 あれ以上に酷い行為などそうそうないし、しかも彼はもうそれを酷い行為だったと知っていて、以降は彼女にとっての許容範囲をいつも探しながら接してくるから、もう間違わない。そうやって柔らかい時間が蓄積されていけば、その腕が痛いものではなく安心できるものだと理解してしまえば、その声が怖いものではなく優しいものだと気づいてしまえば、相手が決して自分にとって脅威になることがないのだと納得してしまえば、どうしてこんな相手を嫌えるだろう。
 そうして自分で決めて飛び込んだ悪魔の腕の中は、天界にはなかった安寧と、甘い快楽が一緒にあって、蕩かされれば最後、もう他のどこかには行けないな、と納得してしまっていた。この先がずっと、この屋敷の中だけなのだとしても構わないと、そう思わせる程の幸せをくれた。
「…………えっと」
 そんな毎日の、ある寝起きの時間。
 本来睡眠など不要な天使であるが、睡眠を好む彼女は人間のように毎日の眠っていて、それは彼も別段問題視していない習慣だった。その日も普段通りに眠って、普段通りにゆっくり目覚めたのだけど、普段と違うのはいつも目を開けたらそばにいる相手がどこにもいなかった事。
 それに孤独感を感じる間もなく、見つけたのは。
「どちらさま、でしょう」
「わかりませんか?」
 掌に乗る程の大きさしかない、長い赤の髪と金の目をした……ものすごい美女。背中を見る限り一応悪魔。そしてその面影は女性とはいえ明らかに。
「え、でも、何故?」
「本体は急に呼び出されまして。仕方なくわたくしが本体の代わりとして守護を任されました」
 華麗かつ優美な仕草で一礼するその小さな悪魔は、どう見ても彼女の大事な相手の分身だった。大悪魔や大天使が自らの力の一部に思考まで与えて分身とする事があるのは彼女も知っている。伝達なら思考までは与えないが、判断が必要なもの、例えば何かの守護だったりした場合には、滅多にないがこういった分身を作る場合がある。彼らの一部は力が有り余っているので、多少分身を作る程度は簡単にこなすのだ。
 が。
 普通分身は、分身。つまり本人と同じ形を与えられる。大きさは力によって変わるが、容姿に関しては基本同じものが使われる。筈だが。
 どう見ても目の前にいるのは、小さいけれど妖艶な雰囲気を漂わせる絶世の美女である。しかも肢体も非常に凹凸がはっきりしており……つまり体型から何から色気が溢れる、これが普通の大きさだったら大抵の異性は落とせるだろう程の魅惑的な美女がそこにいて。
「……本当は女性だったですか?」
 天使も悪魔も性別に関してはそれ程にこだわりはない。
 基本の性別は元から存在しているし、はっきり言えば同性愛も禁忌ではないが、行為においての好みなどから相手に合わせて元の性別を変えている場合、がなくはない。まさか彼もその部類だったのかと問えば、一瞬目を見開いたその美女悪魔(小さい)がクスクスと笑いだす。
「お戯れを。わたくしの本体は最初からあの性別です」
「じゃあなんで?」
「そうですね。敢えて言うなれば、些細な心配、といったところでしょうか」
 意味がわからない。その気持ちがそのまま表情に出たのだろう、美女悪魔(小さい)はふわり、と浮き上がると彼女の顔の前までやってきて婉然と笑う。
「分身とはいえ基本は同じ。本体が愛するものは分身だって愛しますし、本体が持つ情動は当然に分身も持つもの」
 小さな手が伸びてきて、鼻先を撫でられる。
「守るためには思考があるべきですが、寝起きで無防備かつあどけない寝乱れた姿を前にして、元の性別では色々しでかす可能性を考慮した、といったところです…………が」
 ちゅ、と小さな音を立てて落とされる口づけ。
「愛の前に性別なんて、ねぇ?」
「…………っ!! えええええと、分身でも貴方なら大事で大好きですけどっ、そ、その、そういうことは、えっと」
 自分よりも魅惑的な肢体を持つ絶世の美女(ただし小さい)に熱っぽく見つめられて、一応相手が大事な存在の分身となれば無下にする気はないものの、さすがに本体がいるのに分身にそういう行為をされるというのは問題があるのではないか、と。
 少々混乱気味に彼女が言った所で、美女はころころと笑った。本体と比べて非常に感情豊かに表情が変わる。
「わかっています。そう反応されるだろうことも、そう言われれば分身のわたくしだって、どんなにそういう情動を持とうが絶対に何もできないということも見越しての、わたくしですわ。本体が尊重することは分身だって尊重するのです」
 だって恋してるのも愛してるのも本体と同じですもの。
 何でもないことのようにそう言われて、何だか申し訳なくなるのは、分身とはいえそれが同じ相手だからだろうか。分身であっても恋をしているのは同じ、と言われたからだろうか。そうならばきっと拒否されるのは相当辛いのではなかろうか、と思った彼女はそっと手を伸ばす。
 指先を差し出すと、美女悪魔はにこり、と嬉しそうに笑ってその指に絡みつく。
「そういうことは出来ないですけど、こうやってお話なら出来ますよ」
「ふふっ。じゃあわたくしと楽しくお話して過ごしましょうか」
「はい」
 美女悪魔(小さい)の微笑みに安堵して頷いた彼女は、このすぐ後に相手から絶句するようなきわどい質問を立て続けに投げられて非常に困惑しつつ、自分で提案した手前四苦八苦しながら回答する未来が来ることはまだ知らない。
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