過ごす 3

文字数 1,860文字

 褥に降ろしたその体の上に伸し掛るよう覆いかぶさった彼は、それでも本当に最後の確認で、そっと彼女の頬を撫でる。ここでまた失敗するわけにはいかなかった。今抱いている渇きを埋めようとするのは簡単で、けれどもしまたそこで失敗してしまえばあんな顔を、態度をさせるのだと思えば、安易に行為に走ることも出来なかった。
 それだけ大事で、それだけ愛しい。
 この、ただの中天使でしかない存在が、彼にとっては何よりも重要だったから。
「本当に良いのか?」
 本当は今すぐにでも抱いてしまいたい。その身体の隅々まで、自分のものだと確認したい。けれどもし間違えたら。
「じゃあ、一つだけ、約束してください」
 組み敷かれた彼女の目にはもう、最初の時のような戸惑いも怯えも無く、ただ真っ直ぐに彼を映して。細い手が伸びてきて、まるで返事をするように彼の頬を撫でる。その動きは優しく、くすぐったい程に軽い。
「私を全部あげるんですから、貴方も全部ください。私以外にこんなことは絶対にしないで。貴方のそんな顔を見るのは、私だけがいいです。約束してくれるなら」
 自分の頬を撫でる彼の手を取って。
「私の名前を貴方に預けます」
 その言葉の意味をわからないほど、お互いに愚かではなく。
 目を開いた彼に、まるで悪戯が成功した子供のような無邪気な微笑みで、彼女は言う。
「貴方は私に恋をしてても、私は恋をしてない。だから、私の事を完全に信じるのは難しいでしょう? きっと今のままだと貴方はずっと不安を抱えたままになるから。それは嫌だから。ちゃんと、私の気持ちをこの先もずっと信じてもらうのに一番いいのはこの方法です」
 此方の名を預けようとした時にはあれほど慌てたのに、自分の名前はあっさりと預けようとする。それも、彼が抱くだろう不安を見越した上で。
 存在する限り彼女には敵いそうにない。ああ、恐らく何かに心酔するというのはこんな気持ちなのだろう、と思いながらは自分の頬を撫でるその手をとって唇を落とす。天使や悪魔にとって名を預ける行為は、相手を支配するという意味もあるが、もう一つ。
「ならば、そなたも」
 お互いの名を互いに預ける行為には、まるで人間のような意味がある。
「我の名を預かってくれるな?」
 それは人で言うところの婚姻のような意味で、そういう制度自体のない天使や悪魔の間ではあまり行われていないけれど、そうすることで互いの存在を相手に委ねる行為は、最大に深い関係でしか成り立たない行為だ。そうして互いの魂を握ってしまえば最後、恋のあるなしに関係なく、相手の存在は絶対になる。
 故に、本当に最後にして最大の、心の証明。
「いいんですか? 私、貴方に凄いこと要求するかもしれませんよ?」
 そう言いながらも彼女の頬はうっすらと赤い。
「例えばどんな?」
 揶揄い混じりに問えば、ちょっと言葉に詰まった彼女は、それでも桃色の目を挑戦的に輝かせる。
「この先の貴方の全部」
 なんてささやかなのだろう。そんなもの、彼女に恋をしたその時点でもう約束されているようなものなのに。この先の自分の魂の全部は、例え魔界や天界を敵に回しても、彼女に捧げられているようなものなのに。それでも欲しいというのならいくらだって。
 全部、持っていけばいい。
 その代わり。
「いつか来る終わりまで、我が全てを」
 天使や悪魔ですら永遠はない。あるのは存在が消えるまでの間だけだ。創生の存在である彼はここまで相当な時間を過ごしてきている。それはきっと創生である彼女も同じで。だが、この先を同じように過ごしていけるかと問われれば、否、だ。少なくとも彼は。
 この存在のいない時間など、もう意味はない。
「でも、その、私なんかで貴方を満足させられるかどうかの自信は、本当に」
「そなたを抱くまで、我はあの行為で満足を覚えたことはなかったし楽しくもなかった。我は別にあれ自体に快感を得ている訳ではない。そなただから、欲しくなったし、自ら抱いたし、初めて悦楽を知ったのだ。その我が、今更そなた以外で満足できる訳がない」
 最後の、最後。
 悪あがきのような彼女の言葉に、その耳元で事実だけを囁くと、「貴方はずるいです」と言って彼女は顔を覆ってしまった。指の間から見えるその顔は赤くて。どうやら下手な表現をするよりも彼女は、直接的な言葉に弱いらしい。
 可愛らしい。
 それ以外に言葉が見つからない。
「全部、欲しいのだろう?」
 更に囁きを流し込めば。
「……はい。貴方を、感じたい」
 そんな言葉に、もうこれ以上心を、体を抑えられる筈もなかった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み