観察する 3

文字数 1,853文字

 しばらくの間の沈黙は、多少考える時間を彼女に与えたのだろうか。
 彼のシャツ一枚のみのその中天使は、しかしまだ自分の状態に気づく余裕はないのか、余った袖のままで胸元に手を置いていたが、それが下がって裾をぎゅっと握りしめた。怯えだけだったその桃色の目が揺れるのを、彼は黙って見る。
「貴方が、私に?」
「ああ」
 天使にとっても、恋の厄介さは既知のものだろう。それによってこれまで何体もの天使が堕ちているのだから、まして創生からいるらしい彼女がそれを知らぬ筈もなく。
 故にだろう。酷く、戸惑った顔をする。
 恐らくこれが単なる欲望を吐き出す為の狼藉であったなら、いくらでも責める言葉は出たのだろう。けれども恋、ともなれば。その衝動が、魂からくるどうしようもないものであることを、天使悪魔ともにわからぬ筈もなく。だからこそ簡単に責める言葉が出てこなくなったのだろう。
 本当に、思慮深い天使だ。
 益々もって好ましいと思う。
「でも、悪魔は嘘もつけますよね……?」
 その通りである。全くもってその通りで、その部分を言われれば天使とは異なるが故に、否定は出来ない、が。
 けれど切り札がない訳ではないのだ。嘘をつける悪魔をもってしても、絶対に相手を欺くことができない方法も、存在する。
「そなたが望むなら、我が真名でもって誓っても良い」
 そう言えば、明らかに動揺を見せる。
「望むなら、我が真名を完全に預ける事も」
「わっ、わかりましたっ! わかりましたから!」
 更に言い募れば今度は焦ったように遮られた。天使にとっても悪魔にとっても真名を使うということは、己の魂から相手に握られるという点において非常に危険なものであったし、嘘では絶対に出せない申し出だ。それをもって誓うものに嘘など吐けば、それこそ待っているのは真名への裏切りであり自滅である。更にその真名自体を預ける行為は、己のあらゆるものを相手に譲るのと同じだ。
 全部を与える、と言っているも同じ。
 だから慌てている彼女を前に、しかし彼は少しだけ残念な気分でもある。彼女になら、全てを与えても良いのに、と。
 そんなことで今後の未来においての信を得られるのならば、容易いことだ。
 だがわたわたと慌てている目の前の中天使にとっては、それは少々荷が重いものだったようである。さっきまで見せていた怯えまで消して、酷く困った顔をして彼を見た。ここに及んではもう、その嘘を疑うというのは完全にやめたらしい。
「じゃ、じゃあ、あなたは、まだああいうことをしたいと」
「行為、ということならばそうだが」
 ビクッと震える彼女を見つつ、慎重に彼は言葉を選ぶ。
「だが、我はああいう行為は基本、そなたの同意がなければ終わった後に後悔する、というのがわかった」
「わかった、って」
 本来ならば高位であるほどにその知識も思慮も何もかもが中位よりも勝るのが基本であるので、その認識をもってみれば彼の発言は非常にらしくなく映るのだろう。物言いたげに繰り返した彼女に、その様子を見て言葉を探しながら彼は重ねていく。おそらくここを誤っては、意味がないと気づいたから。
「今のそなたを見て、後悔している」
 決して上手くはない。そして悪魔らしくもない。本当の事。
「そなたにそんな顔をさせ続けるのなら、あんな行為に意味はない。例え我が望んだとて、そなたがそういう顔をするのであれば、そんなものは優先させる必要がない程度の欲望だった」
 少し考えれば気づいたのに。
「その事に、我は、本当に気づいていなかったのだ」
 だからこそ後悔している、と続ければ酷く悩まし気に歪められる彼女の形の良い眉。何かを必死に考えているのだろう、再度訪れたしばらくの沈黙も、しかし彼はずっと彼女の動向を見守っていた。見た感じ、最初にあった怯えはもう無くなっている、が。
 決めかねている、といった所だろうか。自分の意思を。互いの種族における恋の厄介さをよく知るが故の葛藤。恐らく、その背から羽が消えている理由も、この辺でなんとなく察しているだろう。今どこにいるのかも。何故そこに連れてこられたのかも。
 その全てで、何を言えばいいか、決めかねている。
 全部を決められるのはもう彼女だけだ。その方向次第で、彼が壊れるかどうか決まるだけ。そう、多分、本気で拒絶をされても尚、今更手放せるものではないし、しかしそれに痛みがない訳もなく、そうなると恐らく彼自身の心が安定を失い、これまでに恋で狂ってきた者たちと同じ末路を辿る。
 彼は、ただその瞬間が訪れるのを、待った。
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