観察する 2

文字数 2,033文字

 長い睫毛が震えたのを、ずっと見ていた彼はすぐに気づいた。
 それと同時にその体がびくりと震えて、そして閉じられていた目がゆっくりと開く。その奥の桃色がはっきりと見える頃には、虚ろだった焦点もしっかりとして現状を把握しようと動いている。そしてすぐに、そばで座っている彼の存在に気がついた彼女は。
 瞬間、ひどく怯えた顔を、見せた。
 それはそれで可愛らしいとは思うものの、しかし彼の中にはさざ波のような不快感が生まれる。別にそれは彼女の存在に対して、という訳ではない。彼女は変わらず大事で愛しくて可愛らしい。起因しているのはどちらかといえば、そんな顔をさせた理由の方、だ。
 それを考えている間に、彼女が動いた事で、やっと、その至極簡単な答えに思い至る。
 まだ思うようには動かないのだろう体をよろりと起き上がらせた彼女は、彼から距離をとった。思いっきり移動した訳ではないのだが、しかし確実に手がすぐには届かない距離を置いたその様に、成る程そういうことか、と気づいて、やっと自分の失敗に気がつく。
 この中天使をして怯えさせているのは、自分に乱暴をした目の前の悪魔、つまりゾルデフォン本人である。その体は人間ではないが故に表向き痕こそ残っていないけれども、だからといってあの行為が無かったことになる訳ではないし、彼女からすればいきなり見知らぬ悪魔に蹂躙されただけ、の行為である。
 本当に今更なのだが、彼はそれに気がついて、久々に後悔、というものを味わう事になる。
 取り敢えず彼に、愛しい相手からそんな顔を向けられたい嗜好はない。もちろん気分次第では敢えてそう考える時はあるかもしれないが、普段をしてそんな風に見られるような間柄になりたい訳では決してないし、そういう趣味は持ち合わせていない。
 故に、単純にその顔を見て、彼は後悔をしたのだ。
 少し考えれば気づいた筈だった。
 突然現れた悪魔にああいう行為をされたら、どういう反応をされるのか、等。(そこで喜ばれたら、むしろちょっと気持ち悪いかもしれない。そういう面でもやっぱり彼女は反応の全てが彼の好みだった)それを自分が本当に望んでいるのかどうか、等。少し考えればわかりそうなものだった。
 なのに欲に突き動かされた結果がこれである。
 ここにきてようやく彼は、あの長らく恋をしている軍団長が敢えて動いていない理由を理解した。
 本当に欲しいモノのために、あれは単純に取捨選択をしているにすぎないのだ。手に入れるだけなら本当に簡単で、けれどそれでは本当に欲しい、その存在全ては決して手に入らない。器だけあっても、心が無ければ全てではないし、器で満足できる程度の想いなら、誘拐のような行為はしていない。写し身を作って愛でればいいだけの話。そうでないからこそ、互いの世界の関係悪化の可能性をわかっていても連れてきたのに。
 そういう顔で見られるために捕まえた訳ではない。ましてこの先ずっとそんな顔を向けられたい訳でもない。
 さてどうすれば良いのか、と思っても、こういう時にどうすれば良いのか、長く存在してても尚思い浮かばない自分が情けない。この自分にこんな思いをさせたのは、後にも先にもきっと目の前の存在だけだろう。取り敢えず更に動いたら余計に相手の表情が曇るかもしれない、と思った彼は。
「どうすれば良い?」
 するり、と問いかけていた。
 決して自分は動かないように気をつけつつ、しかしじっとその存在を見ながら。
「どう、って」
 細い声。意識をなくす前は殆ど悲鳴のようなそればかり聞いた気がする。けれど多分本当はもっと色々な響きがあるはずで、実際天界で他の天使と話していた時は全く違っていた記憶がある。こんな、消え入りそうな声で話されるような関係になりたい訳ではない。
「あんな、あんなことをしたのは、貴方なのに」
 何を言っているかわからない、といった顔で見てくるその天使。その背中にはもう羽はなく、天使としての力もほぼないけれど。
「抑えられなかった」
 悪魔に取って嘘はよくあることだ。けれど、ここにおいて彼は、嘘を言うことは思いつかなかった。何となくだが、ここで嘘を言ってしまうと今後の全てを疑われるような気がしたし、例え悪魔が嘘をつく存在であったとしても、疑われたくない真実を抱えている上に今後も彼女を離す気のない彼にとって、それは好ましくなかった。
 だから、本当に正直に、吐露する。
「そなたを前に、我は簡単には欲望を抑えられぬらしい」
 故にああいう行為に及んでしまった、と。
 本当にただの事実を言えば。
「なぜ」
 当然のように返ってくる問い。まだ怯えは拭いきれず、けれどそこには疑念があって。
「恋をしているからだ」
 はっきりと言えば、大きな桃色の目が更に大きく見開かれて、酷く驚いたように、信じられぬ何かを見たかのような顔をされたものだから、これ以上一体何を言えば良いのだろうかと、元より言葉の少ない悪魔をして、本当に途方に暮れてしまったのだ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み