芽生える 1

文字数 2,661文字

 ゾルデフォンが天界の門をくぐると、そこは相変わらず魔界よりも平和な光景が広がっていた。
 常に夜空である魔界とは違い常に青空である天界では、空に巨大なクジラがのんびりと泳いでいる。それははるか昔に、ある天使が地上で絶滅しかけていたそれを救い上げてきたものであるしいのを、彼はどこかで聞いた記憶があった。天使の行動は悪魔と異なり神の意図に忠実かつ規則正しいのが基本だが、時々彼らは悪魔を上回るような謎の行動をする時があって、今丁度彼の真上を泳いでいるクジラは、その良い例だった。
 しかも天使は本来的にも欲望で動いていないので、なおさらその意図は読み辛い。
 規則さえ破っていなければおよそ特に行動の制限もないせいで、実は天界は魔界よりも無法地帯に近かったりする。そんなことは彼にはどうでも良かったが。
 とりあえず事前の打ち合わせ通りの時間に現れた彼を出迎えたのは、黒髪の大天使だった。
 確か、現在の天界の軍団長の抱える筆頭の部下であり、天界でも二番目には強いと言われる天使である。髪や目の色が属性を示す天使の中で黒髪は実は非常に珍しい。というよりも、黒髪の天使は「普通生まれない」。黒は、魔の色であるからだ。悪魔には多いが、天使が持つ色ではない。つまり、この天使は、天使でありながら悪魔たちが標準で持ち合わせている魔の属性を持っている。
 二番目に強いのは、ほぼそのせいだ。天使の属性と本来ならば対極である魔の属性を持つこの天使には、悪魔の力はほとんど効かない。大多数の天使が痛手を受ける悪魔の攻撃も、この天使に関しては、そよ風程度でしかない。そして当然に天使の属性も持つが故、天使からの攻撃だって同じで。故に、実は現在の天界の軍団長の次に魔界では脅威とされている存在である。
 なおそれでも尚、現在の軍団長がそれを上回る脅威とされるのは、その力の強さ以上に歴史上でも稀な「全属性」であるからだ。つまり魔の属性どころか、あらゆる属性が軍団長にはほぼ効果がない。そんな面倒臭い盾が二つもある天界の軍団を前に、今この時にわざわざ戦いを挑もうなどという悪魔などいる筈もない。
 ゾルデフォンの個人的な所感で言えば、おそらく全面戦争をしたら魔界は負けるだろう。何しろ主力となるだろう天使のどっちにもに悪魔の攻撃がほぼ効かないのだから。その上相手の攻撃は悪魔によく効く。全くどうしようもない。
 まぁ、それはどうでも良いのだが。
 何しろ悪魔は欲に忠実なのだ。己の欲を守る為ならば天使への本能的な嫌悪感なども余裕で我慢するし、あえて勝てそうもない戦争を挑もうなどとは絶対にしない。それで欲望が満たせなくなったら意味がないので。
 そんな悪魔を天界はどう思っているのか。少なくとも警戒を解いていることは一度もない。
 一応安全な方だと思われていても悪魔貴族なので、毎回彼が天界を訪問する場合には出迎えがあるし、その場合にはほぼこの天使だった。おそらく万が一のことを考えられているのだろう。確かに、何か間違って彼が本気で暴れれば、止められるのは目の前の天使か、軍団長しかいない。
「お疲れ様です、ゾルデフォン様」
 至極丁寧に黒髪の天使——通称でいう名前はレイン——は挨拶をしてきた。
 この天使は毎回悪魔への嫌悪感など全く出さない。天使は嘘をつかないので、恐らく本当にレインには悪魔への悪感情などないのだろう。友好さもない完全に事務的な応対は、そもそも何の感情も持ってないからだと思われた。
 もちろん、それに対し彼が思うところは何もない。
 ただ黙って頷くだけだ。
 ゾルデフォンはあまり会話を好まないし、それはレインも知っているので、特に無駄話をするわけでもなくすぐに「ご案内します」と彼を連れて目的地まで転移する(天界内では、悪魔は転移自体が実は許されていない。移動は、案内役の天使の転移先など、案内役が同行する場所に限られている)。
 そしてゾルデフォンが案内されたのは、いつもの会議室、ではなく、どこかの私室のようだった。
 煩雑に置かれた大量の書類の中、かろうじて応接用のソファーなどの置き場所が確保されているような、普通客人を案内しないような場所だ。
「お連れしましたよ」
「ありがとー!」
 その部屋の、最も書類が山になっている奥の机にレインが声をかけると、山の向こうから聞き覚えのある声がした。
 先ほどからちょいちょい思い出していた、あの天界軍団長だ。
 存在が現れたのは確か過去に天界と魔界が戦争した後あたりだったか。天使も悪魔も、創生の存在以降は人間のように番って生まれるのではなく、魂の転生によってある日突然に「存在が出現する」。それは神の定めた世界の法則によるものであり、最も始めに神に創られたゾルデフォンですら仕組みはよく分からない。ただ、そういうものなのだ。
 魂は人間や動物や妖精や、様々なものを巡りながら、一部の魂が天使や悪魔になる。
 ただ創生の悪魔であるゾルデフォンや他該当する一部の天使悪魔に関しては、おそらく魂から完全に神に創られているのでその限りではないと思われるが、どっちにせよ同じ悪魔や天使であるし、存在した年月で力が全て決まるわけでもないので、その辺はどうでも良い。偶然ゾルデフォンは大悪魔で、かつ大悪魔の中でも上位に創られているが、創生の悪魔でも小悪魔や中悪魔は普通に存在している。天使も同様だ。それらの中でなら強い方であっても、中悪魔が大悪魔に勝ったりはしない。
 そして時々こうして「出現して」増えるものの中に、明らかにバランスから崩すかのような、強大な力を持つようなものが現れる。そうでないものも当然出現してるし、その方が多いけれど。
「ちょっと待っててねー」
 聞こえる声は、呑気なものだが、この相手はいつもそうである。
 だが普通に対峙すれば、ゾルデフォンですら一撃入れられかどうか分からないほどには、力の差があるのだ。
 稀にそういう存在が発生するのは魂の輪廻によるものなのか、あるいは神の定めであるのかは知らない。どちらにせよ現に相手は彼よりも後から出現し、そしてどうしようもない程の力を最初から持っていたのだから、それは彼自身が最初から大悪魔であったのと同列でどうしようもないことなのだろう。
 天使も悪魔も、存在は出現するもの。
 基本的にその滅びは、例外を除いては己で選んで滅んでいく。寿命のある人間などとは本質から違う。
 とりあえずまだしばらく顔を出しそうにない相手の様子に、彼は黙ったまま近くのソファーに腰を下ろした。
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