過ごす 2

文字数 2,272文字

 その日はいつも通りだったように思う。
 天使なのに一定時間眠るのを好む彼女を見守って、目覚めた後は取り留めのない会話(主に彼女が話していたが)をして過ごして。
 だから、その話は唐突に始まったのだ。
「でももし、私が誰かに恋をされたら、きっとその相手にとっての私は、あの方にとってのあのお方のような存在になってるという事だから、代わりとかいないから、私は可能な限り、その相手の方の想いを大事にしようって。もちろん出来る事と出来ない事はあるけど、もし出来る事があるなら絶対に私はその方に辛い思いはさせないようにしようって、思ってて」
 彼女用に用意された白い椅子に座ったまま、そばに立っている彼をじっと見上げる桃色の目は真っすぐ且つ真剣で。
 基本面白いことを言えるわけでもなく、会話といっても淡々と質問に答えるか聞いてるだけ、という状態の彼に対し、あの日以降彼女はかなり色々なことを話しかけてきた。悪魔ですらつまらなくて飽きる彼との会話を、決して諦めず手を抜かず彼女は向き合っていたように思う。
 そして今、何か大事な事を言おうとしている。
 だから彼は一見はいつも通り、けれど内心は少しの焦りと共に話を聞いていた。
「私は恋をしている訳ではないから、きっと今のままだと、貴方の中で安心する事は絶対に無いんです」
 それは違い無い。
 恋をしていなければ本質がはっきりしてる天使と悪魔だって、それなりの自由はあるし、例えば他の誰かに恋をする可能性だって残しているのだ。迷わず彼が彼女を連れ帰ってきた理由はそこにもある。出会わなければ関係無い恋も、出会えば避けられないのだから、当然それを回避するには「誰にも会わない場所」に在れば良い訳で。
 つまりこの屋敷のような。
 それは、彼女も薄々察しているのだろう。けれどこんな場所に連れて来ても尚、決して安心できる訳では無い、ことも。
「だけど、あまり長く無い間かもしれないけど、貴方を見て、貴方と話して、私は、貴方自身の事を大事だと思い始めてます。悪魔だけど、酷いこともしたけど、でも貴方は私の事を本気で思ってくれてて、そして本当に私の事を優先して考えようとしてくれて、自分自身よりも私を想ってくれている。それが、わかったから」
 その時、そっと手に触れたのは、彼女の小さな手で。それは最初に彼女から、彼に触れた行為。
「私の存在で、貴方を壊したくない」
 創生から存在するが故、彼女も幾つか見てきたのだろう。恋をしたモノの行き着く先、残酷なそれを。
「私で良ければ、貴方に全部、あげます」
 はっきりと、彼女は言った。
「ただその、さすがに私にも嫌だなって事はあるんで、そこは譲って貰いたいですけど、それで良いのなら、貴方が安心するために必要な私の全部、あげます」
 それはひどく神聖な言葉。
 そしてひどく残酷な宣言。
 けれど、天使に嘘はない。
 聞いた瞬間にぞわり、と彼の全身を覆ったのは、歓喜かそれとも。
「私で良ければ、一緒にいましょう」
「そなたでなければ、駄目だ」
 まだどこまで許されているのか分からずに、けれどどうしても抑えることも出来そうになくて、横髪に唇を寄せたその時に、彼女の両手が伸びてきてそっと彼の首に回る。体格差はどうしようもなくて、羽もない彼女はもう飛ぶ力も残っていなかったから、ふらふらとつま先で立っていた。しがみつくように、その両手が彼に絡んで、耳元でその可愛らしい声が囁いた。
「もう、いいですよ」
 彼女がこの場所に来てから、もうどれだけの時間が過ぎただろう。
 人間ではない彼らに過ぎる時間の概念は薄い。まして創生から存在している彼らは余計。
 けれど、決して短いと言い切れない時間が、もう二人の間にはあって。それは、最初の経緯を考えれば驚くほど穏やかに流れた時間だったけれど。その時間も、彼は別段不満なく過ごしていたけれど。
「私は貴方にあげたんです。貴方を、私にください」
 その言葉で、自分の一部はまだ渇いていたんだ、と気づかされる。
「でも、すごく痛いのは苦手なので、それはちょっと嫌ですよ?」
「考慮する。気持ち良いならいいのか?」
「あの、えっと。貴方になら。でも、私が、その、ちょっと変になっても、嫌がらないでくださいね。最初の時も、実は最後の方、自分でもよく覚えてなくて」
 それが限界だった。
 本当に何もわかっていないのが腹立たしくて、可愛くて、愛しくて。肉欲とはまったく違う衝動でもって、彼はまだ喋っているその唇を奪って言葉を止める。最初は驚いたように体を硬直させた彼女は、それでも来た当時のそれよりも少し乱暴さの抜けたその行為に、しばらくは躊躇したような動きをしていたけれど、やがてその細い腕が意志を持って彼の髪を撫でるように動き、拙いながらも自らも彼に応える。
 やっている行為は、前とあまり変わらない。むしろ今の方がずっと浅い。
 けれどその行為が齎す満足感は、前とは全く違い。
 彼女自身が彼を受け入れようとしているその意志と動作が新しくもたらすのは、一方的な中では絶対に得られないもの。多分、彼がこの先ずっと欲しいと強く願っている、欲の根源。ただぶつけるだけではない、恋をしている自分を、受け止めて、受け入れて欲しいという、願い。
「そなたでなければ意味がない。どんなそなたでも、我は」
 ほんの少しだけ離れた隙に言おうとした言葉は、睫毛が触れる程近くにある桃色の目に飲み込まれる。
「私は、貴方で良かったって、思います」
 そんな事を言われて、衝動が収まる訳もなく。
 彼はもう迷わずその細い体を抱き上げた。
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