5・今回の一連の件についての考察

文字数 1,608文字

さて、世界中に大きな衝撃が走り、自身も大きなショックと
不思議な身体的異変を経験する事になった今回の事件ですが、
これはどういった現象として捉えるべきか。

今回の件は旧約聖書にあるような神の力の表れ、顕現と呼ばれる現象である事は
ほぼ間違いがないと思います。

自分も、こんな事態を生きて目にするとは思いませんでした。
旧約聖書の時代はそれこそ何千年も昔の事で、新約聖書の時代を除けば
その間神がはっきりと力を現した事例というのはそれこそ何千年ぶりかという感覚があります。

印象ではモーセがシナイ山で十戒を授けられた時のような、
何か神の指が天から降りてきてノートルダム大聖堂にそっと触れたような、
歴史を超越した出来事のように思えます。

さらに世界中の人々の記憶に、メディアに、ネット上の記録に残り、
尖塔の風見鶏など物的証拠も残り何なら今でも触れてみる事すら出来るような形で起こり、
これだけはっきりと残る形で神の力が現れたんだとしたら、
これは人類の歴史上初の事になるのかも知れません。

こういう形の神の力の現れかたは想像した事もなかったと言いますか、
そういう力が現れるとしたらもっとわかる人だけに神秘的にもたらされるといったようなイメージを
抱いていたと言いますか、まるで世界中の注目を集めるために
ああしてあえて大きな衝撃を伴う表現をとったようにも思えますね…

そしてさらに、事件の一連の流れを思い返してみますと、
まず神聖なるものが傷つき、失われようとしているという絶望と悲嘆が襲い、
しかしその中にも再建への希望が存在し、そして全倒壊すると思われていた建屋が
奇跡的にほぼ無事だった…というのは、
聖書のイエスキリストの受難の場面を想起させる感じがします。

つまり、恐らく二千年前にも、イエスキリストが磔刑に処される際には
聖母マリアや聖使徒、信徒達の多くが嘆き、悲しみ、しかしイエスキリストは死後に復活を遂げると
人々に伝えていたので嘆きの中にも復活の希望が存在し、
そしてイエスキリストは復活を遂げ人々は驚き喜んだ…といったように、
新約聖書の受難の場面の流れとノートルダム大聖堂の火災は人々の感情の流れが一致するんだと思います。

そして今回の事件は、神がイエスキリストの受難の場面を
感情を想起させるという独創的なやり方で、自らの手でもって改めて地上に再現なされた…
と、見ることができるのではないでしょうか。

その証拠に、今回の事件と聖書の受難の場面の関連を連想させようとするかのように、
ノートルダム大聖堂の火災が発生したのは受難週中での出来事です。

ノートルダム大聖堂炎上事件で悲嘆に暮れ、涙を流し、そして倒壊せずに安堵し喜んだ人達は、
二千年前にイエスキリストが磔刑に処される際に、その場に居た
聖母マリアや聖使徒達、マグダラのマリアや当時の信徒の人々と
時空を超えて同じ気分を共有された…という事ができるのではないでしょうか。

今回の事件でとくに敬虔な方で大きく悲嘆し、涙を流された方々の心に宿った感情は、
はるか二千年前にイエスキリストの最後を見守った人々のものを共有した…という、
これはとてつもなく貴重な神からのプレゼントなのかも知れませんね。


・そして、更なる符号…?

ノートルダム大聖堂は、聖母マリアに捧げられた聖堂になるそうです。
ですので、中には基本的にイエスキリストの像は存在してないのではないか…?と
何となく想像します。

そうであれば、イエスキリストの像のないノートルダム大聖堂は
聖書の場面の、復活を遂げ空になったイエスキリストの墓のようではないかと
何となく想起されます。

実際、ノートルダム大聖堂の中にイエスキリストの像は存在していないのでしょうか。
日本でネットで調べるのも限界がありまして、現状では何とも言えないですね…。
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