17・黙示録

文字数 35,221文字

聖書には、ヨハネの黙示録と呼ばれる神秘的、幻想的な章が存在します。
これは、当時パトモス島に住んでいたヨハネという名の人物が著したものとされています。

古来では、この黙示録及びヨハネの福音書は、共に12使徒の聖ヨハネが著したものとされてきました。
その後様々な研究がされ、文体などから見て現在ではそれぞれは別人説が主流のようです。

しかし、どうでしょうか。
もしかしたら、不思議な歴史的経緯があって、これらは本当に
12使徒の聖ヨハネが自ら著したものだったりするのかも知れませんね。

黙示録の内容は難解で、その難解さを都合よく解釈する者が現れ
悪用されるのではないかという危惧があり、正典から外そうといった議論が度々なされました。

しかし、何らかの意思が働いたのか、
ヨハネの黙示録は現在でも正典として聖書に収められています。

黙示録の内容は、終末の時に訪れるという神の裁きを書き記しています。
人類が3分の1死滅するといったような、とても現実に起こるとは思えないような内容です。

しかし、全能で何でも出来る神が実在するならば、
そういった事が現実に起こる事も十分あると考えられます。

黙示録は、ある種の警告であると考えられます。
人々が大いな神の怒りを招くほど、堕落してしまった場合に発せられる…。

ですので、
書いてあるメッセージは真剣に考察しないといけないのかも知れません。
難解な内容なので、自分もほとんどの部分を理解できるとは言えませんが…。
それでも、なるべく頑張ってこうではないかなという事を考えて行きたいと思います。

黙示録とは、読む人に対しこれはどういう事かと問いかけをする、
そういった書になるのかも知れませんね…


・著者ヨハネの前に現れたヴィジョン

黙示録の著者ヨハネは、エーゲ海にあるパトモス島という所に住んでいたある日、
背後で声がし気配を感じ振り向くと7つの金の燭台と、その間に立つ長い上着に胸に金の帯をしめた
人の子のような存在を目にしました。

その姿は羊毛のように白い髪の毛と頭、目は炎のようで足は炉で精製された真ちゅうのように輝き
声は大水の轟きのようであり右手には7つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が突き出し、
顔は強く照り輝く太陽のようだったと黙示録は記します。

その存在は、初めであり終わりであり、また死んだ事はあるが
世々限りなく生きている者であると語り、ヨハネに対し見たこと、現在のこと、
これから起こることを書き記しなさいと求めます。

死んだ事はあるけれども生きている…という言葉で、
ヨハネの前に現れたのはイエスキリストではないかと推察されます。
そして、口から突き出た鋭い剣は断罪を意味すると考えられています。


・7つの教会へのあいさつ

黙示録第2章、3章では、その当時存在していたアジア(小アジア、アナトリア半島)の
エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、ヒラデルヒア、ラオデキアの
7つの教会へ向けた言葉が記されています。

紀元1世紀ごろ、その地域はローマの支配下にあり、迫害はありながらも
キリスト教の布教が盛んに行われていたようです。

その教会へ励ましとアドバイスという形をとって、
黙示録の著者ヨハネにこう書き送りなさいと指示がされました。

各教会に書き送りなさいと言われたそれぞれの内容を
簡略に書き出しますと、

・エペソにある教会
 その行いと、苦労と忍耐をしている事を知っている
 使徒と自称してる者たちを試し、偽者であると見抜いた事も知っている
 初めの愛から離れてしまい、その事についての悔い改めが必要
 ニコライ宗の人々の行いを憎んでいる

・スミルナにある教会
 あなたの苦難や、貧しさを知っている(しかし実際にはあなたは富んでいる)
 自称ユダヤ人の、実はそうではないサタンの会堂に属する者たちにそしられている事も知っている
 これから受けようとする苦しみを恐れてはならない
 悪魔があなた方のある者を試すために獄に入れようとしている。あなた方は十日の苦難にあう

・ペルガモにある教会
 サタンの座がある
 忠実な証人アンテパスが殺された時でも信仰を捨てなかった
 バラムの教えを奉じている者がいる
 ニコライ宗の教えを奉じている者もいる。この事について悔い改めが必要

・テアテラにある教会
 あなたの行いと、愛と信仰と奉仕と忍耐を知っている
 初めの行いよりも、後の行いのほうが勝っている事も知っている
 しかし、イゼベルという自称女預言者をするがままにさせ不品行が広がっている
 なので私はこの女を病の床に投げ入れる
 この女と姦淫する者も悔い改めなければ大きな患難に投げ入れる
 こうして全ての教会は私が人の心の奥底までも探り知る者である事を知る
 イゼベルの教えをまだ受けていない者には重荷を背負わせる事をしない

・サルデスにある教会
 生きているというのは名だけで、実は死んでいる。目を覚まして死にかけている残りを力づけなさい
 あなたの行いが神の御前に完全であるとは見ていない
 どのように受けたか、また聞いたかを思い起こしそれを守り通し悔い改めなさい
 目を覚ましていないなら、私は盗人のように来る。その時はあなたには決してわからない

・ヒラデルヒアにある教会
 あなたの前に誰にも閉じる事のできない門を開いておいた
 少ししか力がなかったにも関わらず、私の言葉を守り、名を拒まなかったため
 サタンの会堂に属する偽りのユダヤ人をあなたの足元に平伏するようにする
 忍耐についての私の言葉を守ったから、全世界的な試練の時にあなたを守る
 自分の持っている物を硬く守っていなさい

・ラオデキアにある教会
 あなたの行いは冷たくもなく、熱くもなく生ぬるい。あなたを口から吐き出す
 自分は富んでいる、豊かになった、何の不自由もないと言っているが実はみじめで貧しく裸
 富む者となるために私から火で精錬された金を買い、裸の恥を晒さぬよう白い衣を買い、
 目が見えるように目薬を買いなさい
 私は戸口に立って戸を叩いている。私の声を聞いて戸を開けるなら、私は彼と共に食事をする


簡略に書きましたが、
以上が黙示録の7つの教会への挨拶と呼ばれている部分になります。

この中に出てくるニコライ宗の行いというのは、1世紀当時の初期キリスト教団の中で
忍耐や清貧の戒めを捨て去り、放縦主義に走ったニコライ派という一派が存在したらしく
その行いを指しているのではないかと考えられています。

またペルガモの教会の中に出てくる忠実な証人アンテパスとは、
どういう人物かははっきりとは判明していないようですが
真ちゅう製の雄牛の中で火あぶりにされたという伝説があり、命を落としても教えに殉じた
殉教者だったと考えられているようです。

そしてサタンの座とは異教の偶像や祭壇、あるいは教団ではないかと思われ、
バラムの教えとは金銭欲のためイスラエルの民に異教を広めさせ、姦淫の罪を犯させたと伝説にある
旧約聖書の民数記に出てくる堕落した預言者バラムの行いを指していると考えられます。

テアテラの教会に出てくる自称女預言者イゼベルも、当時に存在した人物ではなく
旧約聖書の列王記に登場する異教バアル信仰をイスラエルに広め、預言者エリヤと対立した
イスラエル王アハブの不信仰な后を象徴していると考えられています。
当時、テアテラの教会内に異教を広める権力を持った女性が居たのではと推察されているようです。

これらの記述を見ると、ごく初期のキリスト教の教会も
旧約聖書の時代と同様に、教えを異にする異教からの誘惑や混交の危機に晒されていた事が伺えます。

しかしその中で誘惑を断ち、教えを堅持した者は
勝者として天国の命の木の実を食べる事が許されたり
隠されたマナを与えられたりと様々な恵みが約束されると黙示録は記します。

以上の事がらは、一見すると当時の小アジアに存在していた7つの教会に向けて発せられた
励ましと悔い改めるべき事についてのアドバイスのように見えます。

しかし、少し連想を働かせて見ますと国や地域、それからあなた自身にさえも
何らかの関連性が見出されてくるのではないでしょうか。
例えばエペソの教会について言われてる事はまるで自分に言われているようだとか、
あるいはテアテラの教会でしたり、その他の教会についてもそんな感覚を受けるような気がします。

もしかしたらですが、この各教会についての言葉は当時の教会のみならず
全世界の人々に向けられたもので、様々な物に当てはまる言葉なのかも知れません。

書かれている内容は、問題の起こる原因として放縦、金銭欲、異教、不品行などが上げられ
それに対する悔い改めを求めるものです。

特に最後のラオデキアにある教会については、当時信仰に熱心さが少ないと判断されたのでしょうか
厳しい言葉がかけられていますが、これは現代的な目で見ると不信心、不信仰で
物的豊かさのみを追い求める現代の人々に対する警告のように見えてきます。

なので神様に目を向け、神様の求める節度のある生き方を心がけていないと
生きている間に、あるいは死んだ後に大きな罰を受ける事になるのかも知れません。

ラオデキアの教会でイエス様の仰っているアドバイスは、不信仰な人に生き方を清く、
そして神が見えるように、つまり神を信じるようになりなさいという事なのかも知れません。

私の火で精製された金を買いなさいとは、少し難しいですが苦しむ人や教会に寄付とか、
そういった事なのかも知れません。火災に見舞われたノートルダム大聖堂に対する寄付といったような。
ノートルダム大聖堂は火災にあいましたけれど、中の金の十字架はしっかりと立ってましたからそんな連想が浮かびます…。
しかし、真実を知っているのはイエスキリストその人だけなのかも知れません。
(注:その後もう少し調べた結果、私の火で精製された金とは不純物のない純粋な信仰心という事の可能性が高いことが判明しました。お詫びして訂正します)


・7つの封印

次の場面で黙示録には、世の中に対して起こる様々な災害が記述されています。
天の門が開き、そこに誘われたヨハネは天界と思われる所に到達し24人の長老、獅子、雄牛、人、鷲に似た
4つの生き物、そして前に7つのともし火が燃える稲妻を発する御座に座られた方を目撃します。

御座に座られた方の右手には、7つの封印で封じられた巻物がありました。
この封印を解くのにふさわしい者は誰かと天の御使いが大声を上げますが、天にも地にも
それにふさわしい者が誰もいないようで、ヨハネは激しく泣きます。

しかし、長老の一人がユダ族の獅子、ダビデの若枝である方が勝利を得たので
その巻物を開き7つの封印を解くことができるとヨハネに告げます。
すると、象徴的なイエスキリストと思われるほふられた小羊が前に進み出て、
御座にいる方の右手から巻物を受け取ります。

次の場面で、この封印が一つ一つ解かれるごとに
地上に起こる様々な災害が黙示録には記されています。

7つの封印のうち4つが解かれると、4つの生き物がそれぞれ大きな声で来たれと呼ばわり、
白い馬、赤い馬、黒い馬、青白い馬に乗った者が現れます。

白い馬に乗った者は弓を持ち、冠を授けられ勝利の上に勝利を得ようと出かけて行きます。
赤い馬に乗った者は人々が殺し合いをするよう平和を奪う力が与えられ、大きな剣が授けられます。
黒い馬に乗った者は手に秤を持ち、4つの生き物の間から「小麦1ますは1デナリ。大麦1ますも1デナリ。
オリブ油とぶどう酒をそこなうな」と声が上がります。
最後の青白い馬に乗った者は名前を死と言い、黄泉を従え、地の4分の1を支配する権利および
剣と飢饉と死と地の獣によって人を殺す権威が与えられます。

一般的に、黙示録の四騎士と呼ばれる存在が登場する場面です。
彼らはそれぞれ支配、戦争、飢饉、死や疫病を象徴していると言われています。

これらは様々なものに対応が考えられているようです。
例えばそれぞれを国家に当てはめ、白い馬はヨーロッパやアメリカ、
赤い馬は共産主義国、黒い馬がアフリカ等とするものや、
または法による統治、戦力、石油資本、人命への支配と見て現代の様々な統治機構、
それか王、武力、経済支配力、剣闘と迫害を象徴しているとして当時のローマ帝国とする見方もあるようです。

重要なのは、前の場面に書かれている、イエスキリストの象徴と見られる
ほふられた子羊が勝利を得たので巻物の封印が解かれるという事で、
これはつまりイエスキリストが磔刑にかかり、死から復活し昇天した後の出来事になると考えられるのではないでしょうか。

なので状況を考えると、黙示録の内容は書かれたと見られる時代、
1~2世紀の当時のキリスト教徒とそれ以降の人々に主に向けられたものであると考えられます。

黙示録の書かれた時代はネロ皇帝がローマを支配していた西暦70年ごろ、
あるいはドミティアヌス帝の西暦96年ごろと考えられているようですが、
どちらもその時代キリスト教に対して大いに迫害があった事で有名です。

すなわち、黙示録に登場する戦争や災害、疫病などの描写はまず1世紀以降の
ローマ帝国の未来を予見したものではないか…と考えられます。

黙示録で第5の封印が解かれると神の証のために命を落とした殉教者の霊魂が復讐を求め、
そして第6の封印が解かれると大きな地震と天変地異が起こり、多くの人がほら穴や岩陰に身を隠し
大いなる神の怒りに震えたと記述が続きます。
これは西暦76年にポンペイを襲ったベスビオス火山の大噴火が何となく想起させられます。

そしてローマ帝国はその後西暦313年にキリスト教を公認しますが、
380年ごろ俗に言うゲルマン民族の大移動でゴート族やフン族等の異民族の攻撃が始まり、
神の力にすがろうとした思惑もあったのでしょうか西暦392年キリスト教を国教に定めますが、
その後の395年に東西に分裂しかつての領内にはゴート族やフランク族の異民族が次々に新たな国を立て、
432年には暗示的にベスビオス火山が再び噴火し、その後衰退が続く西ローマ帝国は475年に消滅します。


東ローマ帝国はビザンツ帝国として継続しますが、ローマ帝国の復興を目指した
ユスティニアヌス帝の治世の時代には西暦540年ごろからペストと思われる疫病が
60年も流行し、国の機能が停止するほどになったと伝えられています。

黙示録に書かれている内容を、ローマ帝国の歴史に細かく当てはめてみると
そこに様々な符合が見出せるのかも知れません。

隆盛を誇り、いつまでも繁栄を続けていても不思議ではないように思われたローマ帝国が
最後には不思議なほどにあっけなく崩壊してしまった理由は、周辺の国が力をつけ始めた事や
政治力の衰退による民衆の求心力の低下、それによる国力低下など色々な原因が考えられますが、
神学的な見方をすればキリスト教徒を迫害し、多くの殉教者を生じ神の怒りをかった事が原因だったのではないかとも思えます。

さらに聖書の記述では、ローマ人ピラト総督は何とか放免しようとしていましたが
結局イエスキリストを直接鞭打ち、十字架にかけたのはローマの兵士達でした。
繁栄の絶頂にあったローマが最後に衰亡していく運命は、この時に決定されたのかも知れません…。

そしてイエスキリストを死刑にする事を求め、イエスキリストの死の原因となったユダヤの人々も同様に
まるで罰が下されたかのように西暦66年と132年に勃発したローマとの間の戦争、第一次・第二次ユダヤ戦争で
多くの人が死に、国土は荒れ果て、エルサレムは廃墟となりユダヤ人の祖国イスラエルはパレスチナと名前を変えられ姿を消してしまいました。

現在でも、この西暦66年と132年に起こったユダヤ戦争はイエスキリストに死刑を宣告し
磔にしてしまったユダヤ人に対する神の罰ではなかったのか…と考える人も存在するようです。


話が逸れましたが、黙示録は第6の封印が解かれた場面に続いて
天の御使いが人々の額に神のしもべの印をつけていく記述に移ります。

天の御使いは生ける神の印を持ち日の出る方角からやって来て、
地の四方にいる他の4人の御使い達に神のしもべの額に印を押し終わるまでは
地、海、木を損なってはならないと宣言し人々の額に印を押して行きます。

その数は、イスラエルの全ての子らのうち14万4千人と記されています。
これは、紀元1世紀から4世紀にかけてキリスト教に改宗した
ユダヤの人々の数を表わすものでしょうか。
それとも、よく言われるように最後の審判の時に救われる人数を表すものでしょうか。
それを今の段階で我々が正確に知ることは、不可能なのかも知れませんね…。


・第七の封印と御使いの七つのラッパ

黙示録の次の場面では、巻物の最後にある第七の封印が解かれます。
封印が解かれるとしばらくの間静けさが訪れ、やがて神の御前に立つ七人の御使いに
それぞれラッパが与えられます。

また別の御使いが現れ、持っていた金の香炉に神の御座の前にある金の祭壇の炎を満たすと
それを地に向かって投げつけます。

すると多くの雷鳴ともろもろの声と、
稲妻と地震が発生します。

そして七人の御使い達がラッパを吹く準備をし、
一人づつラッパが吹き鳴らされるたびに地上には様々な災害が起こります。

第一から第四までのラッパが吹き鳴らされると、
地の混じった雹と火とが天から降り、地の3分の1、木の3分の1、それと
全ての青草が焼けてしまったり、燃え盛る大きな山のようなものが海に投げ込まれ
海が血のようになり海に住む生き物の3分の1が死に、船の3分の1が壊されてしまったり、
苦よもぎという名の星が川の3分の1の水源に落ち水が苦くなり、そのために多くの人が死んだり
太陽と月と星が打たれ、それぞれ明るさが3分の1になってしまったりと
様々な災害が起こる様子が記述されています。

一つ一つの災害のスケールも大きく、
これは世界的な規模の異変を想起させるようなものに思えます。

実際の世界でも、例えば第一のラッパが吹き鳴らされた時に雹が降り
地と木々の3分の1と全ての青草が焼けてしまったという記述は
今年8月ごろに発生し、現在も続く南米の大規模な森林火災が思い起こされます。

そして黙示録の記述に符合するかのように、
その少し前の7月の暑い最中にメキシコで大量の雹が降り、
場所によっては積もった量が2mほどにもなったという事がありました。

また、第三のラッパが吹かれた時に川に落ちてくる苦よもぎという名の星は
旧ソビエト時代にメルトダウンが起き、大きな爆発事故が発生したチェルノブイリ、
訳すと苦よもぎという意味になるチェルノブイリ原発の事ではないか…と当時は噂されました。

こうして見ると、黙示録の内容と一致するような出来事が
世界を揺るがす、歴史的に大きな事件としてたびたび発生しているようにも思えます。

しかし、それぞれ大きな被害のあった事件である事に間違いはありませんが
全世界的な災害をイメージさせる黙示録の記述よりは
これらの事件はややスケールが小さく感じるかも知れません。

ただ、抽象的になりますが、世界的に人の犯す罪が重なっていけば
黙示録に書かれている海が血のようになり、海に住む生き物の3分の1が死滅し…といった出来事が
まさに書かれている文字通り、それこそ信心深くない人にさえもはっきりとわかるようなレベルで
現実に起こる可能性もあります。例えばですが、苦よもぎと名のついた大きな彗星が地球に衝突し
それに含まれていた有害な成分が世界中の水源を汚染して大きな被害が出るといったような。

黙示録に書かれている災害と、それが現実とリンクしているかのようにも見える事件は
人々の罪に対する警告であると同時に、世界中の人々に目覚めよと呼びかける
天界からのサインのように思えてならないのです…


・更なる災い

黙示録の記述は、空を飛ぶ一羽の鷲が「ああ、わざわいだ、わざわいだ、地に住む人々は、わざわいだ。
なお三人の御使いがラッパを吹き鳴らそうとしている」と大声で言う場面に続きます。
そして次に、第五のラッパが吹き鳴らされます。

すると一つの星が天から地に落ちてきて、与えられた鍵で底知れぬ所の穴を開きます。
そして穴から煙が立ち上り、太陽も空気も暗くなり、その穴からいなごが出てきます。
そのいなごにはさそりのような力が与えられ、草木は損なってはならないが
神の印が額にない人達には害を与えてよいと言い渡されます。

このいなごには人を殺す力はありませんが、人がさそりに刺された時のような苦痛を
5ヶ月の間与えて苦しめます。
その時には人は死を求めても与えられず、死にたいと思っても死は逃げて行きます。

そのいなごは出陣の用意の整えられた馬によく似ていて、頭には金の冠をかぶり
人間のような顔をしていて、その髪の毛は女性のようであり獅子の歯を持ち、
そして鉄の胸当てをつけ、その羽音は馬に引かれる戦車の響きのようであり
さそりのような尾と針を持っているとあります。

彼らは底知れぬ所の使いを王に頂いていて、その名をヘブル語でアバドンと言い、
ギリシア語ではアポルオンと言うと黙示録は記しています。

そして、次なる第六のラッパが吹き鳴らされると、
神の御前にある金の祭壇から「大ユウフラテ川のほとりにつながれている四人の御使いを、解いてやれ」
という声がします。

するとその時、その日、その月、その年のために備えておかれた4人の御使いが
人間の3分の1を殺すために解き放たれました。
その騎兵隊数を聞くと、2億であったと記されています。

それらの馬とそれに乗っている者たちは、火の色と青玉色と硫黄の色の胸当てをつけ
獅子のような頭をした馬が口から火と煙と硫黄を吐き、人に害を与える蛇のような尾を持ち、
人間の3分の1を死に至らしめます。

第一から第四のラッパが吹かれた時までに記されている災害は
どちらかと言えば自然に対する災害の描写のように見えますが、
それ以降に描写される災害は額に神の印のない人々を苦しめ、そして多くの人が
死んでしまうという、人に対する直接被害がはっきりと現れ始める様子が記されています。

とても恐ろしい事のようにも見えますが、一つ望みがあるとすれば、
被害にあうのは主に額に神の印がない人間、つまりこの時被害を受けるのは神を信じず、
敬わない人間であると見ることもできるようにも思えます。

このあたりの黙示録の記述は、どうやら不信仰が蔓延しつつある現在か
さらにそれが進行した未来の世界での出来事のようにも考えられます。

事実、黙示録ではこの後に第一から第六のラッパによる災害で生き残った人々が
なお悔い改めず、悪霊のたぐいや金銀銅や石木で造られた偶像を礼拝するのをやめず、
犯した殺人やまじない、不品行や盗みを悔い改めようとはしなかったと書かれています。

黙示録に書いている事が明らかに実現したような、大きな被害を伴う
世界的事件が起こったにも関わらず、生き残った人々がなお神の存在を信じず、
聖書で禁じられている行いをやめないような状況とは一体どんなものなのでしょうか。

もしかしたら、黙示録に書かれているこういった状況の世界は
現在でもあるように神は居ないとする無神論が盛んに喧伝され
大多数の人々の考えがそれに支配され、キリスト教や教会が敬われるどころか攻撃すらされて
キリスト教や教会の機能がほぼ失われてしまった世界のように見えます。

こういった状況は、いつかやって来るのでしょうか。
今の所は、キリスト教に熱心な方は世界中に見られます。
特に、かつては共産主義国でキリスト教を禁じていたロシアが現在はキリスト教を容認し、
キリスト教国となった事で信仰者の数は大きく増えたと見る事が出来るようにも思えます。

一方、日本はどうでしょうか。
日本ではキリスト教徒の割合は1%とも言われ、大多数が仏教、あるいは神道、
またはその両方を何となく信仰している…といった状況だと思います。

日本はキリスト教国ではなく、神仏を熱心に信仰する人はそんなに多くなく…となると
神や信仰については関心の薄い国のようにも思えてしまいます。

実は信仰心がないわけではないのですが、例えば、世界的に見て
日本は人々に親切で良識ある国とされています。

これは実は、日本で古くから信仰されてきた仏教、神道、間接的に伝わったキリスト教の
教え、戒めが元で、それが長く守られる内に生活に溶け込んで誰も信仰由来のものと意識しないため
日本は信仰に熱心ではないけれど人々は良識を持っている、という事に繋がっているようです。

しかし、取り敢えずは日本の社会は犯罪が横行するようなものではなく
良識的で安定している事が当たり前で、誰もそのありがたみをあまり意識しないというのは
それはそれで問題があるようにも思えます。

なぜかというと、神の戒めに起因するから良識、モラルは絶対的な基準にするという意識がなく、
何となく社会でみんなが守ってるから自分も守る、といった様な感覚であれば
周りがみんなそうだから等の条件さえあれば、
全員が一斉に反良識的な行為に容易に手を染めてしまう事にもなったりします。

それこそ、周りがみんな神は居ないしキリスト教徒は神を押し付けてくる狂信者、
そして凶暴で戦争ばかりしている、といった意見にあまり深く考えずに同調してしまう、
というように。

信仰への理知的な理解や関心の薄さというのが、
現在や、今後の日本の多くの危難の元になるのかも知れません。

最悪の場合、今後日本の信仰心、神への探究心がどんどん廃れ、最後にはわずかばかりの
神を敬う気持ちも薄れて消え去り、誰も神を省みなくなってしまった場合には、
黙示録に書かれているような災害はまず日本に降りかかるのかも知れません…。


・小さな巻物

次の場面では、黙示録の著者のヨハネは頭に虹を頂き、顔は太陽のようで、
火の柱のような足をした一人の強い御使いが天から降りてくるのを見ます。
その御使いは手に開かれた小さな巻物を持っていました。

そして右足を海の上に、左足を地の上に踏み下ろして
獅子のような大声で叫びました。それと同時に、七つの雷がそれぞれ声を発しました。
ヨハネはそれを書きとめようとしますが。天から「七つの雷の語った事を封印せよ。それを書きとめるな」
という声を聞きます。

それから海と地の上に立っている御使いは
神の居る天に向けて右手を上げ誓います。
「もう時がない。第七の御使いが吹き鳴らすラッパの音がする時には、神がそのしもべ、
預言者たちにお告げになった通り、神の奥義は成就される」と。

すると天から
「さあ行って、海と地との上に立っている御使いの手に開かれている巻物を受け取りなさい」
という声が響きます。
ヨハネはそれに従い御使いの元へ行き、「その小さな巻物を下さい」と言います。

御使いは言います。
「取って、それを食べてしまいなさい。あなたの腹には苦いが、口には蜜のように甘い」
ヨハネが言う通りにすると、御使いの言った通りに
口には甘かったが腹は苦くなったと記述されています。
そしてその時、「あなたはもう一度多くの民族、国民、国語、王達について預言せねばならない」
という声がしました。
この事から、やはりラッパを吹く御使い達の記述からは世界的な出来事に関する記述になっているように思えます。

この場面で描写されている小さな巻物を食べるという行為は、
旧約聖書のエゼキエル書やエレミヤ書等にも出てくる表現のようです。

「すると、彼は私に言われた、「人の子よ。あなたが見つけるものを食べなさい。この巻物を食べ、
 行って、イスラエルの家に帰りなさい」。 そこで、私が口を開くと、彼は私にその巻物を食べさせた。
 そして、彼は私に言われた、「人の子よ、私があなたに与えているこの巻物で腹を養い、
 あなたの内側の各部分を満たしなさい」。私がそれを食べると、それは私の口に甘いこと蜜のようであった。」
(エゼキエル書 2:10~3:3)

エゼキエル書の中で、巻物を食べたエゼキエルは
その後にイスラエルに行って神の言葉を預言するように言われます。

エゼキエルはそこで人々の異教崇拝など様々な背信行為を目撃し、
神に言われた通り人々に悔い改めるように説得しますが人々はその忠告を拒み…と続きます。

ここに描かれているように、巻物を食べるという行為は、それに書かれている内容を
覚えるというだけでなく霊的に自分の血肉にするといったもののようです。
まるで、現在のキリスト教で行われる、聖別したパンをイエスキリストの霊体として頂く
聖体拝領のような…。


・二人の預言者と第七のラッパ

それからヨハネは、杖のような測りざおを与えられて、神の聖所と、祭壇と、
そこで礼拝している人々を測るように命じられます。
しかし、聖所の外の庭は異邦人に与えられた場所なので測ってはならないと言われます。

この測るという行為は、旧約聖書のエゼキエル書やサムエル記にも書かれていて、
神と人間との関係回復、もしくは裁かれる者とそうでない者をより分けるといった意味があるようです。
この時に測られた人々は救いがもたらされるという意味でしょうか。
そして異邦人、恐らく神を崇めず敬わない人々は測られず、つまり救われないという事かも知れません。

事実、その後異邦人は四十二ヶ月の間聖なる都を踏みにじると記述されています。
教会を攻撃し、神は居ないと言って回るような人々の事を指しているように思えます。

そしてこの時、二人の荒布を着た預言者に千二百六十日の間預言をする事を許されます。
二人は預言をしている間、天を閉じて雨を降らせないようにする力を持ち、
水を血に変え、何度でも思うままに、あらゆる災害で地を打つ力を持っています。
そして彼らに害をなそうとする者がいれば、彼らの口から火が出てその敵を滅ぼすと記されています。

しかし、その預言が終わると、彼らは底知れぬ所から登ってくる獣に
打ち倒されてしまいます。

二人の死体は彼らの主が十字架につけられた、ソドムやエジプトに例えられる
大いなる都の大通りに晒され、様々な国の人々が三日半の間その死体を眺めます。

彼らに悩まされた人々は二人の死を大いに喜びますが、
三日半のあとに二人は復活し天へと登り彼らの敵もそれを見ます。

その後に都の十分の一が倒れ七千人が死ぬほどの大きな地震が起こり、
生き残った人々は驚き恐れ天の神へと栄光を帰します。

この一連の出来事があった後に、
最後のラッパである、第七のラッパが吹き鳴らされます。

ここに出てくる二人の預言者は誰なのかは色々と考察されているようですが、
水を血に変え、天から火を降らせたと旧約聖書にあるモーゼとエリヤ、それか
一度も死なずに天に引き上げられたとあるエノクとエリヤ、または
旧約聖書に記述はない新しい預言者という3つの説が有力のようです。
しかし、今のところどれが正しいのかは不明のようです。

実際のところ、その預言者と目される人物が水を血に変え、天災を自由に引き起こし
地を打つなどの事件は起こっている兆候は見られないような気がしますので、
今のところまだ世界は黙示録に記されているここまでの状況には到達していないようには思えます。

そしてとうとう最後である第七のラッパが吹き鳴らされると、
「この世の国は、われらの主とそのキリストとの国になった。
 主は世々限りなく支配なさるであろう」
と声が響き、24名の長老はひれ伏し神を拝し、
「今いまし、昔いませる全能者にして主なる神よ。大いなる御力をふるって
 支配なさった事を感謝します。諸国民は怒り狂いましたが、あなたも怒りを表されました。
 そして、死人を裁き、あなたの僕なる預言者、聖徒、小さき者も、大いなる者も、
 すべて御名をおそれる者たちに報いを与え、また、地を滅ぼす者どもを滅ぼして下さる時が来ました」
と唱じます。

そして天にある、契約の箱のある神の聖所が開け、稲妻と諸々の声と、雷鳴と地震が起こり
大粒の雹が降ります。

いよいよ、最後の審判が訪れる時の描写のようにも思えます。
この時までには、地上に神の力が振るわれて人々はそれに対し怒りを表しているようです。
恐らくは不信仰に対しての罰であるのに、考えを改めずかえって神を責めた
旧約聖書に書かれている人々のように…。


・太陽を着た女性と赤い龍

黙示録は次に、太陽を着て足の下に月を踏み、その頭に12の星の冠をかぶった
一人の女性が産みの苦しみと悩みのために泣き叫んでいる場面に移ります。
黙示録はこの女性は子を宿しており、産みの苦しみと悩みのために泣き叫んでいたと記します。

通念的に、この女性は聖母マリアとされています。
聖書の解釈では、最後の審判の時にはどのような形になるのか不明ですが、
イエスキリストは肉体を持って現れるともされていて、
福音書に書かれているような人として現れる事を表しているようにも思えます。

それと同時に天にもう一つのしるしが現れ、7つの頭と十の角があり
その頭に7つの冠をかぶる大きな赤い龍が現れます。

その赤い龍は天の星の3分の1を掃き寄せ、それらを地に投げ落として
子を産もうとする女の前に立ち、その子が生まれたら食い尽くそうと待ち構えます。

女性の産んだ子は鉄の杖を持って
全ての国民を治めるべき者と記されています。
やはり、最後の審判の時に現れるイエスキリストのように思えます。

そして生まれた子は神の御座に引き上げられ、
女性は神に用意された避難場所の荒野へと逃れます。
その場所では、彼女が千二百六十日の間養われる事になっています。

ここで赤い龍が掃き寄せ地に投げ落とす天の星とは、
堕落に陥る聖職者と見られているようです。
聖職者の多くすら堕落してしまう、世の末はそのような状況なのでしょうか。

そして次に、天では戦いが起こったと黙示録は続きます。
大天使ミカエルとその御使いたちとが龍と戦い、龍もその使い達も応戦しますが、
彼らは勝てずに天での居場所を失います。

この巨大な龍、すなわち悪魔やサタンと呼ばれ全世界を惑わす年を経た蛇は
その使い達もろとも地に投げ落とされます。

そして著者ヨハネは天での大きな声を聞きます。

「今や、我らの神の救と力と国と、神のキリストの権威とは、現れた。
 我らの兄弟らを訴える者、昼夜我らの神のみまえで彼らを訴える者は、投げ落とされた。

 兄弟たちは、小羊の血と彼らのあかしの言葉とによって、彼にうち勝ち、
 死に至るまでもそのいのちを惜しまなかった。
 
 それゆえに、天とその中に住む者たちよ、大いに喜べ。
 しかし、地と海よ、お前たちは災いである。
 
 悪魔が、自分の時が短いのを知り、激しい怒りをもって、
 お前たちの所に下ってきたからである。」

どうやら、天から落とされた赤い龍は怒り狂い、そして
地上では大きな動乱が起こるように思えます。
戦争、あるいは災害が頻発するという事態なのでしょうか。

龍は自分が地上に投げ落とされたのを知ると、男子を産んだ女性を追いかけます。
しかし、女性は蛇から逃れ自分の場所である1年、2年、また半年の間養われる事になっている
荒野に飛んでいくために大きな鷲の二つの翼が与えられます。

蛇は女性の後ろに水を川のように口から吐き出して女をおし流そうとします。
しかし地は女性を助け、龍が口から吐き出した川を飲み干します。
何か、先日発生した、首都圏に大雨をもたらした台風19号の事が頭をかすめます。
ダムと、通称地下神殿と呼ばれる首都圏外郭放水路によって大きな水害にならずに済んだようですから…。

そして龍は、女性に対して怒りを発し、女性の残りの子ら、
すなわち神の戒めを守り、イエスの証を持っている者達に対して戦いを挑むために出て行き、
そして、海の砂の上に立ちます。


・海から上がってくる獣

次に、黙示録は一匹の獣が海から上がってくるのを見たと記します。
それには角が10本、頭が7つ、角に10の冠をつけそれぞれの頭には神を汚す名がついています。
その獣はひょうに似ており、その足は熊のようで、その口は獅子のようであったと
黙示録には記されています。

龍は自分の力と位と大いなる権威とをこの獣に与えます。
その頭の一つが死ぬほどの傷を受けましたが、その致命的な傷も治ってしまいます。
そこで全地の人々は驚き恐れその獣に従い、また龍がその権威を獣に与えたので
人々は龍を拝み、さらにその獣を拝んで、誰がこの獣に対抗できようか、戦う事ができようかと言います。

この獣にはまた大言を吐き汚しごとを語る口が与えられ、
四十二ヶ月のあいだ活動する権威が与えられます。

ここに書かれている獣とは、どちらかと言うと霊的存在だった赤い龍とは異なり、
蛇や悪魔、サタンである赤い龍の権威を受け地上で活動する現実的な存在であるように思えます。

具体的にこの獣が何を表しているのかと言うと、昔から様々な研究がされているようですが
当時のローマ帝国とアウグストゥス帝からネロ、あるいはドミティニアヌス帝までの
7人の皇帝の事であるですとか、あるいは世界的な政治機構ですとか、
または宗教はアヘンである、とし原則的に宗教は禁教である共産主義の国ですとか
様々に考えられているようです。

しかし、はっきりとこれであると一義的に断定する事は出来ないもののように思えます。
恐らく、そういった目で歴史を眺めてみると黙示録の獣に符号するようなものが
時代時代にそのつど現れているようにも見えます。

黙示録の獣とは、世の中に無理解や無関心、悪徳が広がる事によって
悪徳非道な国家連合として象徴的に表れ始め、最終的には多くの人が
それとはっきり認識するような形で姿を現すものなのかも知れません。
どういった形になるのかは、今のところはっきりとはわかりませんが…。

また、この獣はバアル信仰など、人身御供を行う古代の異教の中心だった
バビロニアとも関連づけられて考えられているようです。
もしかしたら、将来そうした古代信仰を復活させ、それを中心的な信仰とする
古代のバビロニアのような国が作られるのかも知れません。

黙示録では、この獣は聖徒達に戦って勝つことを許され、
さらに全ての部族、民族、国語、国民を支配する権威が与えられたと記されています。
これを見るに、この黙示録の獣は相当に地上に現実的な権力を振るって
人々を支配するものと読み取る事ができるように思えます。

ほふられた小羊の命の書に、その名を世の初めから記されていない者はみな
この獣を拝むとあります。
ある種の、人を引きつける強力なカリスマのようなものが備わっているのでしょうか。

そしてさらに、黙示録の著者ヨハネは小羊のような角が2つあり、龍のように物を言う
ほかの獣が地から上ってくるのを見たと記します。
これは反キリスト、偽預言者と考えられているようです。

恐らくこの反キリストである人物は。先の獣の持つ全ての権力をその前で働かせ、
また地に済む人々に致命的な傷が癒された先の獣を拝ませます。
また大いなるしるしを行い、人々の前で火を天から地に降らせる事さえします。

さらに、先の獣の前で行うのを許されたしるしで地に住む人々を惑わし
かつ、剣の傷を受けてもなお生きている先の獣の像を作る事を人々に命じます。
それからその像に命を吹き込んで、その獣の像が物を言うことさえできるようにし、
またその獣の像を拝まない者をみな殺させます。

そして、全ての人々にその右手、あるいは額に刻印を押させ、
その刻印のない者はみな物を買うことも売ることもできないようにします。

この刻印は、その獣の名、またはその数字の事であると記されています。
その数字とは人間を指すものであり、その数字は六百六十六である、とあります。


・獣の数字666

この人間を表すとされる数字666は、古来から様々な考察がされて来ました。
この数字が最初に聖書に現れる場面は、旧約聖書のソロモン王の下りになります。

ソロモン王とは、紀元前1千年前に存在した、旧約聖書の列王記に登場する、
古代ユダヤ王国に空前の繁栄を築き一説には動物と話をする事もできたと例えられる、
非常に知恵に富むユダヤ王だったとされています。

しかし晩年には数多くいた妻の誘いに乗り、アシタロテやモレクなどの
人身御供をする異教を容認し、その事で神の怒りを買い、その栄華は
一代で終わる事になったと記されています。
またこの故事から、後世にはソロモン王は悪魔を使役した、という
伝承が作られる事になりました。

このソロモン王の逸話の中に、ソロモンの王国の税収は1年間で
金六百六十六タラントだった、と記されています。

時代によって違うようですが、1タラントは30kg、または50kgと言われてますので
金六百六十六タラントとは金20トン、あるいは30トンという莫大な量になります。
これは大げさすぎる数字のようにも思えますが、それほどソロモン王国の繁栄は
大変なものだった、という表現であると思われます。

話が逸れましたが、獣の数字666とはこれを聞けば当時の人はまず
異教崇拝を取り入れたソロモン王が念頭に浮かんだのではないでしょうか。

また、エズラ記という書にバビロンから帰還したアドニカムの一族が666名とも出てくるようです。
これも何か関連があるのでしょうか。
しかし、獣の数字は人間、恐らく個人を表すものであると書いてある以上、
関連は薄いように思えますが…。


・獣の数字皇帝ネロ説

そしてもう一つ有力な説が、666とはローマ皇帝ネロの事を示すというものです。
皇帝ネロの名前をギリシャ語からヘブライ語に変換し、そしてヘブライ語は
文字一つ一つに数字が割り当てられているので、それに当てはめると
皇帝ネロの名前は666と変換されるようです。

また黙示録の写本によっては獣の数字が616になっている物もあるようですが、
これも皇帝ネロの名前を本来のラテン語読みからヘブライ語に変換すれば
616との変換になるようです。

この事から見ると、獣の数字666が示す人物は皇帝ネロがかなり有力のように思えます。
実際にも、皇帝ネロによるキリスト教徒への迫害があった時期近くに書かれたとされる
黙示録の状況を考えると、獣の数字666とは直接的に名前を書く事が難しかった
皇帝ネロを指していると考えるのが理に適っているようにも思えますし、実際に有力な説となっています。

しかし、黙示録は当時の社会に向けてのみ書かれたものではなく、
将来に対して向けて書かれた予言の書でもあるなら、
恐らく将来的に現れる人物の事をも指しているのかも知れません。

となれば、その人物はもしかして、ソロモン王と皇帝ネロのどちらかを思わせるような、
あるいはその両方を併せ持ったような人物として現れたりするのかも知れません。
大きな財力、あるいは権力を持ち、キリスト教を迫害し代わって古代宗教、あるいは
まったく違った宗教、信仰を広めようとするような…。

いずれにしても、幸いな事にいま現在額や右手に獣の数字が刻印されていなければ
物の売り買いもできないような、そこまでの状況にはまだなってないとは言えます。

しかし、バーコードやICチップなどの黙示録の書かれた当時にはなかったテクノロジーが
存在する現在では、
SFのように額や手にバーコードの刻印やICチップを埋め込んで人間を管理するなど、
そういう事が容易に実現もされる…という状況でもあるとも言えます。

こうした恐ろしい事柄が現実にならないよう、
あるいは起こったとしても象徴的な形か、または小規模な形になるように、
我々は神、イエスキリスト、聖母マリアに祈るしかないように思えます…。


・黙示録とダニエル書の関連

ヨハネの黙示録は、そのおよそ300年もしくは500年ほど前に書かれた、
イスラエルの民が新バビロニアに連行されていたバビロン捕囚の時代に
その王ネブカドネザル2世に重用された預言者ダニエルを記録した
ダニエル書という預言書に様々な関連が見られます。

例えば、海から上がってくる四つの獣もダニエル書ではダニエルが見た幻として
鷲の翼を持つ獅子、三本の肋骨を咥えた熊、翼と頭が四つある豹、
十の角と鉄の歯を持つ恐ろしく強い獣…と出てきます。

これらは、それぞれ今後に現れる四つの国の事であると
ダニエル書の中で解説され、特に第四の獣は全世界を併合し
これを踏みつけかつ打ち砕くと記されています。

そして、ダニエル書の恐ろしく強い獣の十の角とは
その国に立つ十人の王であり、その後にもう一人王が立ち、
この王は他と違って今までの十人の王のうち三人を倒すと記されています。

その王はいと高き者に敵対し、その聖徒を悩ませます。
そして、時と律法を変えようと目論見ます。
しかしついに審判が行われ、彼は永遠に滅び絶やされるとあります。

ダニエル書はその当時の事だけではなく、定められた終わりの時にも関わると
ダニエル書の中に記されています。
なので黙示録の海から上がってくる獣を人々に拝ませる人物は
ダニエル書に記されたこの人物と同一ではないかと思われます。

また、ダニエル書の中では預言者ダニエルが川べりで
幻影的な人物を目撃する場面があるのですが、その人物は金の帯を腰にしめ、
その体は緑柱石のようで、顔は雷光のごとく、目は燃えるたいまつのようで
その腕と足は磨いた青銅のように輝き声は群集のようで…と
黙示録の著者ヨハネの前に現れた存在と同じような特徴が描かれています。

黙示録の書かれるおよそ500年ほど前に、ダニエルの前に現れた
幻影的な人物は、黙示録の著者ヨハネの前に現れたのと同じ存在だったのでしょうか。

ダニエル書の中で、この幻影的な人物は
これからイスラエルに訪れる危難、そして終わりの時に関わるという出来事を
述べ伝えます。

その中で、新約聖書の中でその者が聖なる場所に立つのを見たら
ユダヤにいる人々は山へ逃げよと語られる
荒らす憎むべきものという存在に触れられています。


・荒らす憎むべきもの

ダニエル書で語られ、新約聖書でその者が聖なる場所に立つのを見たなら
ユダヤの人々は山へ逃げよと記されている荒らす憎むべきものとは
一体どのような人物なのか。

一般的には、紀元前160年のころに当時のイスラエルを支配していた
セレウコス朝シリアの王エピファネスを指しているのではないかと言われています。

この人物は、当時のイスラエルの人々に迫害を加え数万人を殺害し、
戦費にするためエルサレム神殿の財物を掠め、ユダヤ教の祭式である燔祭や捧げ物、
割礼や安息日の遵守を禁じ、エルサレム神殿の中に
異教の神であるゼウスの神像を祭らせたと伝えられています。

また、エルサレム神殿でユダヤ教にとって不浄な生き物である
豚を生贄に捧げさせたとも言われています。
最後の審判が起こる前には、このような人物が現れて
エルサレムで同じような神殿の破壊行為を行うのでしょうか。

黙示録や、終末に関わると言われているダニエル書、聖書の内容を統合して見てみますと
終末の世の中はキリスト教のみならず信仰そのものが失われ、
反キリスト教的な宗教指導者が人々を惑わして獣の像を拝ませ、逆らう者は迫害され…と
いったような荒れ果てた状況が目に浮かびます。


しかし、実際のところはどうなのでしょうか。
何となく、ダニエル書、聖書、黙示録の一連の流れの中で、どこかで
視点の変更のようなものが生じている可能性のあるような気もするのです。

つまり、黙示録の内容は不敬な世の中に向けられる世界的な神の怒り…というよりは、
イエスキリストが人々の罪そしてそれからの救済のため、自分の見解は前作の小説でも書いてますが、
人々に神への敬いを広め、モラルや良識、人間らしい心を宿すために十字架にかかって二千年、
それでもなお頑としてイエスキリストを救い主と認める事を拒否する人々に対して
起こる事柄なのではないか…と思えるようなフシがあるのです。

どういう事かと言いますと、新約聖書に書いてある通り
イエスキリストは当時のパリサイ派、サドカイ派などのユダヤ議会によって
磔刑に追い込まれました。

そして、その後もユダヤ教は現在まで継続していて色々な宗派があり、
中にはイエスキリストに融和的な宗派も存在するようですが、
大体のユダヤ教においてイエスキリストは偽救世主…偽預言者とされ、
中には敵と見なす派閥もあるようです。

そうなると、イスラエルの神殿を破壊し、そこでの儀式をやめさせ…とある偽預言者、
荒らす憎むべきものとは、一般の人々に対してではなくユダヤ教視点からの荒らす憎むべきもの、
すなわちイエスキリストに相当するのではないか…という見方も出来るようにも思えるのです。

思えば、旧約聖書の中でおよそ後半の方に当たるダニエル書やエレミヤ書その他複数の書は
イスラエルの民が神にそむき、異教崇拝が蔓延し、
それを正すために神に選ばれた預言者が立ち人々はそれにも逆らい、ついに神から怒りの罰が下り
イスラエルは異民族に支配されたり民のバビロン捕囚があったり…といった内容がくり返されます。

旧約聖書全体の、主に後半の部分は
異教崇拝に何度も染まるイスラエルの民に対しくり返される神の罰の記述が中心となっていると言えます。

なので、新約聖書や、その後の黙示録も旧約聖書に引き続き
中心となって予言されるのはイスラエルとその民の事についてであるとするならば、
その者が聖なる場所に立つのを見たらユダヤの人々は山へ逃げよと聖書にある
荒らす憎むべきものとは、ユダヤ教にとっての偽預言者であるイエスキリストを指す…
といった視点もあるのではと思えるのです。

事実、史実ではイエスキリストの処刑後約40年あとの西暦66年に、
ローマとユダヤは衝突しユダヤ戦争が勃発し、手ひどく敗北したイスラエルは神殿を破壊され、
パレスチナと名を変えられ、民族は各地に離散し歴史から一旦姿を消します。

この一連の出来事を、新約聖書の荒らす憎むべきものが聖なる場所に立つのを見たら
ユダヤの人々は山に逃げよ…という記述と合致させるならば、
聖なる場所とは旧約聖書にもたびたび出てくる、また新約聖書のマタイの福音書の最後の方で
イエスキリストが人々に話を聞かせるオリブ山、そこにイエスキリストが立った後の
十字架刑の40年後、イスラエルの崩壊であるユダヤ戦争勃発…と、なるように思えます。

しかし、やはり黙示録は難解な書ですので、
一般的な我々の目で整合性をとった見方をするのは非常に難しいようにも感じます。
記録に残らないような、小さな歴史上の出来事も知らなくては
正確に解釈できないといったような、そういった可能性も考えられますし…。

結局、一般的に言われているように黙示録に書かれている七つの頭の獣や偽預言者は
やはり全世界的な混乱をもたらす存在なのか。それとも旧約聖書に引き続いて
現在イエスキリストを主と認めないおもにユダヤ教の人々にもたらされるものなのか。
それが実際に起こってみて、我々は初めて理解する事ができるのかも知れません…。


・神の怒りの七つの鉢

黙示録では、引き続いて獣の像を拝む人々が獣の数字を受けたあとに受ける災難が記されています。
その人たちは神の激しい怒りのぶどう酒を飲み、聖なる御使たちと小羊との前で
火と硫黄で苦しめられるとあります。

苦しみの煙は世々限りなく立ち上り、獣とその像を拝みその名の刻印を受けている者は
昼も夜も休みが得られないと記されています。

そして、天からの声が「今から後、主に会って死ぬ死人は幸いである」
というのを聞いたと続きます。
世紀末的な、獣の像を崇拝させようと強制されるような状況の中で
それを拒み命がけでもキリスト教徒となる人々の事を示しているのでしょうか。

さらに記述は引き続いて、天の御使いが鋭い鎌を地に投げ入れて
地のぶどうを収穫する場面が記述されます。
この頃になると、収穫される、つまり救われる人々とそうでない人々が
はっきりと分かれているように思えます。

イエスキリストの教えを守り良識的な人と、
またはそれとは逆の反社会的人間が二分されてお互い争う、
世が末に近づくにつれ、そのような状況になっていくのかも知れません。

一つ懸念があるのが、我々は弱者救済など仏教の中にも入っている
キリスト教的価値観の中で生きていると言えますが、黙示録に書かれているような
神を拝するのを拒み、キリスト教を拒絶する人々は
我々と価値観そのものが異なっている可能性があります。

すなわち人を騙したり、傷つけたりするのに良心の呵責がなく、
場合によっては殺害も平気でする…と、いったような人々が将来的には
その本性を隠さず世の中にキバを剥く、といった事態が起こるのかも知れません。

話が逸れましたが、黙示録は続いて七人の御使いが神の激しい怒りの満ちた
金の鉢を地上に傾け、そして起こる最後の七つの災いの場面が描写されます。

第一の者が鉢を地に傾けると、獣の刻印を持つ人々と
その像を拝む者との体にひどい悪性のでき物ができます。

第二の者が鉢を海に傾けると、海は死人の血のようになって
その中の生き物がみな死んでしまいます。

第三の者が鉢を川と水の源に傾けると、みな血になってしまいます。
そして水を司る御使いが「今いまし、昔いませる聖なる者よ。このようにお定めになった
あなたは、正しい方であります。聖徒と預言者との血を流した者たちに、
血をお飲ませになりましたが、それは当然の事であります」
また祭壇が「全能者にして主なる神よ。しかり、あなたの裁きは真実で、
かつ正しい裁きであります」と言います。

第四の者が鉢を太陽に傾けると、太陽は火で人々を焼くことを許され、
人々は激しい炎熱で焼かれたが、これらの災害を支配する神の御名を汚し、
悔い改めて神に栄光を帰する事をしません。

第五の者が鉢を獣の座に傾けると、獣の国は暗くなり、人々は苦痛のあまり舌を噛み、
その苦痛とでき物とのゆえに天の神を呪い、そしてなお自分の行いを悔い改めません。

第六の者が鉢を大ユウフラテ川に傾けると、その水は日の出る方から来る王たちに対し
道を備えるために、枯れてしまいます。
そして龍の口、獣の口、偽預言者の口からカエルのような三つの汚れた霊が出てきます。

これらは、しるしを行う悪霊の霊で
全世界の王の所に行き、彼らを召集しますがそれは全能なる神の大いなる日に
戦いをするためであると記されています。

黙示録はここで、新約聖書のイエスキリストの言葉
「見よ、私は盗人のように来る。裸のままで歩かないように、また、裸の恥を見られないように、
目を覚まし着物を身に着けている者は幸いである」を引用します。
そして汚れた三つの霊は、ヘブル語でハルマゲドンという所に王たちを召集します。

ハルマゲドンとは、北イスラエルにある古代より戦争の舞台となった
メギドの丘という場所と言われています。
ここに全世界の王、支配者が集まって戦争の準備をする…という事態が起こったのなら、
世界を巻き込んだ戦争が起こる前触れなのかも知れません。

その時になり、慌てて神に救いを求めるような事態にならないようにという意味で
黙示録の著者ヨハネは新約聖書のイエスキリストの言葉を引用したのではないでしょうか。

そして第七の者がその鉢を空中に傾けると、大きな声が聖所の中から、御座から出て
「事はすでに成った」と言います。
それと同時にいなずまと、諸々の声と、雷鳴が起こり、人類が地上に現れて以来
かつてなかったような激しい地震が起こり、大いなる都は三つに裂かれ諸国民の町々は倒れます。
神は大いなるバビロンを思い起こし、これに神の激しい怒りのぶどう酒の杯を与えます。

そして島々はみな逃げ去り、山々は見えなくなり、
また1タラント(30kg、または50kg)の重さほどの大きな雹が天から人々に降ってきます。
人々はこの雹の災害ゆえに神をのろいます。
その災害が非常に大きかったから…と黙示録は記します。


・バビロンの大淫婦

続いて黙示録では、バビロンの大淫婦と呼ばれる存在に言及されます。
そのバビロンの大淫婦とは、七つの頭と十の角を持ち神を汚す数々の名で覆われた赤い獣に乗り、
紫と赤の衣をまとい、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものと
自分の姦淫の汚れで満ちている金の杯を手に持っていると描写されています。

それを見たヨハネに、先ほどの七人の御使いのうちの一人が
地の王たちはこの女と姦淫を行い、地に住む人々はこの女の姦淫のぶどう酒に
酔いしれていると告げます。

そして、その額には一つの名がこう記されています。
「大いなるバビロン、淫婦どもと地の憎むべきものらとの母」と。

黙示録の著者ヨハネは、この女が聖徒の血とイエスの証人の血に
酔いしれているのを見たと記しています。

この七つの頭を持つ赤い獣に跨るバビロンの大淫婦と呼ばれる存在は、
伝統的にローマ帝国の象徴と解釈されて来ました。

獣の七つの頭は象徴的なローマの七つの丘、十の角とはローマ皇帝を象徴し
それに跨るバビロンの大淫婦とは当時のローマにも多数存在した、古代バビロニアに起源を持ち
人身御供や、親子兄弟も関係ないような穢れた姦淫の儀式が行われていた痕跡のある
アシュタロトやアフロディーテ、ヴィーナス等の異教の女神信仰ではないか…と、いったように。

黙示録の書かれた当時は、七つの頭の獣に跨るバビロンの大淫婦とは恐らく、
そのものローマ帝国とそこに蔓延していた古代の異教を指すものだったと思われます。

しかし、黙示録の性質と思われる、恐らく最後の審判の時までは
世界の情勢によって書かれている内容が象徴的な形としてくり返し現れる…という形で考えるならば、
バビロンの大淫婦は時代時代によって色んな形で現れているのではないかと考えられます。

例えば現在で見ますと、残忍なテロや人質の女性への性的暴行などで色々と世間を騒がせている
ISISまたはISIL、通称イスラミックステート・イスラム国が
現代のバビロンの大淫婦に相当しているようにも思えます。

バビロンとは古代の中東にあった都市で、その帝国古代バビロニアの支配地域は
ISILの活動地域と重なります。また、古代のバビロニアは人身御供を行うバアル信仰や
先ほど説明したアシュタロテの元であるイシュタル信仰などが行われていました。

ISILでも、人質への残忍な処刑や、女性への性的暴行など
まるで古代宗教の人身御供や姦淫の儀式のような行為が行われているとも聞きます。
現在ではISILも徐々に活動の規模が小さくなっているとも言われていますが、
巻き返して大きな勢力となる可能性もあるのでしょうか…。
そうはならないように、我々は祈るしかないのかも知れません。

(注:通称イスラム国・ISILは国家として承認されておらず、
 正当的イスラム教及び周辺の中東諸国からは批判的に見られている存在である事を記しておきます)

また、ISILの略称の一つであるISISは、イシュタルと同じく
儀式的な姦淫の祭式が行われていた可能性の高い、古代エジプトの女神
イシス(Isis)と奇しくも一致します。

余談ですが、イシスを信仰した古代エジプトの王族は兄妹などでの血縁結婚が多かった事が知られています。
これは血族内で権力もしくは血統を保持する目的で行われていたとされているのが一般的ですけれど
イシスの配偶者は兄のオシリス、それと息子に当たるホルス、ミンと神話にあり、それに基づいて
古代エジプトでは血縁結婚が神聖なものとされていた可能性も考えられます。
王族だけではなく、民間の二世紀ごろの婚姻例のうち20%が兄弟姉妹婚だったという記録もあるようです。

エジプトの王族はこの習慣のために、時代が下るにつれ遺伝的疾患に苦しんだとされ
エジプトの王族の姿を映した彫像などには、ホルモンのバランスの崩れを思わせる
特徴的な女性のように丸みを帯びた体形が現れている物もあると言われています。

生物的な本能や、生命の倫理に逆行するような行為が神の名のもとに聖なるものとして
信仰となり固定されてしまうと、その信仰が途絶えるまで人々に害が延々と及び続けます。
教義・信仰が生命倫理に反しない、
キリスト教や仏教などのいわゆる清浄な宗教に分類されるものは、正しき神の意思が反映されている…
と、見る事ができるのかも知れません。

話が逸れましたが、黙示録の文中にバビロンの大淫婦は多くの水の上に座っていると書かれており、
その多くの水とはあらゆる民族、群集、国民、国語であると記されています。

ISILには、ヨーロッパ諸国などからも参加した人々が居るとの話もあります。
また、多くの水とは中東の主要産業であり世界中で使われている石油を暗示しているようにも思えます。
やはり、バビロンの大淫婦とは現在ではISILが暗示されているのでしょうか。

しかし、バビロンの大淫婦はその最後には自身が跨っていたはずの
十の角の獣にみじめな者にされ、裸にされ、肉を食われ、炎で焼き尽くされるとあります。
十の角の獣はこの淫婦を憎んでいると黙示録には書かれています。

この獣の十の角とは、十人の王の事であって獣と共に一時だけ王としての権威を受け、
自分たちの力と権威を獣に与え、イエスキリストと思われる主の主、王の王である
小羊に戦いを挑んでくるとあります。

しかし小羊と、それと共にいる召され選ばれた忠実な者たちは
彼らにうち勝ち勝利を収めると記されています。

イエスキリストと、それとバビロンの大淫婦の両方に敵対する
この十の角の獣とは一体何なのでしょうか。
前の方でも触れましたが、この十の角の獣とは伝統的に黙示録の書かれた時代の
ローマ帝国であるとされています。

また余談ですが、黙示録の書かれた辺りの当時キリスト教徒を酷く迫害した
皇帝ネロの母親アグリッピナも、息子であるネロと一時性的関係にあったとも言い伝えられており、
権力のため残忍な方法で政敵を殺害し、最後は息子であるネロに暗殺されるアグリッピナこそ
バビロンの大淫婦である、とする意見もあるようです。

これは時代を超えて現代にも投影されるとするならば、
ISIL、あるいはさらに将来に現れるかも知れないアグリッピナを思わせる国家もしくは組織は、
やがては裏切りなどに会って崩壊するという事の現れなのでしょうか…。


・別の視点で見てみると

しかし、一つ引っかかる事があります。
黙示録の記述からいうと、バビロンの大淫婦が跨っている七つの頭と十の角を持つ赤い獣は
小羊と記されるイエスキリストに敵対する存在である筈です。

しかし、そのイエスキリストに敵対する十の角を持つ獣は
バビロンの大淫婦をみじめな者にし、裸にし、肉を食い、炎で焼き尽くすとあります。
これは、単に獣がバビロンの大淫婦を最後には裏切るという事を示しているだけなのでしょうか。

どうにも不可解な感覚ですが、バビロンの大淫婦をその敵対者の視点で見てみると
聖母マリアに該当しているような気もするのです。

どういう事かといいますと、聖母マリアは、ご存知の通りに
母親の理想像であり、清らかな女性らしさの象徴である事は説明の必要もないと思いますが、
それでも一部に反聖母マリア主義というものが存在しているのです。

聖母マリア信仰に反対するものの意見としましては、聖母マリアは
処女出産などの似たような逸話を持つイシス等の古代の異教の女神崇拝に由来するものであり、
それがカトリックに取り入れられたものであるからとするものや、
聖母マリアはイエスキリストの単なる母親であるので
崇拝の対象とするべきではない、といったものがあります。

そういった視点を持つ、聖母マリア信仰に反対する人々からすれば
聖母マリアはまさに異教の女神バビロンの大淫婦に該当しているように
見えるのではないのでしょうか。

しかし、聖母マリアは実際には様々な場所に出現の報告があり、
奇跡をもたらして多くの人々を回心させ、そしてその教義は清純さを尊ぶものであり
先ほど例に上げた淫猥な異教の女神信仰のものとはまるで真逆です。

どうやら、悪魔や悪霊と呼ばれる存在にとって
聖母マリアは非常に恐るべき存在のようで、
それゆえに出来れば聖母マリアに対する信仰を地上から失わせてしまいたいと
色々と干渉を地上の人々に及ぼしているとも言われています。

そのような干渉に影響を受け、聖母マリア信仰を攻撃する意見を持つ人々が
多数表れ始めたら世の中が大いに乱れる予兆になるのかも知れません。

(現在、フランシスコローマ教皇が日本においでになってますね
日本でもキリスト教が大いに話題になってて影響力の大きさを実感しました
フランシスコ教皇にご健康とご多幸がありますように)

それから、もう一つ危惧される事があります。
それは将来的に、聖母マリアは異教の女神が元で黙示録ではバビロンの大淫婦とされていると
黙示録の記述を盾にとって喧伝がされ、それに多くの人々が扇動されて
聖母マリアが人々に攻撃されるような動きが出てくる可能性がある事です。

信仰や、霊的な世界のことに詳しくない人は、これにうっかり乗せられて
よく理解をしないまま悪意ある聖母マリア信仰への攻撃に加担してしまう可能性があります。

実際にも、反聖母マリア主義は存在し、聖母マリア像を破損したり
聖母マリアを祀る教会の汚損など現在様々な攻撃がされているようです。

ノートルダム大聖堂のフランスでも、去年で千件を超える教会への攻撃があり、
聖母マリアを奉る教会への放火や像を破壊するといった行為が相次いでいるそうです。

犯人は反カトリック、反キリスト教的な思想を持つグループと考えられていますが、
実態ははっきりとはしていないようです。
もしかしたら、人間ではなかったり…。

聖母マリアは信仰または崇拝すべきではないと大きな声で主張するグループが
派手に活動を始めたら、用心しておいた方がいいのかも知れません。

そして黙示録は続いて、天の御使いが大いなるバビロンが
倒れた事を宣言する場面となります。

それは悪魔の住む所、あらゆる汚れた霊の巣窟、またあらゆる汚れた
憎むべき鳥の巣窟となったと宣言されます。

全ての国民は彼女の姦淫に対する激しい怒りのぶどう酒を飲み、
地の王たちは彼女と姦淫を行い、地上の商人達は
彼女の極度のぜいたくによって富を得たと述べられます。

それから、天からの声が言います。
「わたしの民よ。彼女から離れ去ってその罪にあずからないようにし、
その災害に巻き込まれないようにせよ。彼女の罪は積もり積もって天に達しており、
神はその不義の行いを覚えておられる。彼女がした通りに彼女にし返し、
そのしわざに応じて2倍に報復し、彼女が混ぜて入れた杯の中にその倍の量を入れてやれ。

彼女が自ら高ぶり、ぜいたくを欲しいままにしたので、それに対して、
同じほどの苦しみと悲しみとを味わわせてやれ。彼女は心の中で
『私は女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』
と言っている。それゆえ、さまざまの災害が、死と悲しみとききんとが、
1日のうちに彼女を襲い、そして、彼女は火で焼かれてしまう。
彼女をさばく主なる神は、力強い方なのである。彼女と姦淫を行い、ぜいたくを
欲しいままにしていた地の王たちは、彼女が焼かれる火の煙を見て、
彼女のために胸を打ってなき悲しみ、彼女の苦しみに恐れを抱き、
遠くに立って言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、
バビロンはわざわいだ。お前に対するさばきは、一瞬にしてきた』

また、地の商人たちも彼女のために泣き悲しむ。もはや、彼らの商品を買う者が
一人もないからである。その商品は、金、銀、宝石、真珠、麻布、紫布、絹、緋布、
各種の香木、各種の象牙細工、高価な木材、銅、鉄、大理石などの器、肉桂、香料、
香、におい油、乳香、ぶどう酒、オリブ油、麦粉、麦、牛、羊、馬、車、奴隷、
そして人身などである。

お前の心の喜びであった果物はなくなり、あらゆる派手な、華やかな物はお前から消え去った。
それらのものはもはや見られない。これらの品々を売って、彼女から富を得た商人は、
彼女の苦しみに恐れを抱いて遠くに立ち、泣き悲しんで言う、『ああ、わざわいだ、
麻布と緋布をまとい、金や宝石や真珠で身を飾っていた大いなる都は、わざわいだ。
これほどの富が、一瞬にして無に帰してしまうとは』また、全ての船長、渡海者、水夫、
全て海で働いている人たちは遠くに立ち、彼女が焼かれる火の煙を見て、叫んで言う、
『これほどの大いなる都は、どこにあろう』彼らは頭にちりをかぶり、泣き悲しんで叫ぶ、
『ああ、わざわいだ、この大いなる都は、わざわいだ。そのおごりによって、海に船を持つ
すべての人が富を得ていたのに、この都も一瞬にして無に帰してしまった』
天よ、聖徒たちよ、使途たちよ、預言者たちよ。この都について大いに喜べ。
神は、あなたがたのためにこの都を裁かれたのである」

大いなるバビロン、バビロンの大淫婦とは非常な隆盛を誇る都市として
象徴的に表されています。

これは黙示録の書かれた当時の状況に照らし合わせますと、
ローマ帝国を指しているように思えます。
ローマ帝国も非常に繁栄した古代国家として有名ですが、
最終的には周辺の異民族から侵略を受けあっけなく感じるほどあっさりと滅亡します。

もし、よく言われるように歴史はくり返されるもので
大いなるバビロンはこれから現れる、もしくは現在ある国や組織にも当てはまるとするなら
古代ローマを思わせる相当の財力、勢力を誇る国または組織として現れると思われます。

現在の状況で見ると、世界的に大きな大都市もしくは石油の輸出などで大きな利益を上げる国、
そういったものに該当するような気がします。

そして、先ほど例に挙げた反聖母マリア主義的な見地からすれば、
イエスキリストと併せて聖母マリアを信仰する
ローマカトリックがそれに該当しているようにも見えるのではないかと考えられます。

一般的にカトリックといえば、プロテスタントと比べ教会などが豪華であるとされ、
また歴史ある教会には時代時代の貴重な宝物が保存されていて
カトリックは中世の頃権威をかさに民衆から税を搾り取り…という見解をもつ
人からすると、まさにそう見えるのではないのかと思います。

確かに中世のころの教会は、全部がそうではないのですが、当時ヨーロッパの貴族の
家督を継ぐ権利がない次男や三男が入る所という側面があり、その元貴族の聖職者が
現在とは違い贅の限りを尽くした生活を送り人々の評判が悪かったような所もあったようです。

それを批評するいわゆる宗教改革者による宗教改革が起こり、
教会は伝統のカトリックと改革のプロテスタントに分裂し…というのは
世界史などで習った方も多いと思います。

そして余談になりますが、聖母マリアに捧げられたノートルダム大聖堂が
あの火災でもし倒壊してしまっていた場合、反カトリックからこれは神の意思の表れで
やはり聖母マリア信仰は古代の異教の女神信仰に由来するから神が怒りを表したのだ、
そして教会などに贅を凝らしたカトリックは大いなるバビロンだ、と喧伝され
カトリックと聖母マリア信仰に計り知れないダメージがもたらされた可能性があります。

ところが、ノートルダム大聖堂は火災で一時倒壊も危ぶまれていましたが
倒壊しなかった事によって、今度は逆にそれが神の実在の印、
そしてそれはカトリックと聖母マリアのノートルダム大聖堂に与えられた、という
逆転の意味で主張することができるようになったと見れるのではないでしょうか。

ノートルダム大聖堂が倒壊するか、しないかの紙一重で
それらしく説得力を持って主張できる内容が逆転します。

我々は、もしかしたらあの時、
歴史の分岐点を目撃していたのかも知れません…。

霊的な話になりますが、他は間違ってるというわけではないようですが、
どうやら信仰的には伝統的なカトリックと
聖母マリア様への信仰が一番強く、良く霊的な作用が働くようなのです。

そして、あのノートルダム大聖堂の火災が神様の力の表れであると
多くの人々が認識し、カトリック、それでなくても諸宗派のキリスト教と
聖母マリア様への信仰が広がったなら、それだけ世界は
より良いものになっていく可能性があります。
それでも、完全な平和というのは、なかなか実現は難しいでしょうけれど…。

先程も挙げましたが、たびたび聖母マリアは異教の女神信仰が元になっている、
大淫婦バビロンだ、といった意見を目にしたりします。

確かに、古代の異教の女神、地母神神話などは処女懐妊の話ですとか、
その神殿に仕える巫女は処女性が重んじられていた等の言い伝え等あって
一見もっともらしく聞こえるかも知れません。

しかし、その実態は祭式などで人身御供などが行われていたりして、
清心、そして母性愛を心に念じて静かに祈りを捧げる…といった聖母マリア信仰とは
まるで趣きが異なります。

そうした認識が人々の間に備わり、もしくは人々にそれを広める事によって
聖母マリアに対しての誤解が生じなくなった時に、大淫婦バビロンは、
我々の手で倒された…という、象徴的な出来事となるのかも知れません。


・バビロンの大淫婦が倒れて

黙示録は続いて、大淫婦バビロンが倒れたのちに
ハレルヤ、救いと栄光は我らの神のものであり、その裁きは真実で正しい…
と天の大群衆が大声で唱える場面に続きます。

そして天の御使いが小羊の婚宴に招かれた者は幸いであると
書き記すように著者ヨハネに求め、また天が開かれて白い馬に乗り、天の軍勢を引き連れた
忠実で真実な者と呼ばれる鉄の杖を持ち王の王、主の主と名の記された者が現れ、
また太陽の中に立った一人の御使いが、空を飛ぶすべての鳥に向かって
王や将軍、勇者や馬、その馬に乗っている者などの全ての肉を食らえと大声で叫びます。

そして、獣と地の王達の軍勢が集まり、馬に乗っている方と
その軍勢とに対して戦いを挑みます。

しかし獣と、獣の刻印を受けた者とその像を拝む者とを惑わした
偽預言者は捕らえられ、そしてその両者とも生きながら硫黄の燃えている
炎の池に投げ込まれ、それ以外の者たちは馬に乗っている方の口から出るつるぎで
切り殺され…と大きなクライマックスを迎える様子が記されています。
これがいわゆるハルマゲドン、最終戦争の描写なのでしょうか。

さらに続いて、天から一人の御使いが底知れぬ所の鍵と大きな鎖とを手に取って
悪魔であり、サタンである龍、年を経たへびを捕えて千年の間繋ぎおいて
底知れぬ所に封印します。しかし千年後、少しの間だけ開放される事になっています。

また、数多くの座に座った裁きの権が与えられた人々と、
イエスの証しをし神の言を伝えたため首を切られた人々の霊と、
獣もその像も拝まず、その刻印を受けなかった人々がおり、
彼らは生き返って、キリストと共に千年支配すると記されています。

これが第一の復活であり、これにあずかる者は幸いで聖なる者であり、
この人たちには第二の死はなんの力もないと書かれています。
彼らは神とキリストとの司祭となり、キリストと共に千年の間支配し、
それ以外の死人は千年の期間が終わるまでは生き返らなかったとあります。

そして千年の期間が終わると、サタンはその獄から解放され、
地の四方にいる、砂の数のように多いと記される諸国民
ゴグ、マゴグを惑わして彼らを戦いのため招集し、彼らは地上の広い所に上ってきて
聖徒たちの陣営と愛されていた都とを包囲します。

しかし、天からの火が下ってきて彼らを焼き尽くします。
そして彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれ、
そこに居る獣と偽預言者と共に世々限りなく日夜苦しめられます。

ここに出てくるゴグ、マゴグとは、もしかして
共産主義の事ではないか…と言われてもいるようです。
確かに、無神論を標榜し信教を禁じる共産主義はそれに該当しているようにも見えます。
真相は、一体どうなのでしょうか。

そして黙示録は、大きな白い御座にいます方があり、
天も地も御顔の前から逃げ去って、跡形もなくなった…と続きます。

それから数々の書物が開かれ、それから命の書が開かれます。
海も、黄泉も、その中にいる死人を出し、死人はその行いに応じて裁きを受けます。

それから、死も黄泉も、命の書に名前の記されていない者はみな
火の池に投げ込まれまれます。
この火の池が第二の死であると黙示録は記します。

昔から、神を信じず、行いの悪い者は
地獄に行くと言い伝えられています。
神様のことは、普段からなるべく敬っておいたほうが、安心できるのではないかと思います…。

そして、黙示録の最後で著者のヨハネは新しい天と地を見たと記します。
また、聖なる都である新しいエルサレムが着飾った花嫁のように
用意を整えて、神の元を出て天から下って来るのを見たとも記しています。

また、御座から大きな声が「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、
人は神の民となり、神自ら人と共に居まして、人の目から涙を全く
ぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。
先のものが、すでに過ぎ去ったからである」と叫びます。

そして御座にいます方が「見よ、私は全てのものを新たにする」と宣言し、
ヨハネに「書き記せ。これらの言葉は、信ずべきであり、まことである」と求めます。

そしてヨハネに「事はすでに成った。私は、アルパでありオメガである。
初めであり終わりである。乾いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。
勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。私は彼の神となり、
彼は私の子となる。しかし、臆病な者、信じない者、忌むべき者、人殺し、
姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、
火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である」
と言います。

そして、七つの災害が満ちている七つの鉢を持っていた御使いの一人が
小羊の妻なる花嫁、聖都エルサレムをヨハネに見せます。

その都の輝きは高価な宝石のようであり、12の門があって、
それぞれにイスラエルの子らの12部族の名が書いてあり、
また城壁の12の土台には小羊の12使徒の名前がそれぞれ書かれています。

そして都の大きさは縦横高さが一万二千丁、城壁は百四十四キュビト、
城壁は碧玉、都は透き通ったガラスのような純金、12の門は真珠で作られ
その土台は碧玉、サファイア等の宝石で飾られ…と、
豪華絢爛な様子の描写が続きます。

著者ヨハネは、都の中には聖所を見なかったと記します。
全能者と、主なる神と小羊とが聖所であると書いています。
また都は太陽や月が照らす必要がなく、
神の栄光が照らし小羊が都の明かりとなると記しています。

諸国民は都の光の中を歩き、地の王達は自分達の光栄をそこに携えて来、
そこに夜はないので都の門は終始閉ざされる事はないとあります。
人々は諸国民の栄光と誉れを携えて来ますが、汚れた者や
忌むべき事及び偽りを行う者は、その中に決して入れず、
入れる者は、小羊の命の書に名を記されている者だけであると黙示録は記しています。

さらにそこは水晶のように輝いている命の水の川があり、
その両側には毎月12種の果実が実る命の木があり、その葉は諸国民を癒し…と
天国の様子の描写が続きます。


・黙示録の結び

そして黙示録の最後には、呪われるべきものは何一つなく、
神と小羊を人々が崇め、共存している様子が記されています。

天の御使いはヨハネに「これらの言葉は信ずべきであり、真である。
預言者達の魂の神なる主は、すぐにでも起こるべき事をその僕達に示そうとして、
御使いを遣わされたのである。見よ、私はすぐに来る。この書の預言の言葉を守る者は
幸いである」と言います。

また御使いは、この書の預言の言葉は封じてはならない、
時が近づいてるからであると言います。不義な者はさらに不義を行い、
汚れた者はさらに汚れた事を行い、義なる者はさらに義を行い、
聖なる者はさらに聖なる事を行うままにさせよ…とも言います。
時代が進むにつれ、善良な者とそうでない者がはっきりと分かれてくる事になるのでしょうか。

そして、御使いは報いを携えてきてそれぞれの仕業に応じて報いると言います。
そして御使いはアルパでありオメガ、最初の者であり最後の者、
初めであり終わりであると自身を明かします。

命の木にあずかる特権を与えられ、また門を通って都に入るために、
自分の着物を洗う者達は幸いであり、犬ども、まじないをする者、
姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者、また偽りを好みかつこれを行う者はみな
外に出されると記されています。

そして最後に、御使いは自らをイエスキリストである事を明かします。
そして、自身をダビデの若枝また子孫であり、輝く明けの明星であると述べます。

御霊、花嫁が共に来たりませと言い、聞く者も来たりませと言いなさいと伝え、
渇く者はここに来て、命の水が欲しい者は価なしにそれを受けなさいと述べます。

黙示録は続いて、この預言の書の言葉を書き加える者は
神はその人にこの書に書かれてる災害を加えられ、また、言葉を取り除く者は
神はその人の受けるべき分をこの書に書かれてる命の木と聖なる都から取り除かれると
警告を発します。

最後に、これらの事をあかしする方が「しかり、私はすぐに来る」と仰せになり、
黙示録の著者ヨハネの、アァメン、主イエスよ来たりませ。
主イエスの恵みが、一同の者と共にあるように…という祈祷で締めくくられています。


・黙示録が我々に訴えかけるもの

黙示録は、全体として見るとやはり1世紀からのローマ帝国とキリスト教徒について
予言がされた書であるような印象を受けます。

ローマ帝国の興亡と当時のキリスト教を重ね合わせて見ると、
そこには意外な関連性が見えてくるようにも思えます。

例えば、隆盛を誇ったローマ帝国が不思議なほどあっけなく崩壊してしまったのも、
背教者ユリアヌス(西暦331~363年)と呼ばれるローマ皇帝が
立ったからではないか…と考えられるフシがあります。

初代教皇、聖ペテロが1世紀にローマへと布教に赴き、
有名な小説クォ・ヴァディスにも描かれているように殉教をし、
それ以降も様々な迫害を受けながらも3世紀頃にはキリスト教は
ローマで聖職者に様々な特権が与えられる等、比較的安定した地位になっていました。

そこに至るまでは布教に命を捧げた人々の努力だけではなく、
様々な神秘的な出来事、奇跡、神の力の作用等があったのではないかと考えられます。
わかりやすい例ですと、ミラノ勅令でキリスト教を公認した
コンスタンティヌス1世(西暦272~337年)の事例が挙げられます。

コンスタンティヌス1世がミルウィヌス橋での政敵との戦いの際、
天に燃える十字架の影と「この印によりて汝は勝つ」という4語が空中に浮かぶのを見、
十字架を立てて戦ったところ勝利を得ました。
それがきっかけになりコンスタンティヌス帝はキリスト教の信仰へと入り…
という伝承が伝わっています。

1世紀当時のローマは、皇帝を神として崇拝する皇帝崇拝が広く行われ、
そこにキリスト教が入り込む事は皇帝の権力に逆らう事にもなり
本来なら容易ではなかった筈です。

それが、特に強力な後ろ盾があるわけでもなく、ローマ帝国と
ユダヤ教徒両方に迫害される立場にあったキリスト教が最終的には
ローマの国教に制定されるのは、歴史上の不思議…というよりも、
そういった神の意思がそこに働いたのではないか、と見れるのではないでしょうか。

しかし、ミラノ勅令でキリスト教は一旦ローマ公認になりますが、4世紀に
先ほど挙げた皇帝背教者ユリアヌスが立つとキリスト教の排斥が始まります。

ユリアヌスは、幼少の頃キリスト教徒として育てられましたが
政争に巻き込まれ配流された先の小アジアのマケルムでギリシャ哲学や古典文学、
密儀的な新プラトン主義等を学び、その影響を受けてキリスト教に疑問を持ち、
皇帝に就任するとキリスト教を公認したミラノ勅令を取消し、与えられていた特権を剥奪し、
密儀的なミトラ教やヴィーナス信仰等の古代ローマの多神教の復興を目指します。

その過程でキリスト教徒と古代信仰復興派の間に対立が生じ、
古代の神々を奉る神殿の破壊とそれに報復する教会の焼き討ち等が発生したと
伝えられています。
また一説にはユリアヌス自身もキリスト教との決別をローマの古代神に示すために、
山羊の血に全身を浸し、それをヴィーナスに捧げる儀式を行ったとも伝えられています。

この状況は黙示録にある反キリストの出現と、昔は居たが今はおらず、
やがてやって来るのを見て命の書に名前を記されていない人々は驚き怪しむ
獣の記述と一致するように思えるのではないでしょうか。

そして、皇帝の座につきミラノ勅令を撤回し、ローマの古代の多神教を復興させようとした
ユリアヌスですが、皇帝の座についてから2年後の西暦363年、
ペルシア帝国への遠征の際に投げ槍に当たって死去します。ユリアヌスは死の間際に、
「ガリラヤ人(当時のキリスト教徒の呼び名)よ、お前達の勝ちだ」と言ったという
伝承が残されています。

そしてそれから10年ほど経ったのちに、いわゆるゲルマン民族の大移動が始まり
ゴート族、フランク族、フン族等の異民族に攻撃されローマ帝国の崩壊が始まります。

半獣半人の姿も多い古代神像、つまり獣の像を拝ませる反キリストの出現と
攻撃されるキリスト教、そして神の怒りを思わせるローマ帝国への異民族の攻撃…と、
ローマ帝国の最後は黙示録の予言が成就したかのような出来事に思えるのではないでしょうか。

そして、歴史は繰り返すと言われる通りに、黙示録に書かれている事は
繰り返し歴史に起きると仮定するならば、将来的に反キリスト教的な
もしくは一見キリスト教的な、または合理的・科学的な思想を装うかもわかりませんが
そのような宗教・思想が多くの人々の間に蔓延した時に
滅び去る古代ローマ帝国の時のように人々の社会は大きな混乱が起き、そして
崩壊に向かうのかも知れません。

希望があるとすれば、現在では聖書で禁じられている人身御供などの
本格的な古代異教祭祀が大々的に行われる事はなく、多くの人々は
そういった人身御供などの古代に行われていた祭祀に対して
到底受け入れられないほどの強い拒絶感を示します。

なので、古代ローマ帝国が滅亡する少し前のような、
人身御供を行うような古代信仰が再び興りそれが広く蔓延し…といったような状況は
多くの人々が抵抗し中々容易に実現する事はないとも思えます。

しかし、世の中はどうなるのかわからないのが常であって、
霊的な世界は現実的に存在している事も考えますと
悪魔、悪霊と呼ばれる存在が盛んに人類を堕落させよう、
古代異教信仰が盛んに行われていた古代世界に引き戻そうと常に干渉し
様々な方策を考え出し試してくるというのも現実的な事として考えられます。
それがどういった方法になるのか、想像するのも困難ですが…。

しかし、起こりうる可能性は少ないと思いますが
現代に人身御供を行い、古代信仰的な神像を拝む事を強要するような教団、
あるいは集団が突如に出現したならば
例え命の危機があってもそれを拒まなくてはいけないという事になるのでしょう。

人類の将来に、いつかそのような出来事が起こりうるのでしょうか。
聖書によるならば、それが起きる日は天の御使いも、人の子も知らず、
天の父だけが知っていると記されています…。


以上で、長くなりましたが黙示録についてはここで一旦終了します。
何かまた、こういう事ではないか…というような解釈等を思いつきましたら
また新たに別の章で記載したいと思います。


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