13・善と悪と自由意志、それと信仰について

文字数 5,699文字

ここでは、自分が何となく思っている世界観と信仰について書きたいと思います。
これが世界のあり方だ、と肩肘張って主張する気はないです。
あくまでも、参考程度に考えて頂ければ…と、思います。


・善と悪と、人の自由意志

旧約聖書の創世記によれば、人間は永遠の命をもって楽園、エデンの園にいた頃に
蛇に化けたサタンにそそのかされ知恵の実を食べてしまったために、永遠の命を失い
根本的な罪、原罪を負って楽園を追放されたとあります。

この説話は、
実際の人のあり方をよく表しているように思えます。

全くの善と人が一体であったなら、人は人生の上で悩みも何もなく、
平穏の内に一生を過ごす事ができるでしょう。

しかし、自分もそうですけれど人は良いところと悪いところが混然となっていて、
生きていく上で様々な困難や悩みに遭遇します。

さらに、今現在の世の中は昔より色々と物が増え、
便利になったが故に様々な誘惑に遭遇しやすく、それに囚われて、宗教的な規律から見れば
不道徳とされる生き方に多くの人がつい染まってしまうような世の中なんだと感じます。

そう言う自分も、
決して宗教的に清らかな生き方をしてる訳ではありませんでした。

大抵の宗教では原則的に禁止の酒も好きですし、やはり宜しくないはずの
タバコも吸いますし、ネットなんかでエッチなサイトも見たり。

さらに信仰心という点においては、そんなに熱心に何かの宗教を信仰しているわけでもない、
年に1度か2度程度、お正月の初詣でお寺か神社にお参りする程度の
普通の日本人によくあるいわゆる無宗教という信仰態度でした。

もちろんこれは、信仰心の篤い人、さらに西洋のキリスト教文化から見れば
自分は信仰心というものがほとんど無きに等しい者になると思います。

仏教にも存在しますが、キリスト教はまさに教えに一生を捧げる、
そのための修道院という物が存在します。

修道院は入ると、基本的にキリスト教に一生を捧げる事になります。
世俗から離れ、祈りを捧げ、一生禁欲的な生活をするといったような…。

普通の人では、相当の決意がないと修道院に入ろうとは思わないでしょう。
何せ、ゲームもマンガも存在しない所ですから。
そんな修道院で禁欲的にキリスト教に一生を捧げて過ごす、これは一種
信仰の究極の形とも言えると思います。

修道院で、禁欲的に生き、完全な清い一生を送る…
これが最高の善の局地だとすると、普段の我々はだいぶそれから遠い生活を送っているように思えます。
人は100%善になる事はできない、どうにもならない部分を持っていますから。


・善と悪の間で

人には自由な意思があって、
人生をどうやって送るのかは基本的に本人の意思次第です。

先ほど例にあげた修道院に入って、
キリスト教に一生を捧げるような生き方も選択できますし、または
信仰とそれが求める精神性や人徳などを一切退けて無軌道に、
欲望の赴くままに生きる事だってできます。

信仰に一生を捧げ清く生きるのを善とするならば、
欲にまみれ、そのために最悪の場合犯罪まで犯すのは悪、という事になります。

大多数の人は、善と悪の中間的な位置に存在しているという事になると思います。
そして、自分の自由な意思でそのつど善なる行いと悪の行いを選択する事が出来ます。

例えば、ダイエットでもしている途中にお菓子が食べたくなったりして、
欲望に負けてつい食べてしまうのか、それとも強い意志でもって我慢するのかとか。

そして、食べたいという欲望を跳ねのけ続ける事が出来たならダイエットは成功、
目標としていた体重何キロ減量を達成する事ができます。
逆に、欲望に負け続けてしまうと、ダイエットをしていた筈なのに
逆に体重が増えてしまったりして…

信仰や善行なども同じように捉える事が出来ると思います。
信仰、善行も、実はダイエットと同じように
人生において思っている以上に良き効果を現すのではないかと考えられます。
直接的にではなく、婉曲的な形で現れるのでしょうけれど…。

実際的に考えても、宗教的な戒律は本能的、生理的な欲求を抑え、
欲を捨てて節制をする生き方を教えます。
これに従うなら、生きていく上で過食による病気ですとか、
あるいは怒りに狂って他人と激しく対立するですとか、
そういった人生のトラブルの多くを避ける事ができると考えられます。

しかし、神が人に守るべきと伝えた戒律を全て守るのは実はかなり大変です。
戒律の基本はモーセの十戒になりますが、汝殺すなかれや盗むなかれは大体守っていけるとして、
偶像礼拝の禁止や、解釈によって多少の違いはありますが自慰行為も姦淫として
原則禁止されています。さらに、割礼をせよという定めも旧約聖書にあったりします。

偶像礼拝は日本で生きていれば、お寺や神社に行って仏像やその他神像を拝むのは
ごく普通の事ですし、多くの特に男性は自慰行為も禁止となると
相当ストレスが溜まるのではないでしょうか。

なもので、大多数の人は、なんだ宗教の教えってそんなに厳しいのか、
そんな窮屈な生き方をしなければ救われないなら自分はとても救われないな、
諦めて宗教的に罪とされる生き方を続けるしかないのか…あるいは、
そんな戒律なんて最初っから知った事じゃない、警察に捕まらないよう法律は守るけど
宗教的戒律なんて気にしてたらまともに生きていけないよ…なんて事を思うのではないでしょうか。

しかし、少し考えかたを変えてみたなら。
あなたもやり方次第で、人生に、生活にキリスト教、あるいは仏教の
禁欲、節制を求める戒律を上手に取り入れて、意識しないでも自然に
神意にかなう生き方に近づけるようになる可能性があります。


・全てか、ゼロかと考えないで

究極的には、世俗と欲を全て捨てて、修道院あるいは僧院で生涯を送るというのが
宗教的な戒律に最も適合する生き方と言えるでしょう。

しかし、そこまでの決意ができ、そういった生活に適合できる人は中々いません。
かといって、そういった生き方を選択しなければ救われない、となると
大多数の人は救われない事になってしまいます。

信仰的に満たされた、
すなわち自分は正しい生き方をしているという真の実感を得るには
本来であれば完全に宗教的戒律を厳守しないといけないのでしょう。

けれども、一生質素な禁欲的生活を送るなんてできっこない…と、
普通の生活を送る我々一般人はどうしても考えてしまいます。

しかし、実はそう悲観したものでもないと思うんです。
禁欲を定めた教えを全て守るのが大変なら、まずは自分の出来る範囲で
少しづつ節制する習慣を身につけていけば、普段の生活を送りながらも
信仰的な要素を取り入れた人生を送るのに、そう負担を感じないのではないか…と思います。


信仰や祈りには、力があります。
現実的に見ても、神様に例えば受験の合格祈願などをした場合、
そこには自分に言い聞かせ、自分自身の決意も固める作用が存在しています。

そして、そこには神秘的、霊的な作用ももちろん存在するはずです。
それがどれだけあなたに効果を現すかは、あなたの普段の行いや、
心がけ次第という事になると思いますが…。

欲動に振り回されない、宗教的な戒めに沿った生き方は実際的に、あるいは霊的に
思っている以上にいい効果があります。

なので、普段から過食や大量の飲酒、過度に欲情を追求してしまうなど
自分でも良くないな…と思うクセがあるなと感じる方は、
それをスッパリ断ってしまえれば素晴らしいのですが、
自分の出来るペースで無理なく体を慣らしながら良くない習慣を減らしていけば、
案外、思った以上に今までより人生が楽しくなっていくかも知れません。

そして中には、信仰に意義や喜びを見出し、あるいは
神霊の作用による神秘体験を経験する事になって
本格的に信仰に目覚める方も居るかも知れません。

そういった場合、窮屈で退屈なイメージしかなかった
修道院での清らかで静かな生活に、何となく憧れの気持ちも生じてきます。

人生を通じて、静かで禁欲的な修道院生活のその境地にどこまで近づく事ができるか…が、
もしかして人の魂というものの価値、という事になるのかも知れません。

とかくストレスの多い現代社会ですから、その発散のため過食に走り、
あるいは酒に溺れて体を壊したり、または性的なものに依存するあまり性犯罪を犯してしまったり。
現代の社会は、決して人に優しいものではないように感じています。

しかし、そういった現代社会があなたにもたらそうとする破滅からあなたを救うのは、
きっとお茶碗1杯に盛っていたご飯を3分の2ぐらいに減らすですとか、
毎日飲んでいたお酒を3日に1度は控えめにするですとか、ほんの少しの節制を継続するのが
決め手なのかも知れません。
もちろん、それを神様だって応援してくれます。

そして、その内に節制、我慢も楽しくなってくれば、
過食のために太り気味だったのがいつの間にか解消されていたり、
飲みすぎのためにいつも体調不良だったのが解消され、心身ともにスッキリしたり。
もちろん、自分のできる以上に無理して我慢を重ねてしまうと、
反動でより過食に走ってしまったりする場合があるので過剰にやるのは禁物ですけれども。

そういう自分も、本書に書いてあるような経験をした後に、
週1・2度は飲んでいた酒を2週間に1度にしたり、タバコを減らすようにしたり、
ネットでエッチなサイトを見たりするのを色々と控えるようにしています。
やはり、聖書に書かれているような神様が実在したとなると色々怖くて…。

もちろん、いずれはキリスト教に入信する事も考えています。
こういう事があった以上、そうしなければいけなような気がしています。
ただ、今現在近所に適当な教会がないとか、処々の事情があって
キリスト教徒になるのはしばらく先の事になりそうですが…

日常生活において、どこまで無理なく欲を節制し生活できるか。
無理の出るほど極端な禁欲に傾きすぎず、かといって欲に流され過ぎて人生を破滅させる事なく、
上手に調和を取って生きていければ。
もしかしたら、人生はより良く祝福に満たされたものになるのかも知れません。

(昨日7月18日、有名なアニメスタジオ、京都アニメーションが突然の放火により全焼し、
33名の死者と多くの重軽傷者が出るという痛ましい事件がありました。
亡くなられた方々の安らぎと、そして治療中の方々の回復を祈ります)


・節制を持続するためのコツ

欲動に振り回され、体その他心に良くない生活を送り続けてしまう事なく
節制とほどよくバランスの取れた生活を持続するにはどうしたらいいのか。

経験上、急に無理して過食や酒を断ったりすると、
かなりの確立で反動が起こって元の木阿弥になってしまいます。

なので、食事や酒量その他を減らすにしろ、
最初は思い切り低い目標を設定してそれを1・2ヶ月持続するというやり方をやってみれば
まず我慢をするという感覚と習慣が身につくはずです。
それから、自分でどれだけ耐える事ができるか徐々に確かめながら、
少しづつ食事量、酒量を減らしていけば、あまり負担を感じずに
減量、減酒その他を達成する事ができる筈です。

それと、1日1分から2分、首をぐるっと回したり手首をブラブラさせる
体が温まる程度のストレッチや、腹筋10回腕立て5回程度のごく軽めの筋トレ、
10分程度の散歩など日常に負担を感じない程度の運動を持続するのも節制の継続に効果的です。

もちろん、慣れてくれば負担にならない範囲で運動する量を増やすのもいいと思います。
体力がつけば、それだけ意思の力や気力が強くなっていきます。
新約聖書のゲッセマネの園の場面の
心が熟していても、肉体が弱ければ誘惑に負けてしまうという
イエスキリストの言葉にもある通り…。

そしてあまり頑なに考えず、心がけ程度に考えて気軽にやってみる感覚でいれば
だんだん無理をするようになって限界以上に我慢をしてしまいやがて破綻へ…となる事なく
普段の日常の中に上手にいいものを取り入れた生活が出来るのでは、と思います。


・世に起こる悪いこと

しかし神が現実的な存在だとして、そうなれば
それに反抗する悪魔もまた現実的な存在、という事になります。

この世に起こる悲劇的な事件事故のいくつかは、もしかしたらそういった悪魔が
超自然的な力を及ぼして発生させるような物なのかも知れません。

実はこの世界は多くの人々がとても善良であったならば、よい力は増大し、悪の力は減少し、
もしかして事件事故は発生するにしても
被害がより少なくなるような仕組みが働いていたりするのかも知れません。


そして神様は、恐らくそういった悲惨な事件を超自然的に止めるといったような、
人間の世界に直接力を及ぼすような事は極力しないんだという風に思います。

それは知恵の実を食べて自由意志を持ち、
自由を求める人間とのある種の約束でもあるんだと思います。

ある意味神様に反抗し、エデンの園を出て行った人類は
全善性を失った代わりに自由意思を得、善も悪も混在するこの世界で
起こる問題は極力自分達の力で解決して生きていかなくてはならなくなりました。

人間の世界に起こる出来事は、人間が自分の力で解決しなくてはいけません。
これは自由の代償、というものになるのかも知れません。
ただ時折、神様もそれとは気づかれないように
そっと力を貸してくれているようなふしがあったりしますけれど…。

そして、全くの善人だった人類が善と悪の中間的存在となり、
悪にも影響を受けるようになって、様々な悪、悪魔の干渉も受けるようになったのです…。
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