7・自分はどういった存在なのか

文字数 1,210文字

キリスト教とそこから始まる歴史についてのラノベを書き、
最後に神の力が地上にはっきりと現れる…といった場面を書いた翌日に
歴史あるキリスト教の教会ノートルダム大聖堂の火災が発生し
その他にも様々の直感的にそれとわかる符号を感じ取り、そして色々不可解な
身体的変異も経験した自分。

自分は、いったいどのような存在なのか。

オレこそは、神によって特別な使命に任命された存在なのだ…と、カッコよく言いたい所なんですが、
どうやら残念ながらその可能性は低いのかも知れません。

なぜなら、全能の神がそういった使命に誰かを選んだとしますと、
色々な指令、使命が言葉ではっきりとわかるように下るはずです。
これを啓示と言うそうです。自分には、そういったものは訪れませんでしたね…。

もしかしたら、神は前々からノートルダム大聖堂が大きく炎上し、
それでもそのほぼ全てが奇跡的に残り、その現象を体験した人は
聖書の受難の場面を実際に体験したのと同じ感覚を受ける…といった事象を
前々から起こそうと計画されており、自分は知らないうちにそれに巻き込まれていった…
という可能性があります。

受難週中にそういった事象を起こそうという計画があるところに、自分は
受難週も何も知らずに聖書の受難の場面をラノベとして書いているうち
意識のリンクのようなものが働いて、
知らず知らずのうちにそれに引き寄せられていったのかも知れません。

もしくは、自分の書いたラノベは
やはりキリスト教的にあまりよろしくない物で、この不敬な男を少し懲らしめてやろう、
といった意思があって自分はそれに引っ張っていかれたのかも知れません。

思えば、自分はキリスト教徒ではなくて受難週を知らず、
それでもそういった神の計画のあったところに知らないで受難の場面を書いていたがために
現実世界で起こったイエスキリストの受難を想起させる神の現象に巻き込まれ
それに魂を直撃される感覚を受ける事になったような、何だかそんな感じがします。

聖書のイエスキリストの受難の場面に、何か以上の事がらとの関連を思わせるような
記述があったような気がします。

キリスト教徒ではなくて、何も知らずにエルサレムを訪れた際に
ばったり十字架を背負って歩くイエスキリストの受難の場面に遭遇し、
そしてたまたまその場に居たがためにローマ兵に捕まり疲弊したイエスキリストに代わって
十字架を背負わされ、イエスキリストの後ろをしばらくついて歩く事になった…

聖書でいう、自分の立場はキレネ人のシモンを何だか思い起こさせるなぁ、
といった感慨を抱きます。

イエスキリストの受難の場面が地上に再現されようとしている時に、
何も知らずに魂的な、精神的な形でそこにさ迷い込んだばかりに、それに捕らえられる事になった…
どうやら、自分はそんな立場の人間なのではないかな、といった風に思っています。
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