19・日本とキリスト教の関わり

文字数 7,151文字

記録によれば、日本にキリスト教がもたらされたのは戦国時代、
宣教師として日本を訪れた聖フランシスコ・ザビエルや
織田信長のもと布教を行ない、当時の日本の様子を克明に記し
ルイス日本史を著したルイス・フロイス等、宣教師による布教活動が有名ですが、
その他にも16世紀に
当時のローマ教皇グレゴリオ13世の元へ派遣され謁見を行った天正遣欧少年使節や、
どちらかと言えばスペインと通商の約定を結ぶことが主な目的だったようですが、
17世紀に仙台藩から出発して太平洋を越え、ブラジルを経由してローマに至り
当時の教皇パウロ5世に謁見も行った慶長遣欧使節というのもあったりします。

そして、色々と調べているうちに、キリスト教は
意外と古くから日本に影響を与えている事がわかって来ました。

日本では12世紀の鎌倉時代に、それまで存在していた仏教を整理しようという形で
浄土宗や浄土真宗、中国から取り入れられ禅で有名な曹洞宗など
鎌倉仏教が興隆したのは有名です。

中でも、浄土真宗の祖となった親鸞上人は、罪からの救済は自分の力ではなく
阿弥陀如来への信仰とそれによってもたらされる恵みによってなされるという
他力本願説や、善人ではなく悪人こそが阿弥陀如来の功徳による救いの対象という
悪人正機説など、キリスト教とよく似た教義を説いた事が知られています。

そして、浄土真宗の総本山である西本願寺には
世尊布施論という、主に聖書のマタイ福音書にある、山上の垂訓に相当する部分を
漢字に訳した経典が伝わっているそうです。

親鸞上人はこれを学び、なので浄土真宗は教義と信仰形態に
かなりキリスト教との共通点が見出せるような形になったのでは、
とも考えられているようです。

そして、
「蛇蝎奸詐のこころにて 自力修善はかなうまじ 如来の回向をたのまでは
 無慚無愧にてはてぞせん」
との言葉が残されています。

私の心は蛇や蠍のようです、自力で良くする事は適いません。
如来による回心の力がなければ、罪に気づきそれを慙愧する心もなかったでしょう…
という意味になるようです。

これは、キリスト教でいう所の原罪と、そして熱心になって悔い改めよ…という精神に
共通するものがあるように思えるのではないでしょうか。

さらに浄土宗、浄土真宗のいう浄土とは、日本から西にあるという西方浄土の事を指します。
これは西方から伝わったキリスト教世界の事を指しているのではないか、
とも言われているようです。


・二祖対面

そして、親鸞上人が教えを受けた浄土宗の法然上人には、夢の中で
西方にある山から雲に乗って表れた、下半身が金色に光る僧形の上人に遭遇し
その対話から念仏を一心に唱える専修念仏の確信を得た…という、
二祖対面と呼ばれるエピソードがあります。

この時夢の中に現れた僧形の上人は、
中国浄土宗の善導大師と言われています。

しかし、金色の下半身という独特な姿は
黙示録の著者ヨハネや、ダニエル書のダニエルの前に現れたと記されている、
その足は炉で精製された輝く真鍮のようであり…と書かれている
霊的な存在のことが念頭に浮かびます。

もしかして法然上人の夢の中に現れたという、下半身が金色の僧形の人物は
黙示録やダニエル書に記されている霊的存在と、
何か関連があるのでしょうか…。

キリスト教にも仏教にも、聖パウロの経験したような
回心のエピソードがあったりします。
両方ともに、ある種の霊的な作用がどちらにも存在しているのでしょうか。
霊の世界のことなので、正確なところは不明ですが…

キリスト教も仏教も、人より超越的な、霊的な存在があるとし
それに向かって信仰を捧げ、恵みを願う…という信仰の仕方は
両者とも似通っているものがあるように思えます。

信仰の仕方の形式が違うだけで、仏教にもキリスト教にも
根底には同じものが流れているのかも知れませんね。


・唐の景教と平安時代の仏教

そして、鎌倉仏教の興隆する以前の平安時代、
日本に初めて仏教が伝わった頃からもすでにキリスト教は
日本仏教に影響を与えていたのではないか…と思われる所があります。

日本に初めて仏教が伝来したとされる平安時代、そのころの中国は唐の時代になりますが
その頃唐ではキリスト教の一派、ネストリウス派が景教との呼び名で流行していました。

そして国を守護する法として仏教を求め入唐した空海大師と最澄大師は、
そこで法華経、密教、禅などを学び日本へ仏教をもたらした事は有名ですが
そこで当時唐で流行していたネストリウス派キリスト教、景教の影響も受けたのではないか…と
考えられるところがあります。

中国の唐で景教が流行していた証拠に、ネストリウス派の教義や中国伝来の歴史を残した
大秦景教流行中国碑というものがあったりします。

そして、仏教には十戒と同じように五戒や八斎戒という
守るべき戒律が存在していますが、その内容は殺生をしてはいけない、
嘘をついてはいけない、不倫などの淫行をしてはいけない…等、
キリスト教の十戒とかなり内容が共通しています。

これは仏教がインドから中国へ伝播の過程で、
ユダヤ教、キリスト教に由来する戒律を取り入れたから…と考えられているようです。

さらに、宗派にもよるようですが、仏教では仏道に入門して守り本尊を決める時や
より深く修行を行おうと決心した際などに、頭に水を垂らす
灌頂(かんじょう)という儀式が行われます。

これは、古代インドの国王の即位式に頭に水を垂らす習慣が
仏教に取り入れられたものとされていますが、一方で
キリスト教の入信儀式の洗礼、水のバプテスマと関連があるのではとも言われています。

聖書の始めの方で、イエスキリストは布教を始める前に
バプテスマのヨハネから水のバプテスマ、いわゆる洗礼を受けます。

その聖書の故事が形式的にでも模される事によって、
そこにはその聖書の故事に込められた霊的な作用が宗派による形式の違いを超えて
及んでいるのかも知れません。
象徴的に、人々に教えを広めようとするイエスキリストと一緒となるといったような…。

仏法を求めて唐入りした空海大師や最澄大師も、
そこで当時伝えられていた密教を学び灌頂を受けたと伝わっています。

また、唐の仏教は、当時流行していた
景教の影響を相当受けていたのではとも考えられているようです。

そして、平安時代に日本に仏教が伝わり
神護寺で日本で初めて灌頂を行ったのは最澄大師と伝えられています。
日本に仏教が伝わった頃から、キリスト教は間接的に
日本に影響を与えていた、と考えられるのではないでしょうか。

そしてさらに時代は遡り、およそ日本の歴史の始まりとも言える時代からも
キリスト教は間接的に日本に影響を与えていたのではないか…と思われる所があります。


・影響は古墳時代から?

おおよそ日本が歴史の記録に初めて現れるのは紀元1世紀ごろ、
当時の九州にあったと考えられている奴国という国が、
中国の後漢と朝貢関係を結んだ辺りになります。

後漢書という中国の歴史書に、建武中元二年(西暦57年)倭奴国奉貢朝賀す…と
出てくるのがそれです。有名な漢倭奴国王の金印は、その時昔の日本である
倭国に与えられたものと伝えられています。

そして次に記録に現れるのは、時代が200年ほど下って3世紀の邪馬台国の時代、
倭の女王卑弥呼が中国の魏に朝貢を行い…と、魏志倭人伝に記されているものになります。

邪馬台国は、その時代からの古墳、前方後円墳が多くある奈良を中心とした
大和と呼ばれた国の事ではないかと考えられているようですが、
同時にその古墳には埋葬が行われる際に奴婢(奴隷)を生け贄に捧げた、と
魏志倭人伝や日本書紀には記録があります。

そして3世紀後半頃の天皇、垂仁天皇はこの奴婢の殉死の習慣を憐れみ、
その習慣をやめ奴婢の代わりに埴輪を古墳の周りに埋めるようにしたと
日本書紀には記されています。

多くの古代社会では、殉葬といって王族や有力者が埋葬される際には
死後も王に仕えるようにと奴隷を殺し一緒に墓に埋葬する事が
当たり前に行われていました。

紀元前1700~1000年ごろの中国の殷王朝では、殷墟という
殷の首都遺構の墓から殉死者と思われる大量の人骨が発見され、
殉死、殉葬が盛んに行われていた事が伺われます。

そしてその他にも、古代では聖書に出てくる当時の中東や、またヨーロッパ、ローマでも
災害の際や祭りの時などに人を生け贄に捧げる習慣が存在していた事が記録されています。

しかしローマで1世紀ごろ、それまで存在していた古代宗教とは一線を画した生け贄や
淫猥な儀式を禁じるキリスト教の布教が行われるにつれ、そこから間接的に
影響が世界に伝播していったのでしょうか、
それから不思議と世界から生け贄の習慣は廃れていきます。

日本でも3世紀に魏と朝貢をした際に、すでに大陸の方では
殉死の習慣が廃れている事を知り、始皇帝の墓に見られるような
人を象った像を埋める習慣を取り入れた…とも思えるのではないでしょうか。

正確なところを言うと、中国では1世紀にローマでキリスト教が布教される前の
秦の始皇帝の時代(紀元前246~210年)に、従者の殉死の代わりに
有名な兵馬俑に見られるように精巧な人や馬の像を墳墓に埋めるようになっていました。

その習慣は次の漢の時代(紀元前206年~紀元後220年)にも引き継がれ、
三千人馬と呼ばれる漢時代の兵馬俑が現在も残っています。

しかし、漢のころでも殉死の習慣は完全には途絶していなかったようで、
子供のいない夫人や側室は殉死をさせられていたようです。

しかし漢の次の時代、邪馬台国が交流を持った魏(紀元後220年~265年)の始祖である
曹操は、自らが埋葬される墓は豪華なものを禁止し、できるだけ簡素なものにするようにという
いわゆる薄葬令を出します。

現在、曹操の墓ではないかと思われる墳墓が見つかっていますが、
歴代の王墓と比べると非常に簡素で、のちに合葬されたと思われる
妻の卞皇后と、早くに亡くなったという正室の劉夫人と思われる棺が
一緒に埋葬されている他には、殉死者が埋葬された跡は今のところ見つかっていないようです。

この曹操の薄葬にも、もしかしてキリスト教の影響が
間接的にあったのではないか、と思えるような所があります。


・道教と西門豹、太平道と五斗米道

古代中国は西暦220年、漢が滅亡しその後に魏・呉・蜀に分かれて争う
いわゆる三国時代が到来します。そしてその間にローマからシルクロードを伝わり
信仰に対してのキリスト教的な考えや感性が、
間接的に中国大陸にも広がっていたのではないか…と見られる所があります。

古代の中国にあった信仰に、道教というものがあります。
道教とは元は民間信仰だったものですが、不老長寿を求め丹を練り、
道術や方術を用いて仙人になる事を目的とする教義の宗教です。

しかし同時に、道教は人身御供の祭祀を扱っていたと思われる記録が
ところどころにあったりします。
その証拠となるような故事に、饅頭の逸話があります。

饅頭の逸話とは、
古代中国では川の氾濫を鎮める儀式などの際に、神への捧げものとして
切断した人の頭部を捧げていたが、伝承によれば諸葛亮孔明がその習慣を止めさせるために
人頭の代わりに小麦の生地で肉を包んだ饅頭を作って捧げるように教えた…
というものです。

古代社会ではごく普通にあった事のようですが、古代中国でも人身御供が
聖なる儀式として行われていたようです。

そもそも道教の道という字は、
道を表すしんにょうと首という字から出来ています。

これは郊外の荒れた道を行く際に魔よけのため
切断した頭部を持ち歩いた習慣から、または魔よけのために
道ばたに切断した生首を埋める習慣から出来た文字と言われています。

ですので、道教とは道の宗教ということですので、古い時代にはそういった人の頭部を
道路の魔よけとして扱う祭祀を司っていたのではないか…とも考えられるのです。

その他にも、号という字は生き埋めにされた者が泣き叫ぶ様子ですとか、
七というのは刑で十字に切り裂かれた胸の様子ですとか、
漢字には意外と古代の苛烈な儀式や刑が元になっている物があったりするようです。

話が逸れましたが、そんな古代の習慣が色濃く残る古代中国に
西門豹という一人の伝説的な人物が居ました。

西門豹は紀元前400年ごろの、戦国時代の魏の文侯の配下にいた人物で、
聡明かつ人徳のある地方統治者だったと伝わっています。

中でも有名なエピソードが、
西門豹が赴任先の都市に赴いた際に、そこの住人が非常に困窮状態にある事に気づき
その原因を調査するとその地方を支配していた信仰が元である事を突き止め、
それを止めさせ迷信を一掃し、結果住民は豊かに安定した生活を送れるようになった…
というものです。

どういう内容かと言いますと、
西門豹が赴任した都市では、河に娘を沈め河の神(娘を生贄にする祭祀があったという河伯か)
に生け贄に捧げる習慣があり、その他にもわいろを受け取る役人と結託した
祭祀を司る三老や巫女などに多額の金品を納めなければならず、そのために住民の生活は
非常に困窮していました。

住民への聞き取りでこの事を知った西門豹は、
では祭祀の行われる時に私も出席させてくれと言い渡します。

そして祭祀が行われる当日、配下を伴い儀式に出向いた西門豹は
犠牲にされる予定の娘を見て、河の神に捧げるならもっと器量のよい娘の方が
河の神も喜ぶだろう、と言い出します。

そして、老婆の巫女に、今から河の神の元へと行って丁度よい犠牲を探してますので
少し待って下さいと挨拶して来なさい、と配下に命じて老婆の巫女を河へと沈めます。

周りが唖然とする中、しばらく待っても老婆が帰って来ないのを見て
祭祀を司る三老にどうやら巫女は河の神に気に入られて帰って来れないようだから
祭祀を司るあなた達が責任を持って連れ戻してきなさい、と
三老も河へと沈めてしまいます。

そして三老も帰って来ないのを見て、西門豹は、これでは儀式が行えないではないか、
ならば次は役人が全員河の神の元へ行き連れ戻して来なさいと言うと
役人は一斉にひれ伏し、お許し下さいと許しを請い、
それから河の神に生け贄を捧げる習慣はなくなって住民の困窮は解消された…
というものです。

紀元前400年ごろの中国、それから秦の始皇帝を経た漢時代でも、
このような儀式は普遍的に存在するものだったと見れるのではないでしょうか。

それから時代は下って、紀元200年ごろの三国時代の中国、
そこではそれまでの道教とは趣きの違った太平道、五斗米道という
新たなる教理の宗教が流行していました。

両方とも教理が似通っているとされ、その教義は、病は罪による
神からの罰とし、罪を悔い改めて符水を飲めば病は治癒する、
治癒の効果は当人の信仰心の高さによるといった悔い改めによる
病人治癒を主とするものです。

その他にも修行を積めば死んだ後に生き返り他の土地で仙人になるという
尸解(しかい)の思想や、尸解に至った者の肉体は腐敗せず
生前と同じような状態を保つというキリスト教でいう不朽体の思想ですとか、
その他陰陽五行説の影響もあるようですが太平道、五斗米道は思想部分に
キリスト教の影響を少なからず受けているようにも見えます。

古代中国ではローマおよび西方にある国々を秦国と呼び、シルクロードを通じて
古代から文化など様々な影響を取り入れて来ました。

なので、2世紀ごろには人づてにキリスト教の教義が
中国の信仰に影響を与えていたとしても不思議ではありません。

もしくは、名も知れない伝道者が中国やそこからさらに先までの
伝道を目指したとか、またはローマでの迫害から逃れたキリスト教者が
中国にたどり着いたといったような、知られざる歴史のエピソードが
あったのかも知れません。

いずれにせよ、2世紀に起こった太平道、五斗米道はある程度
キリスト教の影響があり、それまで存在した道教とは違い生け贄を行わないなど
かなり違ったものだったのではないか…と考えられます。

ちなみに、太平道は後漢時代の終末期に数十万の信者を集め、その信者が武装蜂起をし
これが有名な黄巾族の乱になります。

そして太平道の信者兵団は精強さで知られ、その後曹操に雇われ
青洲兵として仕え、魏の中国統一に大きな働きをしたと伝わります。

曹操は遺言で、陵墓は西門豹の墓の近くに造る事を言い残しました。
曹操は、西門豹に深い敬意を抱いていたのでしょうか。
そして、生け贄を禁じるキリスト教に影響を受けていたかも知れない太平道に
何か共通するものを見出していたのかも知れません。

もしかして、邪馬台国の奴婢の殉死が埴輪の埋葬に代わるきっかけと
なったかも知れない曹操の薄葬令は、西門豹と、キリスト教に影響を受けた可能性のある、
太平道の影響があったのかも知れませんね。

さて、話がだいぶ大回りになってしまいましたが、これまでの歴史の中で一人
日本の宗教信仰に重要な影響を及ぼした人物が居ます。
聖徳太子です。
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