22・日本の信仰

文字数 47,320文字

日本には、現在でも町や村々に大小様々な神社が存在し、
また道の端々にはお地蔵様や小さな祠が存在していて、
古くから神を怖れ敬う信仰が存在して来ました。

神様を祀る神社は、それこそ古いものは来歴がわからないようなものも
存在していて、その由来を辿るのは困難です。

現在のような神社ができるよりも昔、ほとんど何もないような草原の
小さな集落で人々が暮らしていた頃は、身の周りの物や自然現象の起こる理由もわからず
世界は神秘に包まれているように見えていたかも知れません。

そういった世界では、石や草木に神秘性を見、
西に沈む夕日を眺めてはまた明日も太陽が昇るように心に思う、
そんな信心の始まりのようなものが存在していたのだと思います。

現在でも草木や滝などの自然をご神体として祀る神社がありますが、これは
原初の生活を送っていたその頃の名残のように思えます。

日本の信仰は、自然や古代の祖先などを神格化し祀る、八百万の神の多神教と
よく言われますが、どの神社も参拝の時はだいたい神霊の世界を思い浮かべて手を合わせ
静かに祀るという、信仰形式的には一神教ではないかと思われるところがあります。

どの神社でも、禊(みそぎ)やお祓いが行われる所が多いようです。
これは古代から存在していたらしく、悪いもの、いわゆる穢れを払うものとされています。

また、神社によって様々な神事が存在するようです。
奉納舞である神楽や、奉納相撲が行われる神社もあるようです。

初詣や七五三など、日本の文化に古くから馴染んでいる神社ですが、
現代においては神社の持つ古来的な感性が徐々に薄らぎつつあるようにも思えます。

古くから神社にはどのような意義・思想が込められているのか、
大まかにですが記していきたいと思います。


・穢れ思想

死・疫病・出産・月経・犯罪など、これらのものを古来より神社では
神様は穢れを嫌うとして避けました。

現在でも身内に不幸のあった場合には、50日ほど参拝を控えるなどの
決まりがある所もあるそうです。

また現在でも、神社に行く前には入浴したり、
肉類や魚類を食べるのを避けるといった人も居るようです。
これは古代の神前に出る際には沐浴し、飲食そのものを控える、いわゆる
斎戒沐浴の習慣から来ているものと思われます。

この習慣は、
神様は清浄さを貴ぶという思想から来ているようです。


・祓い、清め

心身に沁みついた穢れを払い清める儀式になります。
神社によっては6月と12月に大祓といって、天下万民の罪穢を払う儀式が
取り行われるようです。また、水を被る、または川に入って穢れを洗い流す
禊(みそぎ)という祭式を行う神社もあるようです。

・憑き物

海外で言うなら、悪霊憑きに相当する現象が日本にも古来から存在していたようです。
憑りつく、憑依するとされるものは狐、蛇など動物霊とされる事が多いようです。
また祀られていない、寂れた神社は悪いものが住みつき祟るともされています。


・託宣(宣託)

神様の言葉が人に託される出来事です。
日本書紀などに、たびたび神様から託宣が下り、物事がその通りに実現する、といった
出来事が記されています。宇佐八幡宮神託事件などが有名です。


・神事

神社によって様々な、神様を祀る神事があります。
主に古代の故事を記念する、または神話に伝わる故事を人々が真似をする事によって
地上にて再現する、といった観念が存在するようです。


その他神社によっては、
様々に独自の祭式が存在する所もあるようです。

一つ言える事は、霊域・神域というものは現実的に存在するもので、
そこには我々の理解の及ばない力が確かに存在するようです。

ただしどうやら日本の古くの神社・神域の傾向を考えると、
霊的な力のあり方が方向性を持たない、いわば自然と同じような形で存在している、
という事になりそうです。

また神社に祀られる霊の中にはいわば人格のようなものがあり、
人の呼びかけに答える事もある霊も存在するのかも知れません。
ただし、呼びかけに答える霊が我々と同じ常識を持っているとは限りませんが…。

また、一つ気を付けなくてはいけないのは、
日本にも古代には人身御供の習慣が存在し、人身御供が捧げられていた神様を祀る
神社も存在しているという事です。

さらに、神社には国外で祀られていた神様も祀ってあったりします。
そういう神様は、国外では人身御供が捧げられていた存在である場合もあるようです。

それが神様として祀られている神社に、そうとは知らずに
熱心に参拝した場合、最悪の場合は憑き物、悪霊憑きが発生する可能性も考えられます。

全国に神社は数多く、古いものとなると伝承が途絶えてどのような存在が
神様として祀られていたのかわからなくなっているものもあります。

そう考えると、神社は本来何が起こるのかわからない怖い所であり、
向き合い方としては霊的な存在を怖れ敬い、祟らないよう静かに祀る…というのが
無難なあり方のように思えます。

神社の中で、自然そのものを神として祀っている所は霊の力が時にはそよ風、
あるいは無風、またあるいは暴風雨となって荒れ狂う時もある、
そのような形で自然を祀る神社は人の意思はあまり介入できないような
自然と同じ形で霊の力が存在しているように思えます。

そうなると動物神を祀る神社もあるようですが、そのような神社は
霊が存在すれば動物のような存在の仕方をしていて、憑き物が発生した場合には
知らない間に動物の霊に人格が影響を受け、人生にも悪影響を受けてしまうかも知れません。

そして、古き神代の時代の人物を神として祀る神社もありますが、
そこは恐らく霊が人格のある形で存在し、祀られている人物が良き人格者であれば
霊の力を良い形で与えてくれる場合もあるのかも知れません。
しかし、先祖の因縁など、自分たちには見えない事情で逆に悪い作用が及ぶ可能性も
考えられますが…。

神道の神は祟る、というのが古代においては共通した認識としてあったようです。
聖徳太子と推古天皇が中心となって記されている、仏教の伝来の最初期を記した元興寺縁起にも
仏教が国内に取り入れられ始めたその際に災害が多く起こった折には、物部守屋ほか臣下達はこれは
古来より祀っていた神道の神が怒りを発した事によるとして仏教の排除を進言し、寺を焼き討ちし
仏像を燃やしてしまったと記されています。
その後に焼けつくように痛む腫物を伴う疫病が流行り、こちらは仏神の罰であるとされていますが…。

日本仏教伝来の祖である聖徳太子と、共に困難に遭遇しながら仏教を日本に導入した推古天皇も
推古15年(607年)に
「古来わが皇祖の天皇たちは、世を治めたもうに、謹んで篤く神祇を敬われ、
 山河の神々を祀り、遥か天地に通わせられた。これにより陰陽調和し、物事は整った。
 わが代において、天つ神国つ神を祀るを怠ることがあってはならない。よって、
 臣下ともどもに心を尽くして神を祀るよう」という、神道の神を敬いなさいという
敬神の詔を発しています。

神様は清浄を尊び、汚穢を嫌い、祀る際には祟りを畏れ身と心を清め静かに祀る…というのが、
古来からの日本の宗教観であるように思えます。

それは、神前やご神域に参拝する際だけではなく、普段の生き方の清浄さも
神様は尊ばれるという事に繋がるのかも知れません。

普段から、心身ともに清くを心がけしておく事は、神様の愛を招き
人生に福を招く事のコツになるのかも知れませんね…。


・日本の神話の構成

世界各国にある神話は、それぞれある程度の共通性が見いだされる事が
昔から知られています。

日本の神話も、同じく世界各国の神話と共通性が存在する事が見いだされます。
例えば日本書紀の序文にある創世の神話は、中国、東南アジア、ハワイ諸島
そして旧約聖書の創世記に共通性が見られます。

まず旧約聖書の創世記では、天地の始まり、天地創造を
「はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、
 神の霊が水のおもてをおおっていた。神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
 神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。
 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名付けられた。夕となり、また朝となった。
 第一日目である。
 
 神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。
 そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを
 分けられた。
 神はそのおおぞらを天の名づけられた。夕となり、また朝となった。
 第二日目である。

 神はまた言われた、「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ」。
 そのようになった。
 神はそのかわいた地を陸と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。
 神は見て、良しとされた。
 神はまた言われた、「地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を
 結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ」。そのようになった。
 地は青草と、種類にしたがって種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ
 木とをはえさせた。神は見て、良しとされた。夕となり、また朝となった。
 第三日である。…(後略)」と記しています。

中国の創世神話は、地方によって様々なものがあるようですが、
その中の一つの天地開闢神話では
「天地がその形をなす前、すべては卵の中身のように混じり合い、混沌としていた。
 その中に、天地開闢のきっかけとなる盤古が生まれた。盤古が誕生すると天地が分かれ始め、
 天は一日一丈ずつ高さを増し、地も同じように厚くなっていった…」
と記されています。
やがて1万8千年が経ち盤古が死ぬと、その死体の頭からは
泰山、恒山、衡山、華山、嵩山の五山が生じ、右目は太陽、左目は月となり…
という風に記しています。

そして日本神話では世界の始まり、天地創造を
「昔、天地は分かれておらず、陰と陽も分かれてなく、それは混沌としていて
 鶏の卵のようで、そこに漠とした兆しが芽生えた。澄んで明るいものは薄く広がり
 天となり、重く濁ったものは滞って地になった。精妙なものは動きやすく、
 重く濁ったものは固まり難い。なので、天が先に出来て地が後にできた。
 その後、その中に神聖が生じた。世界が生まれた時、国は魚のように
 浮かんで漂っていた。そして天地の中に、一つのものが生まれた。
 葦の芽に似ていた。それは神へと変わって国常立尊となった…」
という風に記しています。

世界の始めは光と闇が分かれていなく、天が始めに創られて地が後であり、
その後に植物である葦が生え…という創造の順番は、旧約聖書の創世記との
関連性が見られます。

また、世界の始まる前を卵に例えるのは中国や、そのほか世界の様々な神話に
例があるようです。

そして物語は進んで、夫婦神の夫である伊邪那岐命が妻の伊邪那美命の死を悼み
黄泉の国に下って会いに行く話、いわゆる冥府下りの物語はギリシャ神話の
オルフェウスの冥府下りや、シュメール神話のイナンナの冥府下りなど
ギリシャ・中東地方の神話にほぼ同じものが見られます。

伊邪那岐命が黄泉の国を訪れた際に、妻の伊邪那岐命に黄泉の主と相談が終わるまで
自分の姿を見てはいけないと言われていたにも関わらず、待ちきれずに見てしまい、
腐乱した姿の伊邪那美命を見て驚いて逃げ出し、約束破りに怒った伊邪那美命が
恐ろしい形相で追いかけてくる…というのは、オルフェウスが冥府から妻を連れだす際に
外に出るまで振り返ってはいけないという約束をあと一歩の所で破ってしまい、
妻は冥府に引き戻されてしまった…というオルフェウス神話および、
ソドムとゴモラが天からの火で滅ぼされた際に、振り返ってはいけないという注意を破り、
振り返って塩の柱になってしまった旧約聖書のロトの妻の話と共通性があります。

その他にも、立ち寄った月読命、またはスサノオの命に、口、または鼻や尻から食物を出す
保食神(うけもちのかみ)、またはオオゲツヒメが料理を振る舞ったところ
汚らしいものを出すなと激高した月読命、スサノオの命に斬られてしまい
その遺体から牛馬や米や麦などの五穀が生じたという神話も、
東南アジアやオセアニア、遠くは南北アメリカに類型の神話が見られ、
インドネシアの作物神ハイヌウェレからとってハイヌウェレ型神話と呼ばれています。

さらに、日本神話には伊弉諾命と伊邪那美命が通常に生んだだけではなく、
目や鼻、血、息、衣服など様々なところから神々が生まれる場面がありますが、
これはメソポタミア神話のティアマットや、北欧神話にある巨人ユミルの神話に
同じような話が見出されます。

この様に日本神話、というよりは神話そのものはどうやら世界中のものに
お互いそれぞれに関連が見られるように思えます。

そして日本神話はごく大まかに分けて、旧約聖書に関連が見られるものと、
シュメールなどのメソポタミア神話に関連が見られるものの2系統が
存在しているように思えます。
これは、遥か古代から人づてに物語が伝わって来たものなのか、
それとも人知を超えた霊的な作用の結果なのかは、何とも言えない所がありますが…。

もしかすると、世界中の神話には何らかの関連性があるのかも知れません。
世界に点在する神話をすべて調べるとなると、それこそ膨大な時間がかかると思えますが。

日本神話はその他、天照大御神が天界でのスサノオの命の狼藉に驚いて
天岩戸に隠れたために天地が闇に覆われ、その解決のため神々があれこれ知恵を絞って
天岩戸から天照大御神を引っ張り出す天岩戸隠れの話や、天界である高天原から
神が下って人の祖先となる天孫降臨の話ですとか、高天原を追放されたスサノオの命が
ヤマタノオロチを退治しその尾から草薙の剣が出てくるなどの話が有名です。

これらは、例えばヤマタノオロチ退治の話は、舞台となる出雲には昔有力な豪族が存在し
それらの勢を征服した際にその事実を神話化したものであるというように言われています。

神話にも、ある程度の歴史的な事実が反映されているという事は
以前から言われてきました。

しかし、時間を隔てた現在では、どの部分がどのような史実の反映であるかを確かめる事は
かなり困難であるように思えます。

神話が形成され、現在見るような形になっていったのは、
はるか歴史の彼方の中での出来事ですから…。

日本神話は、天孫降臨の部分の後からは史実を神話化したもの、
つまり始めは南九州の高天原、宮崎県あたりにいた一族が北部へと移り住み、その際に生じた
動乱が大国主の命の国譲り神話となり、またさらにその一族が東へと遠征をし最後は
大和を建国して天皇として即位するまでが、いわゆる神武東征の物語と言われています。

これは史実に合わせて見ますと、後漢書に安帝永初元年(西暦107年)、
倭国王帥升が皇帝に謁見を求めて貢ぎ物として生口160人を献じた…と記録されている
この辺りの出来事が、国譲り神話ともしかして何か関連があるのかも知れません。


・古代史料と日本神話

およそ古代の日本、倭国の様子がはっきりした年代を伴って書かれているのは中国の後漢書が
最初になりますが、そこには西暦57年に奴国という国が漢に朝貢をして金印を授かったと
いう事が記されています。

奴国は北部九州の福岡辺りにあった国と考えられていますが、そこには当時、安曇(あずみ)氏や
和邇(わに)氏という氏族が存在していて、そして漢に朝貢をして金印を授かったのは
この和邇氏だったのではないか…と思われる節があります。

というのも、日本がかつて倭という名前で呼ばれたのは、和邇氏は丸邇氏、または
丸氏とも書き、そして漢に朝貢をした際に自身を指して「わ」と呼んでいたらしく、
それが旧来の日本の国号が倭と呼ばれる元になったと言われています。

和邇氏=丸氏の氏族名の本来的な意味は、もしかして輪という事なのかも知れません。
そして自身の事を指すときにわと称し、それが古代中国で日本の旧来の国号である
倭となった…と、いう事が考えられます。

そして、和邇氏が支配していた古代の九州北部に107年、倭国王帥升と記される
日本書紀から推察すれば、九州南部の宮崎県にいた天孫神話をもつ氏族が
九州北部を征服し、その地位を確たるものにするため漢へと謁見を求めた…
という出来事があった様に考えられます。

そして古代日本、倭国を記録した後漢書ともう一つの書である魏志倭人伝には
倭国大乱という出来事が記されています。

これはどういう出来事かというと、魏志倭人伝に記されている所によれば
男子の王が立ってから70~80年、後漢書によれば桓帝・霊帝の間(146~189年)、
倭国は大いに乱れ何年にも渡ってお互いに争いあったというものです。

これを日本神話に当てはめて見ると、古事記に記される神武東征の部分に
相当すると見れるのではないかと思います。

神武東征とは、初代の天皇である神武天皇が日向の国(九州南部・宮崎の辺り)から
出発し、大和(奈良などの近畿地方)まで制圧して初代天皇として即位する逸話です。

実際に考古学で見ても、大和国のあった近畿地方は2世紀末から3世紀中ごろにかけて
銅鐸を祀る文化が途絶し、そして大きな権力の存在を思わせる前方後円墳が作られ始め、
そこから銅鐸に代わって銅鏡の出土が見られるようになるそうです。

これは、近畿地方に2世紀末から3世紀にかけて何か大きな変化があった事の
考古的な証拠のように思えます。

日本神話に書かれているように、これは2世紀末ごろの倭国では日向から出発した一族が
近畿地方に至り、大和国を建国したという事の証拠なのでしょうか…

ちなみに、西暦57年に漢に朝貢して漢倭奴国王の金印を授かったとも考えられる和邇氏ですが、
その後、一族から天皇の皇后も出す有力な豪族としてのちの記録にしばしば名前が現れます。

これはもしかしたら、和邇氏は倭国王帥升に征服された後でも一族が断絶される事はなく、
かえって倭国王を補佐する役割として取り立てられたのではないかとも見れるように思えます。

そして、漢からつけられた旧来の日本国号である倭はやまとと当て字がされて
神武天皇が征した畿内のやまと国の古称となり、のちには倭を大倭とし、そして漢字が
理解されるようになると倭という字は小さいという意味があるのを知って倭を和へと変え、
最終的に大和という名称が出来上がっていった…というような推察がされています。

和邇氏が漢に朝貢した際に、自身を指してわと呼んでいたのが
日本の国号が倭と定まったきっかけだったならば、もしかして和邇氏は
大和という名称の大元となった一族なのかも知れませんね…


・八幡様と神仏習合

日本でもトップクラスに祀る寺社が多いと言われる、
八幡様という神様がいます。

八幡様は不思議な神様で、日本書紀には名前が現れていません。
これは、八幡様は外国から渡ってきた神様だからと言われています。

伝承では、八幡様は欽明天皇三十二年(571年)、現在の大分県である宇佐の地の
菱形池に現れたと伝えられています。その姿は八つの頭のある異様な鍛冶の翁の姿で、
この神に大神比義という神祇が三年間穀絶ちをしたのちに祈りを捧げて姿を現すよう
問うたところ、翁の姿だった神は三歳ほどの童子の姿となり、
「我は是れ日本の人皇第16代誉田の天皇広幡八幡麿(応神天皇)なり。我が名は、
 護国霊験威力神通大自在菩薩なり。…」と告げ、黄金の鷹へと姿を変え飛び立ち、
止まった所に鷹居社という神社が作られて祀られたとあります。

またもう一つの伝承として、辛嶋家主解状では
八幡様は欽明天皇の時代に、まず宇佐の辛国宇豆高嶋(からくにうずたかしま)に天降り、
続いて大和国・紀伊国・吉備国と移り住んだのち、再び宇佐に戻って馬城嶺に現れ、
そこから現在乙咩社、酒井泉社、郡瀬社として祀られている地に次々と移り、そして次の地に
移る際に鷹の姿となり非常に心が荒ぶって、人が五人行けば三人死に、十人行けば五人が死に、そのため辛嶋勝乙目という神祇が鎮まるよう3年祈祷を行うと心が和まれ、以後その地に鷹居社を
建てて祀った…と記されています。こちらの伝承では、八幡様を応神天皇とは
記していないようです。

またその他に、鍛冶の翁の姿で現れた時に五人が見に行けば行けば三人が死に…という話や、
児童となって大神比義の前に姿を現す前は黄金の鷹の姿であり、そして黄金の鳩へと変じてから
児童の姿へと変わり…などや、三年穀断ちをして八幡様の前に参じたのは大神比義と辛嶋勝乙目の
二人が一緒に…など、八幡様の顕現伝承には細かな違いのあるものが複数存在し、
主に二系統の話が入り組んで伝承が形成されていった様子が伺えます。


後々に八幡様が祀られるようになった宇佐八幡宮は725年、神亀2年に八幡様を祀るまでは
元々は宇佐氏の地元の神、比売大神(女性神の総称。宇佐の場合は
多紀理毘売、市寸嶋比売、多岐都比売の宗像三女神と伝わる)を祀る神社でした。

その神社の中にある、下井の霊水などの名称がある泉に八幡様が現れて
大神比義、または辛嶋勝乙目、あるいは両者が三年間の祈祷ののちに接触する事に成功し、
その後元々は大和の出身と言われる大神氏、そして豊前国が本拠、または新羅から
渡来したとも言われる辛嶋氏の両者がしばらくの間宇佐氏の神社である宇佐宮で
八幡様を祀る神祇として勤めた…というような経緯になるようです。

宇佐氏の神社であるのに、初期に八幡様を祀ったのは大神氏と辛島氏…という少し
複雑な経緯なのは、八幡様の顕現が実際にあった出来事だったのを示しているように思えます。

そして大神家と辛嶋家による2つの八幡様顕現伝承があるのは、
どちらの氏族が主なる祭司祀となるかで当時争いがあったのではないか…とも思われます。

事実、鷹に変じた八幡様を最初に祀った神社とされる鷹居社は、古くは鷹居瀬社と呼ばれ、
これは駅館川を挟んで大神氏一族の住んでいた東岸の鷹居社と、辛嶋氏一族の住んだ西岸の
郡瀬神社2つを合併した名前とされています。

伝承では、鷹に変じた八幡様は鷹居社と郡瀬神社の川を挟んで東側の松の木に止まり、
また西側の地に遊び、よって2つを合わせ鷹居瀬社という…といったように伝わっているようです。
やはり八幡様は、初期は大神氏、それと辛嶋氏のどちらが主として祀るかで
牽制し合う状況でもあったのかも知れません。


八幡様の伝承を調べてみると、八幡様は宇佐八幡宮の菱形池に現れる前に
辛国宇豆高嶋の稲積山に初めに天下って吉備や大和に移ってから宇佐の地に戻ってきたという
辛嶋氏の伝承や、または宇佐神宮の伝承では宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起に
八幡様が初めて現れたのは馬城嶺(御許(おもと)山、大元山とも)の山頂にある
三つの立石の上に現れたとも伝えられています。

稲積山、馬城嶺(御許山)は、先ほど触れた郡瀬神社と鷹居社との関係のように、駅館川を挟んで
西と東に位置します。
どちらの伝承が正しいのでしょうか。

これは恐らく、どちらか一方が正しいというのではなく、八幡様の顕現が実際の事として
順番の先後はわかりませんが、まず初めに八幡様が顕れたのは
稲積山と御許山の両方にほぼ同時期に顕れたのではないか…とも思われます。

なので、辛嶋氏の伝承では初めに稲積山に八幡様が現れたと伝えられ、
宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起では初めに御許山に現れた、と伝わり、
駅館川を挟んで東に住んでいた大神氏と、西に住んでいた辛嶋氏がそれぞれの八幡様の伝承を持って
どちらが主だった祭祀司になるかで両氏が並び立った…と見れるように思えます。

しかし、もっと複雑な可能性も考えられます。
例えば初めに八幡様を祭祀していたのは大神氏、あるいは辛嶋氏のどちらか一方で、
のちに祭祀主の地位をかけてどちらかが八幡様の伝承を取り込み自分の物にしようとして
争ったというような…

いずれにしても八幡様の初期の顕現に関する伝承が込み入っているのは、
大神氏と辛嶋氏のそれぞれの領域の両方に実際に顕現があったのか、
それともどちらか片方が顕現伝承を自分の所に取り入れ、祭祀主の地位を巡って政治的な
争いが行われた結果なのか、いずれかの一方であるように思えます。

そして、八幡様の降臨に関する伝承については辛嶋氏に伝わる方がより子細なので、
それを信頼するとして、そうすると初期の八幡様祭祀の中心は辛嶋氏が支配する
地域にあった可能性が高いように思えます。

辛嶋氏に伝わる伝承を中心に見ますと、八幡様はまず初めに宇佐の稲積山に顕れた後に
大和国、紀伊国、吉備国と移り、それから宇佐に戻って御許山へ現れ、それから現在乙咩社、
酒井泉社、郡瀬社、鷹居社として祀られる地へ次々と移り、588年ごろに移った鷹居社から
667年ごろに小山田社、そして現在の宇佐神宮の菱形池に顕れ、725年に御殿が建立されて
祀られた…という経緯になるようです。

宇佐神宮には、八幡様がまず穂積山に顕れ、それから一旦大和、紀伊、吉備と移り再び
宇佐の地の御許山に出現し、そこから宇佐神宮に移るまでの間宇佐の地の様々な所に表れた
という伝承を祭って八幡様の出現伝承のある宇佐の地を巡る行幸会という行事があります。

この行幸会の時に巡るのが、通称八摂社と呼ばれる、八幡様にゆかりある地に建てられた
八つの神社になります。(御許山は除く)

巡る順番は田笛社、鷹居社、郡瀬社、大根川社、泉社、乙咩社、
御許山、妻垣社、小山田社…といった順番になるようです。

これを見る限り、そして初期の八幡様信仰を伝えるとみられる
辛嶋家の伝承と重ね合わせると、八幡様が初期の頃に顕れたとされる地を祀る神社には
宇佐八幡宮のように八幡様の名が冠されていないという事に気が付きます。

これはどうやら、八幡様は初期の頃には
八幡様という名では呼ばれていなかった事を示すのではと思われます。

八幡様にまつわる、八幡宇佐宮御託宣集などに記録されている
初期の頃と思われる出現伝承には、八幡様の代わりに大明神や大御神という名が
用いられています。

そして八幡様がいつ八幡様と呼ばれるようになったかというと、推定ですが710年ごろ
宇佐八幡宮の菱形池に三歳の児童の姿として顕れた時に、三年間穀断ちして参った
大神比義、辛嶋勝乙目(もしくはその子孫の可能性)に対して、我は応神天皇、
誉田の天皇広幡八幡なり…と初めて告げて、それまで宇佐氏の比売大神を祀っていた宇佐神宮は
八幡様の名を冠して宇佐八幡宮となった…といったように考えられます。


・鷹居社(鷹居瀬社)はいつ頃建てられたか?

八幡様が現在ある八幡様として祀られるようになった経緯は、複数の古資料に
様々な伝承が存在し、現在その実像を正確な形で組み立てるのは
相当に困難です。

例えば鷹と変じた八幡様が泊まり、その地を祀っている鷹居社も
その創建の伝承は欽明天皇二十九年(568年)、崇峻天皇5年(592年)、
和銅元年(708年)や和銅5年(712年)など、複数存在しています。

これは、恐らく始まりは簡素な社のような形だったものが、段階的に
鳥居や拝殿などの設備が整えられていった事を示しているように思えます。

御託宣集にある伝承の1つに、八幡様は敏達天皇元年(572年)より
元明天皇・和銅2年(708年)までの138年間、様々なしるし・霊験が発されても
その間社殿が造られる事はなかった…と、記されています。

これを見るに、始めて八幡様の顕出があったという記述が集中している
570年頃に、宇佐の大尾山、または菱形池に何らかの出来事があって、
どういう形かは様々な伝承が存在していて正確なところはかなり詳細に調査しないと
はっきりと判明しないと思いますが、何らかの形で初めて人との接触があったと推定されます。

複数の伝承があってこれとは断定できませんが、伝承と当時の人々が存在した年代を
系図などから類推して見ると、570年頃に原八幡様と接触したのは
やはり大神比義だった可能性が高いのではないか…というように見えます。

その時の状況が、御託宣集などに見られる、宇佐神宮の菱形池に八つの頭を持つ鍛冶の翁が現れ、
鷹の姿に変じ、大神比義が恐らく最初は簡素な社の鷹居社を建てて祀った…
という逸話に現わされているのではないかと思われます。

それから少し下って、辛島氏に伝わる伝承によれば大御神は大和、吉備などに移ってから
宇佐の地に帰還し、鷹の姿となった時に心が荒ぶり、それを鎮めるために
辛島勝乙目、あるいは大神比義かその子孫が祀って、その後にいくつかの地に移り、
そして710年前後に現在の宇佐神宮に再び現れた…という状況だったのではないか、と
漠然とながら推察されます。

そして宇佐神宮に顕れた時に改めて八幡様は自身を応神天皇、誉田別の天皇
広幡八幡麻呂であると明かし、そして推定ですが、神託によって今まで移ってきた場所を告げ、
その地である鷹居社をはじめ八摂社に改めて本格的な社が建てられ、なので鷹居社は
創建が570年頃とも、あるいは712年とも伝えられているのではないか、という事が
考えられます。


・系図から見た大神氏・辛島氏の活躍時期の推定

712年に、鷹居社が八幡様を祀る官社、つまり国の公式の神社として成立した際に、
八幡様を祀る禰宜(祭主)として初めて任ぜられたのは、辛島勝乙目の恐らくは娘に当たる、
辛島意布売という人物になるようです。

そして御託宣集では、712年に大神比義も共に鷹居社の神祇として八幡様を祀るとありますが、
その少し後、716年には八幡様が小山田社に移るという出来事があり、
それを祀ったのは実は大神比義の5代ほど後の子孫に当たる、大神春麻呂という人物のようです。

それから見ると、大神比義が570年ごろに宇佐神宮の菱形池で
八幡様と何らかの形の接触があったとして、それから西暦600年代は八幡様の諸国変遷、
そしてその半ば辺りに辛島勝乙目が鷹と変じた神を鎮め祀る逸話があって、その後712年に
鷹居社が正式に官社とされた時に、辛島勝乙目の娘の辛島意布売が禰宜として任ぜられ、
大神比義の5代後の子孫、大神春麻呂がその後
小山田社に移った八幡様を祀った…というような状況だったのではないかと推定されます。


八幡様の初期の顕現に関する伝承の複雑さは、
八つの頭の翁の姿で出現した故事や、鷹に変じ荒ぶり、鎮めるために神祇が三年穀絶ちをして
神前に臨む故事、児童の姿で顕れて我は応神天皇である…と告げる逸話など、個々の出来事を
大神氏、辛島氏がそれぞれ別個に取り入れて伝承を形成しているためのように思えます。

それらは実際にあった出来事として、大神氏、辛島氏がそれぞれ、自らの正当性を
より高めるために、恐らくは多少時代の異なった出来事を取り入れて、
一つにまとめて整合性を取ったとそういう風にも見えます。

八幡様の伝承はその外にも、初めて現れたのは宇佐ではなくて
鹿児島(大隅国)の辛国城に始めて八つの幡(旗)として空より降り立ち、日本の神となった…と
鹿児島神宮、旧大隅八幡宮に伝わる伝承もあるようです。

さらに御託宣集などの資料に載っていない伝承として、例えば大分の日田市にある
大原八幡宮には、680年に宇佐の鷹の居にいます神と名乗る神様が現れ、
社を建ててその神様を祀った…といったものも存在しています。

八幡様の、最初期の顕現に関する実際のところを知るには、
残されている資料や伝承の成立時期の正確な特定や、地元の古い神社に伝わる
資料にない伝承の収集、顕現伝承で関わったとされる人々の正確な実像の解明など、
様々な調査を綿密にやらなければ、正確なところはなかなか判明しないように思えます。

そして、初期に宇佐神宮で八幡様を主に祀っていた辛島氏と大神氏でしたが、
その後様々な紆余曲折を経て、最終的には宇佐神宮の元々の神祇である宇佐氏が
宇佐八幡宮で代々八幡様を祀る祭主を務めることになります。
八幡様の伝承が複数違った形で存在しているのも、この辺りの事情と関連しているようにも思えます。

実際にあったであろう自然を超越した出来事に、人の様々な事情や思惑が絡んで
複雑な様相になっていく…というのは、神話というものの成立課程はこの様なものである事を
示しているように思われます。


・お神輿の始まり

お祭りの際に、神社のミニチュアのような神輿が担ぎ手に担がれて
賑やかなお囃子、掛け声と共に、町中を練って歩く…という光景は、よく見られるものです。

このお神輿は、中には旧約聖書に出てくる契約の箱アークを持ち運ぶ際に
箱の側面の輪に棒を通し、担いで持ち運んだという古代のイスラエルの
風習が日本に伝わったものだ…と言う人もいます。

神輿の起源も、実は八幡様信仰から発生している事が
八幡宇佐宮御託宣集に著されています。

養老四年(720)年、現在の鹿児島に当たる大隅国で、当時そこに住んでいた
隼人という集団により国守が殺害される、いわゆる隼人の乱と呼ばれる事件が発生します。

この隼人の乱を平定するために、大和朝廷から大伴旅人が派遣され、
同時に、当時八幡様が座していた小山田社に勅使が派遣わされ戦勝祈願が行われると
八幡様の「我行きて降伏すべし」という託宣があり、共に進軍するための
神輿が造られる事になります。

この時にどのように神輿を作ればいいのか、大神比義の子孫に当たる大神諸男という人物が問おうと
昔八幡様が修行をされた際に湧き出したと伝承のある三角池(みすみいけ、宝池とも)
で祈ろうとした所、宇佐池守という人物が現れ、大神諸男に
「大貞や 三角の池の 真薦草 なにを縁に 天胎み生むらん」という歌を伝えます。

大神諸男がその通りに歌い、三角池に祈ると、池は波打って雲がわき立ち、煙が立ちのぼり、
その雲の中から
「我れ昔この薦を枕と為し、百王守護の誓を発しき。百王守護とは、凶賊を降伏すべきなり」
という託宣が発せられます。

この中に出てくる薦(コモ)、真薦とは、東アジアや東南アジア、そして日本国内全域の
水辺に自生するイネ化の植物になります。
出雲大社では、この͡薦が神様の宿るものとされ、とても重要とされていて、これを使って
毎年6月にマコモの神事という神事や、神幸祭という神事が行われるようです。

そして託宣を受けて、三角池に茂る薦を枕の形にした薦枕(こもまくら)が作られ、
それを依代として神輿が組まれて、豊前国守の宇努首男人が将軍として、禰宜の辛島波豆米が
神に遣える女官として、そして担がれた神輿に多くの人が随行し隼人討伐に向かいます。
その軍勢の数は一万以上に上ったとも伝わります。

軍勢は日向を経て、大隅国に進軍し、そして神輿を見た神輿を見た隼人は、
大いに驚きこれを畏れた、と託宣集に伝わっています。

そして戦いが始まると隼人も頑強に抵抗し、戦いは1年以上に渡って続き
しかし最後には城に立てこもって抵抗する隼人に八幡様はその前で軍勢に人形の舞、
傀儡舞を執り行なわせ、それを見ようと城から出ておびき寄せられた隼人は不意を打たれて
壊滅的な打撃を受け破れ、捕獲、斬首された隼人は1400人を数えたと伝わります。

また一伝には、軍勢が八幡様の神輿を押し立て隼人の立てこもる城に攻め上ると、
海上からは竜の頭が出現し、地上を獅子や狛犬が駆け、空には鷁(げき・想像上の水鳥)が舞い、
二八部衆が細男という傀儡舞を舞い、それを見た隼人は城から出て降伏した…
という伝承も伝わっています。

この時に討たれた隼人の首が、百あまり宇佐の地に持ち帰られて晒されたと伝わります。
しかしその後疫病が流行し、これは隼人の祟りと見なされて、その祟りを鎮めるために
現在の宇佐神宮の西側にある古墳に祟りを鎮めるために埋葬され、そこは今では
凶首塚と呼ばれているそうです。

そしてその凶首塚のすぐそばに、元は主に古代の傀儡師や遊女の守り神、
恵比須神を祀っていた百太夫神社という神社だったとも言われますが、
討たれた隼人達の鎮魂をする百体社という神社があります。

この百体社のすぐそばに、化粧井戸と呼ばれる井戸がありますが、この井戸は
八幡宮の重要な神事、放生会が初めて行われた際に、古表神社、古要神社で
傀儡舞が奉納され、その舞いに使う傀儡をここで洗って清め、化粧を行った場所と
伝わっています。


・神仏習合と放生会

八幡様を祀る宇佐八幡宮や筥崎八幡宮では、毎年九月の中ごろに放生会という
神事が行われます。

放生会とは、巻貝や、鳥や魚を海や野に放つ行事で、元は
釈迦の前世である流水長者が水の枯渇した池で、死にかけていた魚たちを助け説法をして
逃がしたところ、魚は二十三天に転生し釈迦に感謝したという仏教の説話から来たものです。

仏教の伝わった中国では、中国天台宗の開祖智顗がこの故事に倣い、漁民が
雑魚を捨てている様子を見て憐れみ、私財を売っては魚を買い取って放生池に放した、
ということが仏教の寺院で行われる放生会の起源になっているそうです。

御託宣集には、「吾れ此の隼人等多く殺却する報いには、年別に二度放生会を奉仕せん」と
隼人の乱で多く隼人を殺めた報いに、放生会を開催して供養する、という託宣が載っています。

また725年に、託宣によって現在の宇佐神宮がある小倉山に
八幡様が遷座し、そこに一之殿が建立された際に、
「神吾未来の悪世の衆生を導かんが為に、薬師・弥勒二仏を以て、我が本尊と為す。
 里趣分・金剛般若・光明真言陀羅尼を念持する所なり」という託宣があり、
小倉山の東の日足の地に弥勒禅院、薬師勝恩寺が建立されています。(両寺院は737年、
託宣によって統合され弥勒寺として、八幡宮の西の現在地に移転)
こうした経緯もあり、宇佐八幡宮は神仏習合の先駆けとなりました。

その後さらに、八幡神と仏教の関わりとして有名なものでは、
743年に聖武天皇の発願によって建立が始まる東大寺の大仏建立があります。


・聖武天皇の大仏建立と八幡様

時は奈良時代、聖武天皇の治世、当時の都平城京では権力争いである長屋王の変や、
また日照りや台風が続き、それにより多くの死者が出た飢饉の発生、そして人口の
約3割が死亡したともされる天然痘の大流行と、それに巻き込まれ有力貴族の藤原四兄弟の死、
1万人の兵を率いた藤原広嗣の反乱、そして討たれた藤原広嗣の首が怨霊と化し
赤い鏡のようになって都の宙を舞い、それを見た人は恐怖のあまり死んでしまうなど
平城京には飢饉、争乱、疫病、怪異が続発し、国は疲弊していました。


その他にも734年と745年には大きな地震が発生し、特に745年の
天平地震では三日三晩揺れが続き、その後20日間に渡って余震が発生し
多くの建物が倒壊したという事が続日本紀に記されています。

そして、実際の正確な理由は不明なようですが、一説ではこうした様々な出来事を
怨霊によるものと捉え、短い期間に恭仁京、難波京、紫香楽京と次々と遷都が行われた事は
この時代でよく紹介される出来事の1つです。

そんな社会的動乱の中、仏法の鎮魂護国の力を信じ、天平15年、743年に
聖武天皇は東大寺の大仏として知られる盧舎那仏像の建立を発願したと伝わります。

そして全国から大仏建立のための資材が集められ、また僧である行基上人とその門下生、
また多くの宗派の僧が国々の町や寺を巡って大仏建立のための資材の寄進を募り、
これに応じて37万人ほどの人々が銅製の器や銅銭などの銅器具や米、牛馬を寄付したと
伝わっています。

そして現在の重量に換算して銅500トン、水銀2,5トン、材木や木炭1千トン、
そのほか鉄や鉛、錫など多大な量の資材が集められ、奈良の大仏の建立は順調に始まるかと思われました。


・託宣と金鉱の発見

しかし、ここで1つ問題が発生します。
表面のメッキに使う金の不足です。

当時の日本では金を産出する金鉱がほとんど見つかっていなく、国内での金の産出は
ほとんどありませんでした。
青銅製の大仏は金色の光を表現するため、または腐食防止のためにどうしても
多量の金が必要だったそうです。

天平15年の745年、東大寺大仏の建立は始まっていましたが、
その建立開始から6年たった天平21年になっても金の不足は解決するめどが立ちません。

当時多量の金を調達するには輸入に頼るほかなく、聖武天皇はこの不足の解消のため
唐に使いを出し、金の輸入の交渉を行うことに決め、その航海の安全祈願のために
宇佐八幡宮に使者を派遣しました。

八幡様と聖武天皇の関わりは深く、聖武天皇は都から宇佐で行われる放生会への出席や、
天平19年には宇佐八幡宮に使者を派遣し、大仏建立の大願を申し上げて祈願するなど
日頃から信奉していました。

この大仏建立の大願を祈願した際には、
「神吾、天神地祇を率しいざないて、成し奉って事立て有らず。銅の湯を
 水と成すがごとくならん。我が身を草木土に交へて、障へる事無く成さん」
と、大仏建立に協力するという託宣が下ったと伝わっています。

また東大寺記には、朝廷から派遣された勅使がこの時
「我国家を護る志は、鉾と盾の如し。早く国内の一切の神祇・冥衆を引率して、
 共に吾が君の知識とならん」という託宣の言葉が発せられるのを
まさに目の当たりにした、という話が載っています。

そして航海の安全のため、八幡宮に朝使を派遣し祈願を行ったところ、その時
「求むるところの黄金は、将に此の土より出づべし。使を大唐に遣す勿れ」
という託宣が下ります。

そして、それから数日のうちに、東北にある陸奥の国の小田郡から
陸奥守百済王敬福という人物が金鉱の発見を報告し朝廷に金を献上します。
この金の発見地は黄金山と呼ばれ、ここで発見された金はのちに
中尊寺金色堂にも使われたと言われています。

また大仏に使う金の発見の逸話としては、幼少の頃に黄金の鷹にさらわれたという逸話があり、
のちに東大寺の初代別当に任ぜられる良弁僧正が聖武天皇の依頼を受けて、
金の山と信じられていた金峯山で金発見の祈願をしたところ、夢の中に蔵王権現が現れて、
「金峯山の金は弥勒菩薩がこの世に現れた時に地を覆うために使うので大仏には使えない、
近江国の湖の南に観音菩薩が現れる場所があるのでそこで祈りなさい」とお告げがあり、
お告げの通り良弁僧正が石山の地を訪れてそこで祈りを捧げると、間もなくして
陸奥の国から金の発見の報告があった…というものも伝わっています。

この金鉱の発見をきっかけに、東北各地で金鉱の採掘が始められ、
大仏の建立に十分な九百両、440kgほどの金が採取されたと伝わっています。

聖武天皇はこの金の発見に感謝し、年号を天平宝字から天平感宝(同年に聖武天皇の
譲位により天平勝宝)とし、この発見された金の中から百二十両を宇佐八幡宮に献上したと
御託宣集は記しています。


・八幡様の御入京

東大寺大仏の建立は進み、やがて747年の天平十九年、ついに鋳造行程が完了し
鋳型が取り外され、仕上げ前の大仏様の本体が姿を現します。

そしてその二年後の天平勝宝元年、八幡様が九州から奈良の都、完成前の東大寺まで
神輿に担がれ行幸に訪れるという出来事が起こります。

その時の様子は、京から迎神使が派遣され、道すがらの国々にそれぞれ兵士百人を出して
前後の警護をし、また八幡様が通過する国々では殺生の禁止令が出され、従者の歓待には
酒や肉が用いられず、進路の道路は掃き清められて迎えられた…と伝わっています。

そして12月17日、大和国平群郡から入京した八幡様は、左京の梨原宮に造られた
新殿を神宮として住まい、僧四十人を招いて七日間の悔恨の儀式が行われました。

そして27日、八幡様の神輿が東大寺に入ります。
その時の様子は、紫の輿に乗った八幡様の禰宜尼の大神朝臣社女が東大寺を礼拝し、
考謙天皇・聖武太上天皇・光明皇太后も同じく参じ、多数の官人や諸氏の人々が
ことごとく東大寺に集まり、五千人の僧が招かれお経を上げて、唐や呉の音楽が奏でられ
様々な舞いが披露される大変華やかなものだったそうです。

そして聖武太政大臣による、八幡様への大仏建立への協力に対する
感謝の言葉が奏上され、宇佐神宮の女禰宜である大神社女に従四位下、主祭祀である
大神田麻呂に外従五位下の位が授けられ、その他にも
八幡様に一品、比女大神に二品の位を寄贈するという詔が発せられます。

それからも東大寺大仏の表面の仕上げ、金を蒸着する塗金という作業、
大仏殿の建造など作業は進められ、それらが一通り完了した752年の天平勝宝四年、
ついに大仏様の開眼供養が執り行われます。

・東大寺大仏開眼式典

この頃には塗金の作業も進み、木造のものでは東洋一とも言われる高さを誇る大仏殿も完成し、
それを見た人は「大仏は金山、大仏殿は妙高(仏教世界の中央にある高い山)のようだ」
と驚きを表しています。

大仏殿を囲むようにして灌頂幡という色とりどりの旗が風にはためき、
広場には華やかな法衣をまとった大勢の僧が集まり、読経が響く中一万人以上の参列者が集まり
聖武太上天皇、光明皇太后、考謙天皇を東大寺の初代別当に選任された
良弁僧正が先導し、沢山の花などを供えられた
大仏様の前に到着します。そしてインド出身の僧である菩提僧正が墨のついた大きな筆を取り、目を書き入れます。

また日本古来の舞、林邑国(インドシナ半島にあった国)の音楽、高句麗国の舞踊、
シルクロードを通じて西域から伝わったともされる伎楽が披露され、
大変華やかなものだったらしく、続日本紀にはその様子が
「仏教が日本に入ってきて以来、仏をまつる会は数多く行なわれてきたが
 この大仏開眼の儀式ほど盛大なものはかつてなかった」と伝わっています。

この時の開眼式典にも宇佐神宮より八幡様が招かれ、大仏建立の協力へのお礼として
封戸800戸・位田60町が贈呈されています。
そしてこの時、神明霊威によって内裏に天下太平という文字が浮かんだ…という事が
東大寺縁起に記されています。
この奇瑞により、年号が天平勝宝から天平宝字に改められたとも伝えられています。


東大寺の大仏建立は使われた銅が約500トン、高さは16メートル超で
最終的な仕上げまで27年、また建築に関わった延べ人数は200万人とも言われ、
古代の日本におけるピラミッドの建設にも例えられるような大事業でした。

発願者である聖武天皇は最終的な完成をみる前の天平勝宝八年(756年)に亡くなり、
その陵墓は東大寺のすぐ近くに作られ葬られたそうです。

東大寺の最終的な全容は、大仏殿のほかに壮大な南大門、中門、護堂が縦に並び、
僧房が設けられ、南大門と中門の間には高さが70mはあったという七重の塔が
建てられていたという壮麗なものでした。
また付随する建物として、当時のペルシャから伝わったガラスの盃や、
東南アジア産の香木などの宝物が収められている正倉院があります。

そして時代は飛んで1907年の明治40年、大仏殿の改修中に
大仏の膝元の地面から二振りの剣が見つかりました。

2010年、これを保存修理中にエックス線検査にかけたところ、
刀身にそれぞれ陽剣、陰剣と銘が入っている事がわかりました。

これは東大寺の正倉院に一旦収められ、その後持ち出されて千年以上
行方がわからなくなっていた聖武天皇の佩剣である陽宝剣、陰宝剣である事が判明しました。

これは聖武天皇の皇后である光明皇太后が、聖武天皇の愛した東大寺大仏の近くに
御霊が一緒にあるようにと願いを込めて、聖武天皇の死後に正倉院から二振りの佩剣を持ち出して、
大仏様の膝元に埋めたものと伝わっています…


・八幡様の出家譚

東大寺の大仏建立に当たって、金の発見や建立への協力の御託宣によって
神道の神である八幡様と仏教の関連は深まり、また国家事業であった大仏建立と
関わりを持ったことによって、仏教と神道の神仏習合は宇佐神宮だけに留まらず
国家の方策として推し進められる事になります。

そんな中、777年の宝亀8年、八幡様の
「明日辰時を以て、沙門と成って、三帰五戒を受くべし。自今以後は、
 殺生を禁断して、生を放つべし。但し国家の為に、巨害有るの徒出で来らん時は、
 此の限りに有るべからず。疑念無かるべし」
三帰五戒つまり仏法僧に帰依し、不殺・不盗・不妄語・不邪淫・不飲酒の
五戒を受け僧となるという託宣が発せられたという逸話があります。

この時に八幡様には、様々な伝説をもつ宇佐神宮の神宮寺である弥勒寺の初代別当・
法蓮聖人が授戒をし、剃髪をしたという伝説が残っています。
この伝説に基づいて八幡神を僧の形で表した僧形八幡神像が、9世紀ごろから
作られたりします。

また八幡様の出家がされた地は、御許山(馬城峯)から南に四・五町(約500m)ほど
離れた御出家峯と呼ばれる山であると伝わり、そこには出家の際の
霊鬘・玉冠・御髪剃り筥等が石と化して現在まで残っている…と
託宣集には伝わっています。

この時八幡様の剃髪を行った法蓮聖人は八幡様との縁が深い僧上で、
元々は彦山や六郷満山で修業した修験者的な僧だったと伝わっています。

法蓮聖人は医術・薬草の知識に長け、それを使って多くの人々を助け、
その噂は文武天皇の耳にまで達し大宝三年(703年)にはその徳が称えられて
豊前国の野四十町が与えられたと続日本紀にあります。

しかしもっと多くの人が安全に、豊かに過ごせることを願った法然聖人は
彦山の神、彦山権現が持つという、願いが叶うと伝わる如意宝珠を授かろうと
彦山の多聞窟という洞窟で十二年間、金剛般若経を一心に読誦しようと決心します。

そして多聞窟で修行を始めようとしたところ、翁へと姿を変えた八幡神が現れて
私を弟子にして下さい、そしてもし宝珠を手に入れられたらそれを下さい、
他には何も望みませんからと法蓮聖人に持ちかけます。

法蓮聖人は翁が神の化身である事を察していましたが、その願いを承諾し
一緒に修行を開始しました。

そして修行は進み、予定していた十二年にならないうちに、霊蛇が岩を突き破り
如意宝珠を持って現れます。
法蓮聖人はその宝珠を衣の裾を広げて押し頂き、それからこの多聞窟は
玉屋という名で呼ばれるようになったそうです。

法蓮聖人はこの宝珠を頂けたのは彦山権現の賜物と考え、神に感謝しようと
宇佐へと向かいました。

しかし、ふもとに降りてしばらく行くと、翁がひざまずいて宝珠を下さいと
法蓮聖人に願い出ます。

法蓮聖人はせっかく得た宝珠を翁に与えるのに惜しむ気持ちが生じ、
この願い出を断ります。
すると翁は怒って僧が約束を破るとは何事か、と罵ります。

法蓮聖人がそれでも宝珠を渡さずにいると、翁は態度を和らげ
実際に渡さなくても良いから宝珠をお前にやると言ってくれと頼みます。

法蓮聖人はそれを承諾し、翁に宝珠をやると言うと、法蓮聖人の懐から
宝珠がひとりでに飛び出し翁の手に移ります。

翁は願いが叶ったと宝珠を手に喜び勇んで走り去り、それを見た法蓮聖人は
たとえ神のする事であろうと玉を取り返そうと決心し、走り去る翁の前方に向かって
印を結んで法力で炎を出現させます。

炎は翁を逃げられないよう四方からとり囲んで燃え上がりました。
ところが翁は、空中に舞い上がって飛び去ります。

法蓮もまたそれを追い、宇佐の山国町の郷猪山という所に登って轟く大声で
翁の悪口を言いました。その声は、伊予国の石鎚山まで聞こえたと伝わります。

翁はさすがにこれには辟易し、金色の鷹に変じて黄犬を一匹連れ、
郷猪山まで引き返します。そして、私は八幡である、昔は三種の神器で
万民を安らかに暮らせるようにしたが、神となった今この玉で百王を護りたいので
許してもらいたい、この玉は宇佐宮に安置して地鎮とし、寺を建てて弥勒菩薩を祀り、
あなたを寺主にして恵みを広くいつまでももたらそうと伝えます。

それを聞いて法蓮聖人は納得し、八幡様と和解します。
その和解の時に傍らにあった大石は和与石と呼ばれ、現在でもその地に残っているそうです。

以上のエピソードが示すように、八幡様と仏教は深く関連し合っていて、
それが八幡大菩薩という名称の存在にも繋がっていると思えます。

そして託宣集には八幡様は自身のことを釈迦の法体であると
述べていた事が記されています。
また、母は阿弥陀如来が化身した女性で、弟は観音の化身した
俗体であると託宣で述べたという事が伝わっています。

実体は不明ですが、もしかしたら八幡様は
様々な側面を持つ神なのかも知れませんね…


・宇佐八幡宮神宣事件

東大寺大仏の開眼供養から20年ほど経ち、その間に八幡宮の女禰宜である大神社女と
大宮司の大神田麻呂が厭魅(呪詛)に関わったとしてそれぞれが解任され、
八幡宮の禰宜など祭祀主の一族が大神氏から辛島氏に代わるという事件を挟みながら、
神護景雲三年(769年)、大和の朝廷の方では一つの事件が持ち上がっていました。

当時、考謙上皇の病気を癒した事がきっかけになり、弓削道鏡という僧が上皇の寵愛を得て
朝廷内で権勢を持ちつつありました。

しかしその頃、朝廷は淳仁天皇の後ろ盾になって淳仁天皇を擁立し太政大臣の位を得た
藤原仲麻呂(藤原恵美押勝)が天皇を凌ぐほどの大きな力を持っていました。

道鏡が考謙上皇の寵を得て台頭してくるのに危惧を抱いた藤原仲麻呂は、淳仁天皇と共に
考謙上皇に道鏡を重用するのを考えなおすように進言します。

しかしそれがかえって裏目に出、その件で考嫌上皇はむしろ道鏡をさらに重用し
仲麻呂を遠ざけます。そして自分は出家して淳仁天皇とも距離を置き、政務は
上皇である自分が直接執り行う事を宣言します。

この動きに仲麻呂は自分の権勢の失墜を危惧し、淳仁天皇に自分を兵事使という
軍事担当の役職につける事を求め、軍事力によって政権を得ようと企みます。

当時は都に諸国の兵を集めて訓練を行うという規定がありましたが、
本来なら20名程度で行われるところを兵事使に就任した仲麻呂はこれに
600名の兵を集めるよう命じ、また以前から兵をいつでも動かせるよう準備をして
その圧力で朝廷を掌握しようとします。

しかし、仲麻呂のこの動きは反乱の意志ありとして、事前に考謙上皇に密告されます。
そこで考謙上皇は、使者をやって当時皇権の発令に必要だった御璽と駅鈴を
淳仁天皇から回収し、皇権が自分にある事を確定的に固めようとします。

しかし、これを察知した仲麻呂は使者の帰り道を襲わせ御璽と駅鈴を奪います。
考謙上皇はこれを知ると、将兵を派遣して御璽を奪った犯人を射殺させ、再び
御璽と駅鈴を奪還します。

考謙上皇は仲麻呂の動きを謀反とし、勅令を出して仲麻呂一族の冠位、藤原の氏姓のはく奪、
全財産の没収を命じます。
そして当時すでに70歳だった吉備真備を将とし仲麻呂の討伐を命じます。

仲麻呂は越前国に移り、自身の太政大臣の地位を利用して太政官印を押した
命令書を発給し、全国に号令をかけます。そして自陣の元皇族である氷上塩焼を
新たなる天皇、今帝であると称して天皇とします。

これに対し孝謙天皇は、太政官印のある文章は効力がない事を通達し、
仲麻呂を討伐する命を下し越後国に軍隊を派遣します。

攻め寄せる官軍に抗しきれず仲麻呂は一旦近江国まで退きますが、
そこにもさらに援軍を得た官軍が殺到します。
ついに仲麻呂は妻子と共に琵琶湖を船で渡って逃れようとしますが、捉えられて
妻子と、氷上塩焼ともども殺され、ここに藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)は終結します。

乱の後、仲麻呂側だった淳仁天皇はこの乱の責で天皇から親王に降格され、
淡路国へと配流されて淡路廃帝という名でのちの世に呼ばれる事となります。


・道鏡の台頭

仲麻呂の乱後、淡路国へ配流された淳仁天皇に代わって考謙上皇が重祚し天皇の位について、
考謙上皇は称徳天皇となり名実ともに政治の実権を握ります。

そして称徳天皇の寵を一身に受ける道鏡は、大臣禅師、そして僧侶でありながら
官僚の最高位である太政大臣の位を授けられ、太政大臣禅師へと出世します。
そしてその翌年には仏教界の最高位である法王の地位につき、強大な権勢を誇るようになります。

当時の朝廷では、正月の元旦に大極殿で臣下が天皇を拝し、祝賀の詞を奉じる
朝賀という式典がありましたが、神護景雲三年(769年)、臣下はこの行事で
法王道鏡を拝し…と続日本紀に記されているように、このころ道鏡は天皇と
同等の地位の扱いだった事が伺えます。

さらに奈良の都から難波への中間地点にある、道鏡の出身地である弓削の地を
行幸や交通の中継地として、西の京という名で大きな都市に作り替える計画も持ち上がります。

称徳天皇の周り及び政治の中枢は道鏡の一族で固められ、
道鏡の対立者だった藤原仲麻呂および淳仁天皇も失脚し、まさに道鏡は
向かう所敵なしの状況にありました。

称徳天皇がこれほどまでに道鏡を重用したのも、よく男女の関係にあったからとも言われますが
そうではなく、称徳天皇の父である、仏教を愛した聖武天皇の影響が大きかった可能性も考えられます。

亡き父の遺した仏教の僧によって病が癒やされ、称徳天皇はそこに仏教の神秘を実感し、
そして仏教によって亡き父である聖武天皇の遺志に触れたような気持ちになったのかも知れませんね…

そんな称徳天皇に取り立てられ、権勢の頂点にあった道鏡ですが、
運命を一転させる出来事が起こります。


・道鏡を天皇にせよという御神託

神護景雲三年(769年)、九州の大宰府で長官の大宰帥という地位にあった
道鏡の弟である弓削浄人と、大宰府の祭祀長である大宰主神の中臣習宜阿曾麻呂が上京し、
称徳天皇に道鏡を皇位に就ければ天下は太平になる、という宇佐八幡宮で御託宣があった
という事を伝えます。

これを聞いて驚いたのは家臣一同と、称徳天皇でした。
家臣が天皇の位に就くというのは、それまでに前例のない出来事だったのです。

称徳天皇は、いくら寵愛する道鏡でも道鏡は臣下であり、もし前例を破って臣下を
天皇の位につけたとしたら、今後家臣がその座を巡って絶え間ない争乱が続くように
なってしまわないか、また天皇の祖先は天からこの世に下った天孫と伝わり、
この国を治めるよう託されている天皇の位に家臣をつけたら、諸祖神の怒りにより
国を揺るがす天変地異が起こるのではないか…等々、自身が天皇の位にあるゆえに
様々な場合が胸中に想起されたのではないかと思います。

そしてその頃孝謙天皇は、ある日、こんな夢を見た事が日本後紀に記されています。
夢に宇佐八幡宮の使いが現れ、神託を伺うために法均尼(藤野清麻呂の姉)を派遣するよう
要請されます。しかし孝謙天皇は、法均尼は体が弱く、彼女を京から宇佐まで派遣するのは
過酷なこと、なので代わって弟の清麻呂を派遣すると答えます。

夢から覚めた称徳天皇は、早速清麻呂を呼び、夢の内容を伝えると
道鏡を天皇の位につけよという神託の真偽を確かめさせるために
清麻呂に宇佐八幡宮へ向かう事を命じます。

称徳天皇からの命を受け、宇佐に旅立とうとする清麻呂でしたが、
道鏡はその時清麻呂にある事を伝えます。

宇佐八幡宮の託宣は、この私を帝位につけよというものだろう。
その勤めを果たしてくれたならば、清麻呂には高官の地位を約束しよう、と。

これは、道鏡が自分の皇位着任に有利な事を言うように
清麻呂に言い含めたものと言われています。


・八幡宮での出来事

都から宇佐まで到着した清麻呂は、八幡宮に朝廷からの宝物など寄進し、
宮内に参上すると、女禰宜である辛島勝与曽売に託宣の真意を伺いに来た事を
宣命しようとします。

しかし、辛島勝与曽売の口を借り、八幡様は清麻呂の宣命は聞かないと
伝えます。

これを伝えられた清麻呂は気分を害し、
辛島勝与曽売に不信感を抱き、託宣とは全て偽り事ではないか、
女禰宜が自分で創り上げたものではないか…と疑いを持ちます。

辛島勝与曽売はこれに抗議し、八幡様に姿を現すよう願います。
するとたちまち満月のような光が和光宮内に満ち、身の丈が三丈(9メートル)ほどの
品位ある僧形の八幡様が姿を現したといいます。

これに大いに驚き、度を失い、狼狽しながら平伏する清麻呂に、
八幡様は清麻呂が心の内では託宣というものを信じていなかった事を諫め、
そして我は請願を発して三身の神体、すなわち法体と俗体と女体として顕し、
善悪の道を裁くなり…と伝え、今改めて清麻呂の宣命を受ける事を伝えます。

清麻呂が称徳天皇の見た夢によって、神託を伺いに来た事を告げると
八幡様は、我は意の汚れた者の寄進は受けないので持ってきた物は返却すべき事、
また称徳天皇の寿命を護るに、自らの手で衣を縫って奉納して欲しいという事、
また僧を常に身近に置くべきではない事などを伝えます。

そして皇位についてですが、
たとえ手に金の鏡を持ったように思える臣民でもこれを継がせてはならない、
この国の開闢より君臣の秩序は定まっている。無道の者は払い、
天の日嗣は必ず帝氏をつけよ…という託宣を下されます。

その他にも、吾を信じざる者の命には危機あり、己を知らず欲に迷い、
仏神を知らずに悪に走りがちな衆生は教言を信じ、旗を振って正道を崇めるべきなり。
但し心を入れ替え正道を崇めるならば、国家は安泰となり、寿命も八十年にもなるだろう…
と、この時様々な託宣があった事が八幡大神託宣奉記に記されています。

これらの託宣を受けた清麻呂は、それを書き止め、天皇に上奏するための
上奏文を二通作成します。
二通作成した理由は、ここで述べた事は西(大宰府)に知られてはならない、
という託宣によるものでした。

というのも、当時は八幡様の託宣と称して事実無根の神託を作り上げる
いわゆる偽神託がよくあったらしいのです。
なので、天皇への上奏文1通と、宇佐神宮に納める1通をそれぞれ作成し、
確実な証拠とした…という事のようです。

道鏡を皇位につけよという託宣は、大宰府の長官、道鏡の弟の
弓削浄人によってもたらされたものでした。
これは、やはり偽の託宣だった可能性が高いように思えます。


・清麻呂と法均尼の配流

都へ戻った清麻呂は、早速称徳天皇に八幡宮での託宣を伝え、
皇位には家臣ではなく、代々の天皇家の者をつけるように伝えられた事を告げます。

自分を皇位につけよという宣言を期待していた道鏡はこれを知り激怒し、
清麻呂は姉と共に偽りの託宣を作り上げ帝に伝えた、穢い事をする者は
帝のそばに置いておくわけにはいかない、よって清麻呂は穢麻呂と名前を変え
大隅国へ、姉の法均尼は広虫売(日本後記では狭虫)に名前を変え備後国へ
配流とする…と、清麻呂と姉の法均尼は名前を変えられた上に遠国へと配流されてしまいます。

清麻呂は足の腱を切られ、足が不自由な状態で配流先の大隅国へ向かいます。
そして途中、さらに道鏡が差し向けた刺客に襲われたと伝わります。
しかしその時にわかに空が暗く曇り、大きな雷鳴が轟き、また猪の群れが清麻呂を守り
襲ってきた刺客はこれに驚き逃げ去り、また大隅国に向かう途中で宇佐八幡宮に詣でたところ、
切られた足の腱が治ったという逸話が伝わっています。

清麻呂を遠国に送り、邪魔者が居なくなった道鏡は称徳天皇との結びつきを
強めていきます。

神護景雲四年(770年)、道鏡の故郷である弓削の近くにある、西の京として建造中の
由義宮に称徳天皇と銅鏡が視察に訪れます。
称徳天皇の滞在中は華やかな歌会が催され、またその地に建造された寺である由義寺の
建築に携わった人々には官位が授けられ、その滞在は39日に及んだと伝わります。

しかしその由義宮の視察後すぐ、称徳天皇は病に倒れます。


・道鏡の凋落

神護景雲四年(770年)3月、病に倒れた称徳天皇は、様々な看病の甲斐なく
その年の8月に亡くなってしまいます。

後ろ盾の称徳天皇が亡くなった道鏡は、以前より道鏡を快く思っていなかった
周囲の意思があったのか、同月の21日に京から遠く離れた
下野国の薬師寺別当に命ぜられて政権の中枢から去ります。
また道鏡の弟の浄人やその親類も、それに連座する形で土佐へと流されます。

称徳天皇の後継には、光仁天皇が立てられて、それまで大きな権勢を振るっていた
道鏡一族は政権から一掃され、弓削の地に西の京をつくる計画も白紙に戻されます。
称徳天皇の崩御と同時に、道鏡とそれに連なる僧を中心とした政治体制は一新され、
以前のように天皇を中心に据えた政治体制への回帰が行われます。

清麻呂と法均尼はその年の9月に京へと呼び戻され、法均尼はその後
桓武天皇の時代に信頼を置かれ従四位まで出世し、また戦災などで孤児になった子供を
自宅に引き取り手厚く保護をするなど、まつりごとと人道の両方に尽くした事が
伝わっています。

また同じく清麻呂も桓武天皇に重用されて、大阪での大がかりな治水工事の慣行や
また民部卿として民政に携わり、さらに長岡京から平安京への遷都を提案し、そして
都の造営大夫として平安京の建設役を務めるなど幅広い活躍をし、最終的には
従三位の公卿の地位にまで昇りつめます。

称徳天皇の、道鏡への寵愛から始まったとも言える事件の一連は、
関連する全ての物事に影響を与えつつ、最終的には平安京の建造へと繋がっていったと思うと
そこに、歴史のダイナミズムというものを感じざるを得ないように思えます。


・宇佐八幡宮神託事件の補足的な出来事

宇佐八幡宮神託事件には、それに付随して他にも様々な出来事があった事が
記録にあります。

例えば、清麻呂が京に呼び戻されてから3年後の宝亀四年(773)年、
清麻呂は宇佐八幡宮の禰宜・宮司から偽託宣や妖言が多く出ているとして
検察を願い出ます。

そして禰宜の辛島勝与曽女と、宮司の宇佐公池守が偽の託宣に関わっているとして
両者の解任、そして代わって大神少吉備・大神田麻呂らの着任を請求します。

なぜ、清麻呂は八幡様の託宣を直接経験しながらその時一緒に携わった
禰宜の辛島勝与曽女を信じられなくなったのでしょうか。

それはどうやら、宇佐八幡宮の禰宜、宮司の地位をめぐってこの頃
争いが起こったのではないかと思えるところがあります。

宇佐八幡宮は、この頃朝廷を動かす大きな力を持ったものでした。
なので、それを巡って背景で様々な動きがあったのではと考える事もできます。

清麻呂が宇佐宮の禰宜・宮司を、偽託宣に関わっているとして解任を求めたのも
当時権力の中枢にいた藤原氏のざん訴などによる働きかけがあったのではと
考える向きもあります。

伝承によると、773年に与曽売・池守の両者を断罪するために
宇佐神宮まで参った清麻呂は、そこで激しく両者を問い詰めます。
そして清麻呂は怒りを発しながら神宮を後にします。

その時、八幡様の「吾が禰宜は託宣を誤らずとも、清麻呂は怒って論争するのみ」
という託宣があったと伝わります。

その事を知らずに宇佐の地に宿泊していた清麻呂は、怒りのまま
与曽売・池守にどのように刑罰を科そうか思案します。
しかし、三思(じっくり考えて事に当たる)という訓に従い、
清麻呂は刑罰を加える事を思いとどまります。

そして、宇佐の地に宿すること八日目、その日夜の10時を過ぎたあたりに
突如宇佐神宮が雷光のごとく光を発し、また地響きが鳴り響き、
鏑矢の音が辺りに響いたといいます。

それから二日後、八幡様の託宣によって各地の郡司が集められ、
その中で辛島勝与曽女を通じた託宣が伝えられます。

その内容は、去年12月15日より24日までの10日間、
朝廷及び国家を救い奉るために仁王経を講読し、これにより
吾が光を四方に照らすという事を朝廷に申し給え、また
国内の百姓の困窮が甚だしいので、百姓のために税の免除を求むるという事。

また、朝廷に申し上げた事は誤らずに正しく伝えよ、貴聖の君を
命継ぎ奉らんと忍ぶれば必ず朝廷を助け給わん、
そして朝廷を護り奉るために僧正により最勝王経を講じさせ、また
貧しい人には施しをせよ…といったものです。

さらに、宇佐八幡宮の禰宜は辛島勝与曽女、大宮司は大神田麻呂、
小宮司は宇佐公池守とする事を望む、という託宣があり、これによって
宇佐八幡宮の禰宜・宮司解任問題は終結を迎えます。

そして、宇佐八幡宮の禰宜・宮司解任問題の解決からおよそ20日の後、
八幡宮の春大祭において、禰宜の辛島勝与曽女を通じて、神というものは、
人の祝い祭るにつれ神徳は増すものである。世は変われども、神は変らず。
これによって、神道に跡を垂れ給うて朝廷を守り奉る…という託宣があった事が
伝わっています。

八幡神はこのように、古代から朝廷とそして日本の歴史に
深く関わりのある神様だった事が古代の資料から読み取る事ができます。


・宇佐神宮神託事件のもう一つの観点

宇佐宮神託事件は、たまたま称徳天皇から寵を受ける立場になった道鏡が、
増長して不相応な欲望を抱き、自らの立場を利用してついに天皇の位を
狙うに至った事件…というのが、世間の一般的な印象だと思います。

しかし、様々な資料から、そもそも称徳天皇が最初から道鏡を
天皇の位につけるつもりだったのではないか、と思える記述が見つかります。

例えば称徳天皇は、恵美押勝の乱後、天皇としての地位が固まったときに
次期天皇の候補である皇太子を立てないという宣言を出しています。
そして、淳仁天皇の甥である和気王という皇族を謀反の疑いで処刑するなど
皇位継承に有力な立場にある皇族を排除しようとしていたとも見える行動があります。

そして宇佐八幡宮神託事件の中でよく語られる、天皇の位には
必ず皇族をつけるべしという託宣を聞いた道鏡が怒り狂い、清麻呂の名前を穢麻呂、
法均尼を狭虫と名前を変えさせて配流したという逸話は、続日本紀によれば
称徳天皇が発した詔による処罰であった事が記されています。

また称徳天皇は、人に処罰を加える際には対象者の名前を
卑しめたものに変えさせる事がよくあったとも言われています。
これらの事から考えると、皇位には皇族のものをつけよという託宣を聞いて激怒したのは
実際は道鏡ではなく、称徳天皇だった可能性が濃厚です。

宇佐八幡宮の神託は、その称徳天皇が道鏡を天皇位につけようと法王位の授与、
皇太子の排除などで準備を進めていたところ、それは神意に叶わない事だったので
それについて霊的な警告が発せられた事件というように思えます。

しかし、その警告は恐らく受け入れられなかったのでしょうか、またそのせいか
称徳天皇は託宣のあった翌年に病に伏せて亡くなってしまいます。

こういった状況から見ると、皇位を狙った悪人としてよく言われる道鏡は、
逆に称徳天皇の情念に流されるまま限度を超えて不相応な立場に追いやられていった
被害者だったとも取れます。

称徳天皇は亡くなり、それに連れて称徳天皇のもとで権勢を誇った道鏡も勢いを失い、
配流先の下野国で亡くなります。

いずれにせよ宇佐八幡宮神託事件は、無道の者は払い、
皇位には必ず帝氏をつけよという八幡様の託宣の通りの結末を迎え
終結する事となったのです…


・八幡様の正体の考察

これまで見てきたように、日本の信仰そして歴史に
大きな影響を与えてきた八幡様ですが、その正体は八幡宇佐宮御託宣集の製作者である
神吽も八幡様の正体は不明としています。

伝承、または託宣が伝える所によれば、八幡様は宇佐神宮の菱形池に顕れた時に
自らを誉田別尊(ほむたわけのみこと)、応神天皇と名乗っています。

応神天皇は、4世紀後半ごろに即位した第15代の天皇で、父親は仲哀天皇、母親は
様々な神秘的逸話をもち、半ば神格化された神功皇后です。

謎めいた八幡様の正体を探る上で、応神天皇を調べるのは有用な事のように思えます。
ここでは、応神天皇とはどのような天皇だったのかを
考察していきたいと思います。


・応神天皇とはどんな天皇だったのか?

応神天皇は、その誕生の時から不思議な逸話に彩られています。
日本書紀によると、父親である仲哀天皇がその后の神功皇后と共に九州に行幸した時のこと、
反乱を起こした熊襲を征伐しようと準備をしていた際に、神功皇后に神が宿り、討伐すべきは
熊襲ではなく、海を渡った先の新羅(朝鮮半島にあった国)であると神託がされます。

そしてこれを信じ、神をよく祀って新羅討伐へと向かうならば、金銀などの財宝が
豊かにある新羅は戦わずとも自然と降伏し、また熊襲も従うだろう、という事も
伝えられます。

しかし仲哀天皇はこれを信ぜず、高い丘に登って海を眺め、私が見たところ
向こうは海しかありません、国などどこにありましょうか。私を欺こうとする貴方は
どんな神でしょうか…と答えます。

これを聞いた神は怒りを発し、私が天から見ている国を無いと言い、私の言ったことを
そしるのか。私の言葉を信じないならば、汝はその国を得られないだろう。
しかし、いま皇后が懐胎した。その子はその国を得るだろう…と仲哀天皇に言います。

神功皇后がこの時に懐胎した子供が、のちの応神天皇となると日本書紀は記しています。
そして、この時に神功皇后を通じて託宣を発したのは住吉大神とされています。

この託宣のあった後、仲哀天皇はそれでも意を曲げず熊襲討伐へと向かいましたが、
勝利を得ることなく帰還します。そしてその後すぐ、病を得て亡くなります。
神の言う事を採用しなかったので、早々に亡くなってしまった…と日本書紀は記します。
また一伝によれば、熊襲討伐の際に矢に当たって亡くなったともあります。

そして仲哀天皇亡きあと、神功皇后は夫の仲哀天皇が神意に従わなかったために
亡くなってしまった事を心に痛め、罪過を祓い、自らが神意に従って
新羅に出征する事を誓います。

神功皇后は、新羅討伐の命を発した神を祀り、名を問うてそれが
天照大御神、稚日女尊、事代主神と、それから表筒男、中筒男、底筒男神の現在
住吉大神として祀られている三柱の神である事を知ります。

また古事記では、この時に臣下である武内宿禰が神託を受け、
この国は神功皇后のお腹に宿った子が治めるものであると宣されたという事が
記されています。

そしてその後神功皇后は熊襲討伐、神秘的な有羽人と伝わる羽白熊鷲の討伐、
九州山門郡に居を構えた土蜘蛛とされる田油津媛の討伐などで
国内の安定化を図ったのちに、兵を率いて新羅へと向けて出発する事になります。

出発に際し、神功皇后は髪を解いて海へと臨み、もし霊験が顕れるなら
髪は自然と二つに分かれるだろうと言い入ります。

宣言通り髪は二つに分かれ、神功皇后はそれを男性のように
男性の髪型である鬟(みずら)に結うと、軍を起こして人々を動かすのは
国の大事である。私は力弱き婦女であるが、暫くは男の装いをし、
力強く雄大に立とう…と宣言します。

そして大三輪社を立てて刀矛を奉り、なかなか集まりの悪かった兵軍を集めると
まずは斥候を出して西の海に国があるかを探らせます。
初めに出た斥候は、帰ってきて国は見えなかったと報告を出しますが、
二度目に出た草という名の斥候は西北に山があり、雲が帯状にかかっており
国があると見えますと報告します。

これを受けて神功皇后は卜占によって出発すべき日を占い、自ら
鉞(まさかり)を持って、軍に規律を守って行動し、財物や婦女を貪らず私掠に走る事なく、
敵を侮らず、怖気づかず、降伏する者の命は奪わず、敵に背を向けて逃げれば
罪となる事を告げて引き締めます。

この時、神功皇后は出産が近づいていましたが、出産を遅らせるという
月延石、または鎮懐石という石を帯に挟み、戦が終わる時期まで出産が延びるよう願います。

そして仲哀天皇9年10月3日、神功皇后を乗せ和珥津から出航した船は
風の神が大きな追い風を吹かし、海の神が波を挙げ、海にすむ魚も船が進むのを
助け、それらを受けて難なく新羅に到着します。

船が新羅に到達した際には、風に煽られた大波が船を乗せたまま国の中ほどまで到達し、
それを見た新羅に住む人々は神功皇后の乗った船に天地神全ての助けがある事を悟り、
新羅王はついに私の天運が尽き、国が海になってしまうのかと恐れおののいたと
日本書紀は記します。

そして倭の船が海に満ち、旗がのぼり、戦を告げる太鼓や笛の音が鳴り響くと
新羅王は尋常ではない兵が国を滅ぼしに来たと気を失わんばかりになります。

そして思い出したように、私は東に日本(やまと)という、聖王の天皇がいる
神の国があるというのを聞いた事がある、きっとこれはその国の神兵だ、兵を挙げて
防ぐことなどできようものか…と言い、即座に降伏します。

降伏した新羅王を誅殺しましょうと進言する部下に、神功皇后は
私は自ら降伏するものは殺すなと言った、そして神の言葉の通りに新羅は手に入った、
このように降伏したものを殺す理由がない…と、部下の進言を退けます。

同じころ新羅が倭に降伏した事を知った、同じ朝鮮半島にある高麗と百済の二つの国は
密かに倭の軍勢を伺います。しかしすぐに勝てない事を悟り新羅と同じように降伏します。

俗にいう神功皇后の三韓征伐、中国吉林省にある好太王碑には
倭が海を渡って百済、新羅を臣下となしてしまったとこの出来事が記してあり、
それは辛卯年(391年)の出来事であったと記されています。

金銀などの財宝を積んだ倭船は帰国し、そして神功皇后は帰国後の12月14日に筑紫で
応神天皇を出産し、その地は産みにかけて宇美と呼ばれ、現在の福岡県宇美町の
応神天皇が生まれた地と伝わるその場所には、現在では宇美八幡宮が建てられています。


・応神天皇の兄、香坂王と忍熊王

新羅征服を行った1年後、神功皇后は仲哀天皇の喪(もがり・喪に服すこと)を
行うために現在の山口県下関にあった穴門豊浦宮に移動します。

しかし神功皇后の留守中に、応神天皇の異母兄に当たる香坂王(かごさかのみこ)と
忍熊王(おしくまのみこ)は、今皇后に家臣たちはみな従っている、
皇后に新しく生まれた子は自分達を差し置いて天皇に立てられるだろう、
兄が弟に従う事など認められようか…と、神功皇后と応神天皇に対して兵を挙げる事を企てます。

香坂王と忍熊王は、難波の菟餓野という所で祈(うけい)狩りを行い、
野に設けた桟敷の上でもし企てが成功するなら、そのしるしとしてよい獣が獲れるだろうと
言います。

しかしそのとたんに赤い猪が現れ、桟敷を駆け上がり香坂王を食い殺してしまいます。
残された忍熊王はこれを不吉なしるしと見、ここに陣を張るわけには行かないと
軍を引いて住吉、それから宇治へと転じます。

一方、神功皇后は九州から船で難波へ戻る途中で香坂王と忍熊王が反乱を起こした事を
知り、また船が回って進まなくなるという出来事に見舞われながらも
天照大御神、稚日女尊、事代主尊、住吉三神を祀りながら難波へと帰港します。
そして紀伊に移って、臣下と話し合って忍熊王を討つことを決めます。

この頃に、二社の神主を一つの墓に葬るあづないと呼ばれる罪により
昼間であるのに暗くなる日々が続く常夜という異変が起き、神主をそれぞれ
別の墓に埋葬し直すと異変は収まったという事が日本書紀に記されています。

仲哀天皇即位10年3月5日、忍熊王討伐の命を受けた武内宿禰は、
現在の京都の宇治に軍を進めます。
川を挟んで向かい合う忍熊王と武内宿祢の両軍でしたが、ここで武内宿祢は
我はただ幼い王を抱いた君主に従っているだけだ、お互い戦い合わなくてはいけない
理由などあろうものか。願わくばお互い弓の弦を切って、武器を捨て
和睦をしようではないか…と持ち掛けます。
そして武内宿禰は自軍に命じ弓の弦を切らせ、腰に差していた刀を川へと投げ捨てさせます。

それを見た忍熊王は和睦の提案を受け入れ、兵に命じて同じように弓の弦を切らせ、
刀を川へと投げ捨てさせます。
しかし、その時武内宿祢は自軍に号令をかけ、それを受け兵は髪の中に隠していた替えの
弦を張り、予備の刀を装備します。武内宿禰が自軍の兵に命じて川に投げ捨てさせたのは、
本物に見せかけた木刀でした。

欺かれた事を知った忍熊王は、兵を率いて退却します。
しかし武内宿禰はこれを追い、逢坂、そして現在の滋賀県の栗栖で多くの兵を討ちます。
追いつめられた忍熊王は、敵の手にかかるよりは水鳥のカイツブリのように
水に潜ってしまおうぞ…と歌を詠み、滋賀県の瀬田川に入水して自ら命を断ちます。


香坂王と忍熊王という敵対する勢力の無くなった神功皇后は、諸所の群臣にかしずかれて
摂政として政治を執り行い、そして神功皇后摂政3年、応神天皇は皇太子として立てられます。


・応神天皇の治世

日本書紀では応神天皇の即位後しばらく、神功皇后が主導する形で新羅、百済、加羅など
朝鮮半島の国々との政治的なやり取りの記述が続きます。

応神天皇の治世である四世紀後半から五世紀前半ごろの倭は、神功皇后の三韓征伐によって
朝鮮半島の国々に支配的な力を行使し、倭から官使を派遣するなどして朝鮮半島の安定化に努め
奈良の石上神宮に奉納されている百済から献上されたと伝わる
七支刀に見られるように、五世紀前半ごろの倭の政治的な重点はおもに
朝鮮半島の国々の対応にあった事が見て取れます。

応神天皇は幼くして聡明で、ものごとを深く判断でき、立ち振る舞いに
聖のきざしがありました。

生まれた時に腕の肉が鞆(ほむた・弓を射る時に左腕につける腕輪のような防具)のように
盛り上がっていたので譽田(誉田・ほむた)天皇と呼ばれました。

またある言い伝えでは、応神天皇は元々來紗別尊(いさざわけのみこと)という名でしたが、
太子の時に北陸の敦賀に行き、譽田別神(笥飯大神)を参拝し、その神様と
名前を交換して、譽田別尊という名になったというものもあります。

応神天皇の治世は、朝鮮半島とそこを通って来訪する渡来人が伝える
中国からの文化や技術の国内への普及・定着が主な出来事として記紀に記されています。

例えば渡来人の王仁が伝えた千文字は日本の文字の元となったとされ、
同じく伝えられた論語は礼節や仁徳の元となった事が推定されます。

また馬が伝わったのもこの時期とされ、記紀には百済王から阿直伎という使者が
派遣され良馬2頭が献上されたとあります。

この他にも秦氏の祖とされ、養蚕や織物を伝えた弓月氏や
応神天皇の時代に来訪し東漢氏の祖となった阿知使主など、この時期には
多くの渡来人が倭にやってきて帰化し、秦氏や書首(ふみのおびと)、
阿直岐史など日本の氏族の祖となったという事が記紀に記されています。

記紀にはその他に、このころ神功皇后や応神天皇、臣下の武内宿禰などによって
詠まれた歌がいくつか収録されています。

その内容は少彦名命(すくなびこなのみこと)という神が醸した酒を
どうぞ召し上がって下さいといった宴の様子を歌ったものですとか、あるいは古事記に
応神天皇が近江に行幸した際、矢河枝比売という女性を見染めて歌われた恋愛の歌ですとか、
応神天皇の皇子の大鷦鷯尊(おおささぎのみこと・後の仁徳天皇)が髪長媛という
女性に歌った恋愛の歌、その他に応神天皇が望郷の念に駆られた兄姫という女性との
離別を哀しんで詠んだ

淡路島 いや二並び 小豆島 いや二並び 宜しき 島々
誰か た去れ放ちし 吉備なる妹を 相見つるもの

といった歌が記載されています。
これらの歌を見てみると、宴や恋愛などを歌った比較的穏やかな内容のものが
多くあります。応神天皇の治世の頃は、比較的落ち着いた穏やかな世の中だった事を
伺い知れるような気がします。

その他の逸話も、応神天皇が奈良の吉野宮に訪れた際に、地元の国人が
歌を歌ったあとに口を打って笑うという上古の風習で出迎えたあと、
応神天皇をわが父よと呼び土産として酒を献上した話や、ある時酒に酔った応神天皇が
外を出歩いて道端の石を打つと、その石が走って逃げてしまった…といった、
穏やかな内容のものが多く見られます。

その中で比較的大きな事件と言えるものは、軽く進む様から枯野(からの)と名づけられた
当時の朝廷の公用船が老朽化した際に、それを薪にして塩を精製し、全国に配布してその資金を元に
新しく船を五百隻建造したが、武庫水門という港にその船が集まっていた時に
新羅の使者の失火によって燃えてしまった…というものです。

しかし新羅王は、失われた船に代わって船造りの技術者を提供して過失を謝り、
またそのあとに枯野の燃え残りから琴が作られて、その音がよく響く様を聞いた応神天皇が

枯野を 塩に焼き 其が余り 琴に造り 掻き弾くや 
由良の門の 門中の海石に 触れ立つ なづの木の さやさや

という歌を詠んだ話が載っているなど、これもどことなく牧歌的な雰囲気の漂う
穏やかな逸話となっています。

このように、比較的穏やかな話が多い応神天皇の時代ですが、それもそのはず
応神天皇が即位後の治世の間には動乱の記録がほぼ見られず、目だったものといえば
即位の初めのころにあちこちの海人(あま)がさばめいて(大騒ぎで罵って)いう事を聞かず、
大濱宿禰という人物を派遣して平定した話や、神功皇后の平定した百済の王が
倭に臣下の礼をとらず、その事を問い詰めると百済の国は王を殺して謝ったという
出来事などがあります。

その数少ない動乱の中で最も大きいものは、神功皇后から引き続いて
応神天皇に仕えた忠臣である武内宿禰が、妬みを抱いた弟のざん言によって
謀反の疑いをかけられてしまうというものです。

刑に処そうと天皇の使者が朝廷から派遣されてきてこの事を知った武内宿禰は、
私に二つ心などあろうものか、忠の心を持って仕えてきたのに、何の災いか、
罪もないのに死ぬ事になろうか…と嘆きます。

しかし、壱岐直の祖と伝わる、真根子という武内宿禰に姿のよく似た部下が、
大臣(武内宿禰)に黒心(悪心)がない事は天下の知るところです、ここは密かに去って
朝廷に行き弁明をすべきです。また私は大臣に姿がよく似ていると言われます、
ならば今私が代わって死んで(時間稼ぎをして)、大臣の丹心(清心)を明らかにしましょう…
と言い残し、剣の上に自ら倒れ伏して命を断ちます。

武内宿禰はこの事に独り大いに嘆き悲しみ、そして進言通りに密かに逃れて
筑紫を出、船で応神天皇のいる紀伊の紀水門に向かいました。
そして何とか天皇と相対する機会を捉え、すぐに罪のない事を弁明しました。

天皇はそれを受けて武内宿禰の弟の甘美内宿禰(うましうちのすくね)を問い正し、
真偽を明らかにするよう言い渡しましたが、甘美内宿禰もこれに抗弁をして
なかなか事の是非は明らかになりません。

そこで応神天皇は神祇に頼み、探湯(盟神探湯・くがたち)で
真偽を明らかにするよう命じました。

武内宿禰と甘美内宿禰の二人は、磯城川という川のほとりで盟神探湯に臨みます。
その結果武内宿禰が勝ち、武内宿禰は刀を取り甘美内宿禰を打ち殺そうとしますが、
しかし応神天皇はそれを止めて許しを与え、代わりに甘美内宿禰を
紀直(きのあたい)氏の祖などに隷民として与えた、と日本書紀に記されています。

以上が応神天皇の治世の中で、最も動乱らしい動乱の記録になりますが
これが2つの陣営に分かれて大きな戦いへと発展するという事もなく、争いの決着は
神明裁判であるクガタチによって決せられたというのは、非常に平和的な
解決だと思います。

このように応神天皇の時代は、このあたりの古代史には付き物とも言える
戦争の記録というものが不思議と見当たらず、これは隼人や東国の蝦夷との関係、また
百済や新羅、高句麗との国際関係が共に安定していた結果と言ってしまえばそれまでですが、
それとも、記録上にはない応神天皇の温情的な振る舞いが所々にあったためか、
または記録にはない何らかの出来事がもしかしてあった結果なのかもしれません。

記紀が記す応神天皇の治世は、独占的で大きな力のあった古代の王の記録によくあるような
権力を巡っての周囲の親族や人との争いや軋轢の記述がなく、応神天皇は人と角を立てない徳や
何かコツのようなものを会得していたのかも知れません。

他人と角を立てないというのは実は案外難しく、相手が何を望み、どういう事が適しているか、
現実に何ができるか…等を正しく認識していないと中々上手くは行かないはずです。

応神天皇は、周囲の人々のみならず東国の蝦夷や隼人、果ては外国の百済や新羅、高句麗の
人々にまで角を立てる事なく接し、その結果、穏やかな治世が実現した…という事のように
思えます。

もしそうであるならば、これは聖徳太子の憲法17条の第1条、和をもって貴しとなし…
のその通りの実現のようにも見えてきます。

しかし、やはりいくら人間関係に気をつけていても、時に波乱が起こるのはこれは
避けられない必定のようなもので、それが時としては自分の責任によらないで起こる場合も
あったりします。
応神天皇も、武内宿禰を妬んだ弟によるざん訴事件が発生し、場合によっては
武内宿禰は無実の罪で刑に処されてしまっていたかも知れません。

こういった事が起こった場合には、応神天皇は毅然とした対応を徹底し、
確実に真偽をはっきりとさせた上で裁定を下しています。

憲法17条には、功績や過失は確実に明らかにし、賞罰は正しくせよ…という
条項があります。またその他にも、憲法17条には憤りを捨てて人とは接しなさいなど
対人関係を円滑にするための心得に関する条項がいくつかあったりもします。

こうして見ると、人と角を立てず、円滑な治世を行うコツというのは
憲法17条にそのヒントが見られるようにも思えます。


以上に見てきたように、応神天皇の治世は動乱の少ない、戦乱の多い古代の中では
比較的大らかな世の中だった事が記紀の記録から伺えます。

これは応神天皇が、大らかに国を想う性格だったためでしょうか。
それを示すような、応神天皇が近江の菟道野(京都府宇治市)を訪れ、その地を
上から眺めて詠んだとされる次のような句が残されています。


千葉の葛野を見れば 百千足る 家庭(やにわ)も見ゆ 国の秀も見ゆ


晩年、応神天皇は大山守命と大鷦鷯尊(のちの仁徳天皇)の二人の皇子を呼び出し、
二人にこう問います。
長(ひととなれる=成人)と小(わかき=年少)の子供の、どちらが愛おしいか、と。

大山守命は長子ですと答えましたが、それを聞いて
応神天皇はあまりいい顔をしませんでした。応神天皇は皇位を譲るに
皇子の中の年少者、菟道稚郎子を考えていたのです。

それを察した大鷦鷯尊は、年長者はすでに成長していて心配ありませんが、
年少の者は未熟で手がかかり、それゆえにかえって愛おしいものですと
答えます。

応神天皇は大鷦鷯尊の答えを、我が心に適っていると喜んで、その通りに
菟道稚郎子を皇位の継承者に指名します。

その翌年、応神天皇はまるでなすべき事を終えたかのように
崩御します。
そして、まるでそれに呼応するかのように大山守命が菟道稚郎子の帝位を不服とし、
その両者間で争いが勃発するのです…

この争いは、反乱を起こした大山守命が兵を率い、船で河を渡ろうとしたところに
変装して渡し守の中に混じっていた菟道稚郎子が、船が河の中ほどまで進んだところで
船頭に命じて船をひっくり返させ、河に投げ出された大山守命は溺れ死んでしまった…
という形で決着がつきます。

大山守命の反乱は、菟道稚郎子の勝利で終結しますが、以前から菟道稚郎子は
自分には帝の位には相応しくなく、位を譲られたのはただ応神天皇が自分を
可愛がっていたからに過ぎない。兄の大鷦鷯尊こそその仁孝(儒教の、人への愛と親への忠孝)
は遠くにまで聞こえ、まさに天下の君主になるのに相応しい人です。どうか、私に代わって
天皇に即位して下さい…と、天皇の位を兄の大鷦鷯尊に譲ろうとしていました。

大鷦鷯尊は、先帝が決めた事を弟のあなたが覆すことができようかと言って
これを断りますが、菟道稚郎子も譲らず、お互いに皇位を譲りあった結果
3年の間皇位は空白だったと言います。その間、海人は天皇に献上する鮮魚などの贈り物を
どちらに届けたものかわからず、結果腐ってしまった贈り物を海人は泣く泣く捨て、それが
海人のように自分の物が原因になって泣く…ということわざになったという話が
伝わっています。

しかしある日、菟道稚郎子は兄の志を奪ってどうしてこれ以上天下を煩わせられようか…
と言い、皇位を兄に譲るために自死してしまいます。

このことを知った大鷦鷯尊は難波から菟道稚郎子の宮である宇治の
菟道宮に駆け付けますが、その時菟道稚郎子はすでに死後三日経っていました。
大鷦鷯尊の、胸の引き裂かれたような嘆きはどうしようもないほどで、
大鷦鷯尊は髪をふり乱し、遺体にとりすがって我が弟よと三度大声で叫びます。

するとたちまち菟道稚郎子は息を吹き返し、自ら起き上がります。
大鷦鷯尊は、菟道稚郎子に自ら死を選ぶとはどういうわけか、先帝がこの事を知ったら
これをどう思うだろうか…と諭します。

しかし菟道稚郎子は、これは天命です、誰が止められるでしょう、
もし先帝の元に参じたならば兄は聖帝なので譲ったのだと申しましょう…と言い、
そして同母妹の面倒を見てくれるように頼むと、菟道稚郎子は再び棺に横たわって
息を引き取ります。

大鷦鷯尊はひとしきり泣き、菟道稚郎子を宇治の山の上に葬ると
都を難波に移し、仁徳天皇として即位します。


仁徳天皇は、菟道稚郎子が告げたとおりに
多くの人に慕われる、徳ある治世者となります。

即位してから4年のこと、仁徳天皇は高台に登って辺りを見渡した時に、
食事の支度をするかまどの煙がほとんど立ち上っていない様を見て不作による人々の
困窮の様子を察し、それから三年の間人々から税を取らず、自身も簡素な服装にして
それがほつれるまで交換せず、また居城の宮垣や屋根が荒れて隙間から雨漏りがし
衣服を濡らして星の光が床を照らしても修理をせずに民衆のために節約をします。

そして三年後、再び高台に登った時に穀物が豊かに実り、かまどから
多くの煙が立ち上っているのを見て、居城の宮垣や屋根は破れ衣服は露で
濡れているにも関わらず、仁徳天皇は我は豊かになったと言います。

何故ですかと尋ねる臣下に、仁徳天皇は、国にかまどの煙が満ちている。
およそ君主が立つのは百姓のためで、古の聖王は民衆の一人でも飢え凍えるときは
自らを省み己を責めたという。百姓が貧しければ我は貧しく、百姓が豊かであれば
我も豊かである。百姓が豊かで君主が貧しいということは、いまだかつてない事である…
と臣下に諭したという、仁徳天皇の仁愛に満ちた逸話が日本書紀にはあります。

そして人々の暮らしが十分豊かになった後、宮を新たに作ろうとした際には
多くの人が自らこぞって参加し、日夜競うようにして働いて、宮はあっという間に完成し
そして仁徳天皇はのちの世に聖帝と称されるようになった…と、日本書紀は記します。

多くの人に慕われ、国内最大の前方後円墳である仁徳天皇陵が
陵墓と伝わる仁徳天皇は、他にも興味深い逸話が数多くありますが、ここはひとまず割愛して
応神天皇の話に戻りたいと思います。


・応神天皇-八幡神とは

まず、古事記・日本書紀にある応神天皇の生涯は、
聖書の内容に所々関連が見られます。

神託によって神功皇后に子が宿るというのは、イエスキリストは
聖霊によって聖母マリアに宿り…という、新約聖書の箇所に該当します。

また、応神天皇の時代に千文字、つまり文字が初めて伝わったという逸話も、
聖ヨハネの福音書の冒頭、始めに言葉があった…という部分に関連を
見出す事ができます。

聖霊による宿りというのは、実際に存在する出来事であることが
聖書の記述、そして神様は実在の存在である事からも明らかです。

さらに、応神天皇の即位前に、それを妬んだ異母兄による反乱は
旧約聖書にあるカインとアベルの兄弟による争いの話、
またはエサウとヤコブの長子権争いの逸話を思い起こさせます。

また老朽化した公用船の枯野(からの)を薪にして塩を作り、それを元手に作られた
500艘の船が武庫水門に集まっていた時に、失火によって焼失してしまった…
という逸話は、旧約聖書にある預言者エリヤと450人のバアルの司祭が祈りによる
対決をし、バアルの司祭がいくら祈っても何も起きなかったのに対し、
エリヤが祈ると主の火が降ってきて捧げものを乗せた薪と石とちりと、溝に溜まった
水までもが焼き尽くされた…というエピソードがどことなく連想されます。

また、日本書紀にある応神天皇と仁徳天皇の逸話は
実はよく似たものが多い事が知られています。これは同じ逸話を共用して書いて
あるのではとか、仁徳天皇の逸話は実は全て応神天皇の逸話だったのではないかと
言われたりもしますが、聖書のヨハネ福音書には、子は父のなさることを
見てする以外に、自分からは何事もすることができない…という一文があり、
もしかして仁徳天皇はこれを実際に体現するかのように意識してか、それとも無意識的にか
応神天皇の逸話をなぞらえていたのかも知れません。

またその他に、仁徳天皇が即位する前にお互いに皇位を譲りあった
菟道稚郎子が、皇位を譲るために自死し仁徳天皇が駆けつけた際に、
死後3日経っているにも関わらず復活した…というのは、もちろんイエスキリストの
十字架の死からの復活が連想されます。

このように、日本書紀の応神天皇と仁徳天皇の逸話は、聖徳太子の箇所もそうですが
ところどころ聖書に関連が見出され、応神天皇とされる八幡様は
聖書のほうに記されている神または神霊的存在である可能性が強い事がわかります。

また応神天皇の誕生前に、神功皇后が応神天皇の宿りを告げ新羅討伐の託宣を下した
神の名を問うと、天照大御神、稚日女尊、事代主神、表筒男、中筒男、底筒男神で
あるという返答がありました。これが事実であるならば、ここに名の上がった神様は
ただ神話上の存在というのではなく、実態を伴う存在である可能性があります。

また応神天皇は池を作るのが好きだったようで、
高麗、百済、任那、新羅から朝廷に人がやってきた際には武内宿禰に命じて
それら韓人を率いて韓人池を作らせています。
その他にも剣池、軽池、鹿垣池、厩坂池という池を作ったことが
日本書紀に記録されています。

池と言えば、八幡様は三角池という池に出現されたという伝承があります。
聖書にも、荒野で乾く人の前で、神の力により岩から水が流れ…といった箇所があります。
こういった事例を見ると、八幡様と聖書はお互いに関連がある事が示されているようにも
えます。

また、たまたまなんですが今日(2月11日)は建国記念日になっています。
この日は、キリスト教ではルルドの泉で有名なフランスのルルドに
聖母マリアが現れた記念日ともなっています。この偶然の符号は、何らかの
隠された意味があるのかも知れません。

話を戻しますと、八幡神は託宣をよくする神様として知られていますが
託宣というのは人に言葉を託す、つまり聖書で言うところの預言に該当するものと
捉える事ができると思います。

さらに、八幡様は軍神としても知られています。
源平の合戦の源義経などで有名な清和源氏は八幡様への信仰が厚く、
京都の石清水八幡宮で元服を行ったり、土地を寄進し
武運長久の氏神として八幡様を祀っていた事は有名です。

人に言葉を託すこと、すなわち預言を行い、そして軍神、戦の神でもある神様は
これは旧約聖書に記されている神、預言を行いイザヤ書などで万軍の主とも記される
創造主ヤハウェに非常に共通点があるのではないか…という事が言えるのではないかと
思います。


・八幡様と旧約聖書の神ヤハウェ

旧約聖書に書かれている全ての創造主ヤハウェは、八幡宇佐宮御託宣集などに書かれている
八幡神と、所々共通する部分がある事がわかります。

例えば旧約聖書の出エジプト記には、神を祀る祭壇を作る際にはノミを当てて削った
切り石ではなく、天然の状態の自然石で作りなさいといった記述や、また創世記には
アブラハムの孫ヤコブが野で一泊した際に、天使の昇り降りする天国のはしごの夢を見、
目が覚めてその地が神の力の働く所である事を知り、枕としていた自然石を立てて
これに油を注ぎ神の家とした…といった記述があります。

御託宣集に記される八幡様も、宇佐の御元山に出現された際には社殿奥の、
今は禁足地になっている宗像三女神が祀られていた三つの自然立石の上に現れたという
言い伝えが残されています。

日本では磐座(いわくら)信仰といって、大きな自然石に神様の現れた伝承が添えられて
神様の現れた場所として信仰する風習があります。これはよく自然信仰の一種といったふうに
捉えられがちですが、意外なことに旧約聖書にその根拠が見られるものであるという事が
言えると思います。

またその他の共通点としまして、八幡様は古い時代には矢幡とも書き
やはたという呼び方をされていました。
こういう所にも、八幡様と旧約聖書の神との関連性が隠れているような気がします。

また福岡市箱崎にある、三大八幡宮の一つと言われる
筥崎八幡宮にも旧約聖書との関連を思わせるような逸話が伝わっています。

筥崎宮は、神功皇后が三韓征伐から帰国し、北九州の宇美の里で
応神天皇を御出産した際に、その御胞衣(胎盤とへその緒)を筥(箱の旧字)に
納め、大晦日の夜に夜を徹して葦津ヶ浦に埋め、そのしるしに一本の松を植えた場所という
伝承のある地に建てられている神社です。

その松は筥松と名付けられ、筥松のある岬という事で筥崎という地名が起こった
という謂れがあります。
また地図などで表記する時は、神社に使われる筥崎宮の筥の字を畏れ、箱崎という
表記に変えて使われるそうです。

そして御託宣集には延長元年(923年)に、吾昔博多郡の松原に、
戒定恵(悪を行わない戒、心を静める定、真理を悟る恵。仏教修行の三つの心得)
の筥を埋め置く…といった託宣が発せられた事が記されています。

戒律の箱…というと、旧約聖書にある、十戒を刻んだ石板が納められた
契約の箱アークが何となく連想されます。


・契約の箱アークと日本の神事・神話の関連性

旧約聖書に出てくる契約の箱アークとは、神様が預言者モーゼに与えた
十戒を刻んだ石板、モーゼと共に神に仕えた司祭アロンの杖、
荒野に天から降ってイスラエルの民を養ったというマナの入った壺が納められた
神との契約を象徴する、神の宿る箱と伝わるものです。
契約の箱アークはアカシアの木で作られ、金で覆われ、移動の時は選ばれた
レビ族が、鐘や太鼓をにぎにぎしく打ち鳴らして持ち運びました。

契約の箱は直接触れる事のないよう、箱の横にある輪に木の棒を通して持ち運ばれました。
しかしある時、契約の箱を持ち運んでいた際に箱が傾いたのを支えようとした
ウザという人物が、箱に直接触れてしまったために神に打たれて死んでしまった
という伝承も伝わっています。

神輿の下りでも触れましたが、お神輿も契約の箱と同じように
担ぎ棒を用いて担ぎ、笛や太鼓のお囃子と掛け声と共に運ばれます。
単なる偶然とは思えない共通性を、自分はここに感じるのです。

旧約聖書によれば、契約の箱アークは紀元前600年ごろにイスラエルが
バビロンのネブカドネザル王に占拠された際に、エルサレムのソロモン神殿は徹底的に
破壊され、そこに納められていた契約の箱アークはその際に失われてしまった可能性が
高いようです。

一方で旧約聖書の外典には、その当時活躍したネヘミヤという預言者が
神の啓示を受けてネボ山という山の洞窟に契約の箱を隠した…という話も伝わっています。
また、エチオピアのアクスムという所にある教会に現在祀られているといった説もあります。

今でも時折探索もされているようですが、いずれにせよ契約の箱アークは
紀元前600年ごろのエルサレム占拠の際に行方がわからなくなった事は確かなようです。

キリスト教では、聖体(聖体拝領やミサに使う丸くて薄いパン。ホスチア)を
保管する箱を現在聖櫃と呼んでいます。
聖櫃とは、旧ユダヤ教では契約の箱アークのことを指しました。

しかし当時のユダヤの人々の神への反逆の結果、ユダヤの人々を守護するという
神との契約は反故になり、そのしるしとして契約の箱アークは歴史から姿を消し、
代わってイエスキリストへの信仰、そして聖体が新たな神との契約となり、それが
納められる箱が新たな聖櫃、契約の箱となった…といったような理解がされています。


そうなると、筥崎宮の応神天皇の胞衣が納められたという筥も
同じように契約のしるしの箱と見る事ができるのかも知れません。

そして、託宣によってその箱は仏教の心得の、戒定恵の筥であると宣されています。
これは旧ユダヤ教、そして現在のキリスト教と同じような神との契約関係が
仏教にも働いている…という風に考える事が出来るのではないかと思います。


・天皇の祖、応神天皇

天皇の系統は、男系が途絶した仁徳天皇系に代わって継体天皇系が跡を継いだり、
天智系・天武系や南北朝時代の大覚寺統・持明院統など、のちの世で
様々な系統に分かれたりもしますが、天皇の系図を遡っていくと実はそれらはみな
応神天皇に行きつく事が知られています。

現在まで続く天皇の系統は、応神天皇から始まっているとも言えます。
なので、応神天皇は皇祖神としても祀られています。

そして筥崎宮の筥は、中に納められたと伝わっているのは
神功皇后が応神天皇を出産した際の胞衣(胎盤とへその緒)です。

これは、神霊によって神功皇后に宿り、この世に現れた応神天皇を祖とする
天皇そのものが、今も続く神との契約の証という事になるのかも知れません。

神道の象徴とも言える天皇の祖である、応神天皇の胞衣が納められて
八幡神によって仏教の心得である戒定恵の筥と託宣のされた筥崎宮の筥は、
八幡様から創始される神仏習合の、まさにそのものを表しているのかも知れませんね。


・日本の風土に根付く、不思議な関連

いつからあるかは不明ですが、我々に身近な習慣として
子供の生まれた時にへその緒を取っておくというものがあります。

不思議なことに、これは海外には見られない習慣で
日本にだけ見られるものだそうです。

これはもしかして、応神天皇が生まれた時の胞衣を筥に入れて納めたという
筥崎宮に伝わる伝承がその始まりなのかも知れません。

これは代々の習慣が受け継がれ続けて現在まで伝わったものか、
あるいは、そこに世の法則や理屈を超越した
神意、霊威と言われるものが働いている…と、言えるのではないかと思います。


皆さんは、寺社仏閣の屋根をよく見てみた事があるでしょうか。
そこには、金色の独特な形をした飾りがついているのを見た事があると思います。

寺社仏閣の屋根の端についているあの飾りは鴟尾(しび)と言い、元は中国で
始まった火除けの意味を持つ飾りとされています。

鴟尾(しび)の形は非常に独特で、たてがみの生えた馬、または魚、
あるいは羽の生えた何らかの生き物のように見えたりします。
古い時代には沓(靴)の形に例えられ、沓形とも呼ばれていました。

そしてエルサレムの神殿に安置されていた契約の箱アークにも、
蓋の上に飾りが据え付けられていたという事が旧約聖書に記されています。

契約の箱アークの蓋に据え付けられていた飾りはケルビムといって、
身を屈めて背中の羽を前方に伸ばし、契約の箱を礼拝するような姿の2体の天使の像でした。

契約の箱の想像復元を見たことがあるのですが、このケルビムは不思議なことに
寺社仏閣の屋根に飾られている鴟尾に形が非常によく似ています。
これは、寺社仏閣は契約の箱と同種の性質を持っている、すなわち
旧約聖書の世界と日本の信仰には霊的な関連性がある事を示すものなのでしょうか…


・日ユ同祖論について

巷間には、日本の文化の中にはユダヤ教の影響がある、日本の先祖は
紀元前722年にイスラエルがアッシリアに攻め込まれ滅んだ際(アッシリア捕囚)、
イスラエルから渡ってきた、失われたユダヤ10支族の内の一氏族である…
といった、いわゆる日ユ同祖論が存在します。

確かに、神輿が担がれる様子などは旧約聖書に書いてある契約の箱アークが
持ち運びされる様子とそっくりだったり、その他にも日本語の中にはヘブライ語として
読める単語がある…と、いった説などが存在しています。

しかし、これまで調べてきたように、確かに旧約聖書そして新約聖書の記述と
日本の信仰には関連性が見出されます。

しかしそれは、ユダヤ人によって文化が直接運ばれてきた…と、言うよりも
物理を超越した、超自然的な、霊的な運ばれ方がなされたのではないかと
見ることが出来ます。

日本人とユダヤ人の遺伝子を比較してみると、日本人の遺伝子グループは
チベット人に最も近く、どうやら東南アジア、それから中国南部一帯にいた
グループが日本に渡ってきて日本人を形成したのではないかと考えられているようです。

一方のユダヤ人は、やはり中近東がもっとも多く、それから地中海周辺に
共通する遺伝子グループが見られるようです。
遺伝子から見ると、日本人とユダヤ人が同じ民族である可能性は低いと言えます。

また一方では、アフガニスタン、エチオピア、中国の開封などにはユダヤ人が移住し、
ユダヤ人のコミュニティーが形成されていた痕跡がはっきり残っているそうです。

そのユダヤ人コミュニティーではシナゴーグがあったり、先祖はイスラエルから
渡ってきたと口伝が残っていたり、文化習俗にユダヤ人との共通性が
しっかりと確認されるそうです。

日本ではそこまで明確にユダヤコミュニティーが形成されていた形跡は
発見されていなく、やはり日本にユダヤ人がまとまって移住してきたというのは
想像の域を出ないのではないかと思います。

古い時代に、散発的な来訪はあったかも知れませんが、
それは今残ってる記録からでは伺い知ることが不可能な出来事なのかも知れませんね…


・不可思議な神様

今まで見てきたように、八幡様は色んな面を持つ、とても不可解な神様です。
八幡宇佐宮御託宣集の作者である神吽も、その著書の中で易経の言葉を引用して
陰陽不測謂之神、陰陽つまりこの世の法則では計り知れない、
それが神であると表現しています。

その通りに、八幡神は託宣集の中で八つの面を持つ翁、黄金の鷹、僧正、
童子、その他様々な姿で顕れた事が記されています。

またその正体は釈迦如来の変身で、自在王菩薩であると託宣で述べられています。
また母親は阿弥陀如来、弟は観音菩薩の変身である…と語られた事も記載があります。

また八幡様が神憑りによって、神功皇后に応神天皇として宿った際にそれに
関わった神様として、天照大御神や事大主神の他に、
底筒之男神、中筒之男神、上筒之男神の住吉三神の名が出てきます。

住吉三神とは、伊弉諾尊が妻の伊邪那美尊を連れ戻そうと黄泉に下り、
それから地上に帰還した際に黄泉の穢れを洗い流すために河でみそぎをし、
その時に河の底、中ほど、上側からそれぞれ生まれた神様とされています。

旧約聖書のダニエル書には、預言者ダニエルが亜麻布の衣を着、
金の帯をしめ、緑柱石のような体で、その顔は雷光のようで、腕と足は
磨いた青銅のように輝き…といった姿をした天の御使いがチグリスという
川の上にいるのを見たという記述があります。

さらにその御使いはほかに二人が、川の手前の岸、そして向こう岸に立っていた…
といった事が書かれています。
この天の御使いは、もしかしたら住吉三神と何か関連があるのかも知れません。

このように旧約聖書の記述とも関連が見出され、託宣をしたり軍神の性格を持つなど
旧約聖書に記述される全能の神との共通性が見られる八幡様ですが、中には
旧約聖書にある全能の神とは異なっている所も見られます。

旧約聖書の記す創造主である全能の神とは、唯一の存在で、いと高き所に住まい、
その姿を見た者は誰もなく、人の手で造った宮には住まない…といった事が
記されています。

一方で八幡様は、母親と弟の存在が語られ、八面の翁や黄金の鷹、僧正など様々な
姿で顕れ、また何度か託宣をして宮を移り住んだ事が託宣集に記されています。
これは、旧約聖書の記す神とは異なっている描写です。

八幡様は強力な神様で、日本または新羅などの海外の国でも
一国の運命に影響を与える事など容易に可能なように見えます。

また有名な元寇でも、我々は一般的には鎌倉武士団の活躍によって
元軍は撃退された…という風に認識していますが、実は八幡神の様々な功徳を記した
八幡愚童訓という書には違った側面が描かれています。

それによると、上陸した元軍に攻められ日本軍は博多、それから筥崎まで
退却しますが、さらに筥崎まで元軍は押し寄せて日本軍はそこを放棄し
さらに水城まで退却します。

日本軍が逃げ去ったその日の夕方ごろ、筥崎宮に出火があり、そこから
八幡神の化身と思われる白装束姿の30人ほどが飛び出してきたと言います。

白装束の30人は元軍に向かって一斉に矢を放ち、それに驚き恐れおののいた元軍は
松原に築いた陣を放棄し、海上に逃げ去ります。

しかし、その時海に不思議な火が燃え巡り、その火の中から
八幡神の顕現と思われる兵船2艘が突如現れて元軍に襲い掛かります。
2艘の兵船は元軍を皆討ち取り、何とか沖に逃れた軍船には大風が吹きつけ、
元軍はみな敗走してしまった…と、八幡愚童訓は記します。

これを見るに、元寇の時に吹いて元軍を撃退したという神風には史実性があって、
それは八幡様が関与したものではないか…と、見る事ができるように思えます。

さらに東大寺の大仏建造の際、大仏の鍍金に使う黄金が
八幡様の託宣によって東国から発見された逸話がありますが、
これは元々東国にあった金鉱脈が託宣によって発見されたという風にも見えますが、
実は金鉱脈は元々そこには存在しなかったもので、これは八幡様の自然をも操る力で
そこに創出されたものだったのではないか…と、いった見方も出来るようにも思えます。

現に、託宣集の中では八幡様が天地神祇ほか海神、水神、山神を招集して
神祇の威勢を示し、衆生を導くために大隅国沖の海中に島を造り出したという
話が載っています。
これを見ると八幡神は人はもちろん、島を造り出すなど自然さえも意のままにできる
力ある神である事がわかります。

旧約聖書でも、創世記に神が海の中から陸地を創造する場面や、
また出エジプト記では紅海を真二つに割り、またヨシュア記にはヨルダン川の流れを
せき止めてイスラエルの民をカナンの地に渡らせる場面等が出てきます。

さらにイエスキリストも聖書の中で、乗船中に大きな嵐に遭遇した際にそれを叱って
鎮めてしまう場面があります。
神学的には、自然に影響を与えるのはそれを従える力を持つ者であるという
解釈がされています。

八幡様も、神風の伝説や、島造りの神話など自然を操る逸話が
いくつか残されています。
こういった所にも、旧約聖書の神と八幡様の関連性が現れているような気がします。

しかし一方で、旧約聖書の創造主にはない記述も託宣集にはあります。
旧約聖書の創造主は、初めなく終わりもない、唯一の存在となります。
しかし御託宣集の中で、八幡様は母親は阿弥陀如来、弟は観音菩薩である…
という事を宣べています。

旧約聖書の神は、初めなく終わりもない存在なので
生まれるという事はありません。つまり母親に相当する存在はないという事になります。
母親は阿弥陀如来であると宣べている八幡様は、
旧約聖書の神と強い関連が見えますが、やはり別の存在になるのでしょうか。

キリスト教では、父なる神、その神の子であるキリストの他に
聖霊という霊的存在が非常に重要視されています。
聖霊とは、神またはイエスキリストから与えられる聖なる霊で、
これが宿ると預言、啓示などでの導き、その他様々な能力が備わるものとされています。

父なる神、子なるイエスキリスト、聖霊は本質的に同一のもので一体であり、
これらは三位一体であるとされています。(宗派によって様々な解釈が存在しているようです)

旧約聖書の全能の神と多くの共通点があり、しかし様々な姿に変じて現れ
母や弟の存在も語られ、唯一の全能の神とは異なった側面がある八幡様は、
もしかして神の霊である聖霊、日本的な概念で言えば旧約聖書の神の
分霊に相当するのではないか…という事が考えられます。

もちろん、旧約聖書にある全能の神に不可能な事はないので、
大きな力と影響力を持つ八幡様は旧約聖書の神そのものである可能性も否定できません。
しかし、私たちの理解を超越した世界の事なので、正確な所は
やはり測り知れないものかも知れません…


・結びに

発せられる託宣などで我々にとって理解可能な所もあれば、また理解を超越した所もあり
総体として不可解な神秘そのものに思える八幡様は、時に穏やかで、また時には荒ぶり、
そのあり方は時にそよ風、そして時には台風となって荒ぶる
雄大な自然のあり方そのもののようにも思えます。

それを前にして、我々は本質的にはこれをただ畏れ、
敬い祀ることしかできません。

なので本来神社やお寺は、願掛けをして願いを叶えてもらう場所というよりも
神を敬い祀り、日ごろの罪過、ケガレの赦しと祓いを求める場所と
捉えるべきではないかと思うのです。

特に大きく有名な神社では、祀られている神様も格が高い事が想像でき
そういった所ではただ神を畏れ崇敬を示す事が、本来的な参拝なのではないかと思います。

ただし神様は憐れみの心があって、例えば小さな神社に祀られる小さな神様を通じて
届けられる願いは、つい叶えてあげたくなるような所があるのかも知れません。
キリスト教でも神様に直接願うのではなく、徳を積んだ聖人様を通じて取次ぎを願う方が
願いは叶いやすいものとされているようです。

なので、大きく有名な神社よりも、実は小さな神社や町中にある祠の方にこそ
神様の力はより多くが働いているものかも知れませんね…
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