2・不可解なノートルダム大聖堂の火災

文字数 5,107文字

今年4月16日早朝(日本時間、フランスの現地時間では15日夕方)、
フランスのパリにある850年の歴史を持つ世界遺産、ノートルダム大聖堂が炎上するという
大きな事件が発生。

屋根全体が炎をあげて燃え盛り、人々の見守る中96mあった尖塔は
真ん中から真っ二つに折れて炎の海の中へと沈んでいきました。

ノートルダム大聖堂を象徴すると言えるバラ窓は全て熱で爆砕したとの話が流れ、
さらにパリの市民だけではなく世界中の多くの人が燃え上がる大聖堂の姿を見て
心を痛め、祈り、涙を流す人も見られました。

このニュースは世界中で大きく報道され、美しく壮麗な
あの歴史あるノートルダム大聖堂がまさか…と世界中が大きな衝撃を受けました。

さらに火災の発生した時期4月16日は、キリスト教において非常に重要な週である
復活祭までの1週間、受難週という聖なる週間の出来事です。
またさらにその日は、受難週の始まりから日曜日の復活祭までの
最も聖なる4日間の始まりと言える、聖木曜日という日の出来事でした。

(6月7日注:不思議な記憶違いが起こってるようです。自分の記憶では
 ノートルダム大聖堂の火災は木曜日の出来事なんですが、
 先日改めて調べたら火曜日(日本時間)になっていました。
 また今年の受難週はネットなどで調べて4月12~18日と記憶していたのですが、
 改めて調べたら4月14~20日になっていました。
 どういう事なんでしょう。これについては後で考察します)

キリスト教にとって、あってはならない火災…。
とくに信仰篤い方には大きな衝撃が走ったでしょう事が想像できる、そして神は居ないのか…
またはこれは神の怒りの表れではないか、という感覚になっても不思議ではないような火災でした。

ノートルダム大聖堂は激しく炎を上げ、一時は炎が建物全体に回って全てを焼き、
建物自体が倒壊してしまうかも知れないと危惧されていました。
火は9時間後に消し止められましたが、尖塔は失われ、屋根は3分の1を残し
そのほとんどが失われました。

現在、出火の原因の解明がされていますが、
いまだにはっきりとした原因はわかっていないようです。


・様々なものが奇跡的に無事

しかし、激しく炎上し一時は崩れ去ってしまうと思われたノートルダム大聖堂でしたが、
火災が収まって見ると倒壊が危ぶまれていた建物自体のほか、爆砕したと言われていた
大聖堂の象徴のバラ窓のステンドグラスや収められていた聖遺物、美術品、大オルガン、
さらには改修中だったため取り外されていた、尖塔に据え付けられていた12使徒や聖人のブロンズ像、
折れた96mの尖塔の先にあった青銅製の風見鶏、果ては炎上した屋根のすぐそばの屋上で飼われていたミツバチまでもが無事でした。
また、消防隊員の中で怪我をされた方がいらっしゃったようですが
幸い人命に被害はありませんでした。

無事だったもの

・ノートルダム大聖堂の建屋自体
・聖遺物(イエスキリストが処刑時に被されたとされる茨の冠)
・バラ窓のステンドグラス、美術品、大オルガン
・12使徒や聖人のブロンズ像
・尖塔の先の雄鶏を象った風見鶏(青銅製、中に茨の冠の棘や聖人ゆかりの品が封入されている)
・屋上で飼育されていたミツバチ


・火災の原因は不明

現在でも火災の原因の調査は続けられていますが、
原因はまだはっきりとしていないようです。
一説によれば、改修中なので設置されていた工事用エレベーターの
漏電などによる電気トラブルが原因ではないかと言われています。

しかし改修工事の担当者は、火災発生時は工事そのものを行っていなく、
電源スイッチは切っている状態でさらにスイッチボックスには鍵がかかっていた状態だったと
証言しています。
また、消失する前のノートルダム大聖堂の屋根は非常に重厚な木材が使用されており、
少しぐらいマッチやライターの火を近づけても燃やすのは容易ではないように思えます。

また火災が明らかになる前に、火災報知機が2度鳴ったそうですが
不思議な事に警報が鳴るごとに火元の屋根裏が調べられても
炎や煙の発生等は確認されなかったようです。

こうして見ると、火災自体が何らかの超自然的な意思の作用によって
起こる事になったのではないか…と思えてしまいますね。



2・現れる、様々な符号


さて、キリスト教の聖なる週の聖なる日に、ノートルダム大聖堂が炎上する…
一見すると珍しい出来事のようですが、
それでも起こる時は起こりうる、歴史ある大聖堂に起こった災難…のように一見思えます。

しかし、時期も時期。
伝統的キリスト教で最も重要な週と言える受難週に、
よりにもよって世界的に有名なノートルダム大聖堂に火災が起こるという事は
歴史の上でもかなり稀な出来事になると言えます。

このような出来事が起こる確率を無理やり計算しようとするならば、
1年は365日でその内受難週が6日間ですから365÷6=60
ノートルダム大聖堂が毎年炎上したとしておよそ60年に1回の確率、
さらにノートルダム大聖堂は約850年の歴史がありますから、
炎上は850年に1回の出来事として60×850=51000、
確率でいえばおよそ5万1000年に1回の出来事、という事になります。

これは、起こる確率がかなり低い出来事と言えます。
しかも、小さな教会ではなく世界的に有名な大聖堂に起こる…
それも考えると、確率はさらに下がると思います。
やはり、何らかの意思が働いたように思えるのではないでしょうか。

そしてそういう目で見てみると、大きな火災であったにも関わらず
建物を始め様々なものがほぼ無傷で残ったというのも、神秘的な作用が働いてそうなった…
という神学的な説明も妙に説得力が出てきます。

例えば無事だった、真ん中から折れた96mの尖塔の先についていた青銅製の雄鶏を象った風見鶏ですが、
雄鶏というのは12使徒の聖ペテロがイエスキリストを否定する場面などで聖書に出てきます。
さらに、生きていた大聖堂の屋上で飼育されていたミツバチも、
蜜といえば蜜の流れる約束の地カナンですとか、旧約聖書の様々な場面で出てきます。
こういう奇跡的に無事だったと言えるもの、これは聖書に登場するものと符合が見られます。
やはり、何らかの意思が作用したように思えてしまいますね。

もちろん、これらは偶然が重なった結果と見る事も出来ます。
しかしキリスト教の聖なる週間に、キリスト教の大聖堂が炎上して、しかも
聖書に関連する物が奇跡的に無事だった…という出来事は、これが旧約聖書の時代に起こったのなら
神秘的な奇跡的出来事として記事に載ってるような現象と言えると思います。

つまり、全てを単なる偶然の重なりとして見ても、
その結果は旧約聖書に書いてあるような神秘的な現象が実際に起こったものと同じこと…
という事ができると思います。



3・神智学的、あるいは科学現象のどちらで見ても起こる奇跡


今までの常識ですと、奇跡というものは科学では説明のつかない
おもに信仰上での出来事…というのが、多くの方がイメージされる所だと思います。

例えば、信仰深い人が祈りを捧げてふと空を見あげると
虹色の天使の形をした雲が浮かんでいた…といった出来事があった場合に
信仰深い人にとってはこれはもちろん天から奇跡の御しるしがもたらされた、
という出来事になると思います。

しかし科学的な説明では、それは雲が虹色に輝く彩雲という珍しい現象で、
それが偶然天使に見えるような形になっただけで神秘的な現象でも何でもない…
といった風に説明がなされ、これで多くの人はああそうだよな、
信仰深い人にとっては天からの御しるしでも科学的に見れば違うよな…といった
考えになるのではないでしょうか。

しかし、奇跡というのは前の方で説明しましたが
それが起こった場合には驚きが伴い、神的な存在が信心から確信に至るもの…
といった現象になります。

倫理的に考えますと、科学で説明のつくような現象であっても、
起こった結果が奇跡と呼ばれる現象と同じく神的存在が確信に至るように見えるものなら
それは結果としてどちらの説明でも奇跡になる…と言うことができると思います。

どういう事かと言いますと、空に虹色の天使の雲が浮かぶといった現象に対して
①それは聖霊のもたらしたものである=奇跡が起こった
②それは科学現象である→結果聖霊が存在するように思える現象として起こる
 =奇跡と呼ばれる事象が起こった
といったように、神智学的に考えても科学現象として見ても、
奇跡という現象は現実的に存在しているものである、と説明する事ができると思います。

こういった事象は、歴史の上で何度も起こってきたというのが容易に想像できます。
例えば雨をもたらしてくれるように天に祈りを捧げた時に、丁度雨が降ってきたとか、
そして人々は神に感謝しその存在を信じた…といったように。
けれどこういった事例も案外、
神様が本当に人の願いに応じて雨を降らせてくれたのかも知れませんね。

そして、まるで神が本当に存在するかのようなそんな現象が歴史上で起こるのは
ある意味必然のことと言えます。そしてそういった現象が何度もくり返し起き、
やがて神への信仰が形づくられていった…といった風に、宗教や信仰は事象的には説明されると思います。

しかし、本当の所はどうでしょうか。
実は意思を持った全能の存在がいて、歴史の折々に紅海を真っ二つに割るような
人間の目にはとても信じられないような驚くべき現象を起こし、人類を導いて来たとしたら。

けれども、疑り深い人はこう言うと思います。
「まるで神が存在しているように見える、奇跡という事象が現実に起こる事はわかった。
 しかしそう見えるだけで、たぶんそこには神的な意思の働きなんてないだろう?」と。

一見神の力が働いたように見える現象はあるけれども、そこにはそういった意思の存在はない…
歴史に時折見られるような、まるで神が存在を示すような不思議な出来事は
たまたまそう見える偶然の結果で、信じる人だけが信じている、と。
神様が姿を現したように見えるような現象はあっても、そこに意思はない…。
神とはがらんどうの存在なんだ、と。


・がらんどうの神

皆さんは、一見雑多なガラクタを集めただけのように見えるけれども
ある角度から見たら人の顔のように見える…といった現代アートを見たことがあるでしょうか。
フランスのBernard Prasという方の芸術作品にそういった物があります。
面白いので、一度ぜひ検索して動画を見てみる事をお勧めします。

どういったイメージの作品なのかといいますと、これを仮に漢字で表しますと
女と又と力はそれぞれ別個の字ですが、それを全部合わせると努という漢字になる、
といったイメージのものになります。

もしかしたら、神や奇跡とは歴史の上にちりばめられた一つ一つのピースが偶然、
かちりと噛み合った時にまるで神の意思が現れたかのような不思議な出来事として出現し、
それを見た人々は驚き神の存在を信じる、といったものなのかも知れません。

まるで神の御業、奇跡に見える事がらは実は偶然が重なっただけで、
姿だけ神のようでそこに意思は存在しない、神や奇跡はそう見えるがらんどうの像で、
例にあげた芸術作品のようなもの…かも知れません。

しかし、数々に記録されている奇跡的な出来事の全部に、
その例の全てに神と呼ばれる存在の意思や力は全然、一切、まったくひとカケラも
現れた事はない、と言い切れるでしょうか。

量子論的な考え方に、この世に存在する可能性が全くのゼロというものはない、
ないというものはない、といったものがあります。
となれば、意思を持った全知全能の神が実在する可能性も全くのゼロではない、
といった考えに自然になると思います。

新約、旧約聖書の中に数多くあるとても信じられないような奇跡的な記述も、
全部が全部とは言わないまでももしかしたら本当にあった事が書かれてあって、
本当に神が姿を現したり力を現した事例も確かに存在しているのかも知れませんね。

さて、次からは
自身が経験する事になった不思議な不思議な出来事について説明していきたいと思います。

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