20・聖徳太子の謎

文字数 12,346文字

聖徳太子は、西暦574年に生まれ、飛鳥時代の皇族であり
当時の推古天皇の政治を助ける摂政でした。
また聖徳太子は他にも厩戸皇子、上宮王、豊聡耳太子といった異称があります。

現在聖徳太子は架空の存在だったという説や、あるいは
蘇我馬子、もしくはその子の蘇我善徳だったといった説があります。

しかし系図を見てみると、聖徳太子は用明天皇の第二皇子である事や
妻子が存在した事が記録されており、しっかりした実在の人物で、
架空の人物または蘇我馬子やその他の人物の混同ではなかったのは確実です。

現代でも実在性やエピソードの史実性が議論になったりもするようですが、
それだけ聖徳太子は神秘性が彩っていて、日本の歴史で特異な存在であり、
その分人の関心を引き付けてやまないのかも知れません。

聖徳太子は様々な神秘的逸話を持ち、古代から神人として信仰を集めて来ました。
その逸話とはどの様なものなのか、これから見ていきましょう。


・厩戸皇子

聖徳太子の生まれる前、生母である間人皇女は
口から西方の救世観音が入ってくるという夢を見たという逸話があります。

そして、間人皇女が馬小屋の前を通りかかった時に急に産気が起こって、
馬小屋の前で聖徳太子は生誕したと伝わっています。
それにより、厩戸皇子、という名で呼ばれるようになった…という逸話は
よく知られています。


・豊聡耳太子

聖徳太子は、同時に多数の人の言う事を聞き分ける事ができたという、またよく知られた伝説があります。
ある時太子が人々の請願を聞いた際に、10人もの人が一斉に太子に請願を訴え出ましたが、
太子はその一人ひとりの訴えを一つも聞き洩らさずに、全員に的確な助言をしたという逸話が
日本書紀にあります。これにより、聖徳太子は別名豊聡耳太子との呼び名もついています。


・冠位一二階の制定

身分が重視されていた氏姓制度から脱却し自由な人材登用を目的として、
または当時の隋との外交で体面を整えるためなど様々な理由が推定されていますが、
日本で初めての冠位制度として冠位一二階を制定しました。


・遣隋使の派遣

小野妹子を遣隋使として任命し、日本から見て当時は大国だった隋と外交関係を結びます。
その際の国書「日出処の天子、日没する処の天子に書を致す。つつがなきや…」は
それまでの朝貢関係ではなく日本と隋の対等な立場での外交関係を明確に打ち出したものとされています。


・17条の憲法

第一条、和をもって貴しとなし…から始まり、仏法僧の三宝を篤く敬えという尊仏思想、
そして官人として、人としての心構えがまとめられた憲法です。
三宝を厚く敬えという条文は、ものによっては仏法神となっているものもあるようです。
和をもって貴しとなすの精神は、現在でも日本人の心の根源に備わっているようにも見えます。


・飛翔伝説

推古天皇6年(598年)4月に、太子は諸国から良馬を献上させ
その中の数百頭のうちの四脚が白い甲斐の烏駒(くろこま・黒馬)一頭を神馬と見抜き、
舎人の調使麿に飼養を命じる。同年9月に太子が試乗をすると馬は天高く飛び、太子と調使麿を乗せ
東国へ向かい、富士山を超え信濃の国に至り、3日後に都へと帰還したという伝承があります。


・片岡飢人伝説

613年(推古天皇21年)、聖徳太子が片岡山(万葉集には竜田山)に遊行したときに
飢えた旅人が道に伏していた。姓名を聞いても返事がなく、太子はその旅人に飲食物を与え、
また自分の衣を脱いでその人にかけてやり、「安らかに寝ていなさい」と語りかけます。
その時に詠まれたという歌が日本書紀に載っています。


しなてる 片岡山に飯(いひ)に飢(え)て 臥(こ)やせる その旅人あはれ 親なしに 
汝(なれ)生(な)りけめや さす竹の 君はや無き 飯に飢て臥やせる その旅人あはれ 

(片岡山で飢えに倒れているこの旅人よ、哀れなことです。親が居ないのでしょうか。
 仕える主君はないのでしょうか。飢えに倒れているこの旅人よ、哀れなことです)


また万葉集では、太子作の歌として


家にあらば 妹(いも)が手纒(ま)かむ 草枕 旅に臥やせる この旅人あはれ

(家にあれば、草の茂る野原ではなく妻の腕枕で休めたでしょう。
 旅先で臥せるこの旅人よ、哀れなことです)

と伝わっています。
また拾遺和歌集では、


しなてるや 片岡山に飯に飢て 臥せる旅人 あはれ親なし

という歌が、聖徳太子の作の歌として伝わっています。
そしてその翌日、太子が使いの者に旅人の様子を見に行かせたところ、使いが戻ってきて
旅人は息を引き取っていましたと太子に報告します。

太子は悲しみ、旅人の亡くなっていた所に墓を作り、亡骸を棺に入れ葬りこれを固く封じます。
数日後、太子は使いの者を呼び、あの者は普通の者ではなく真人(ひじり)であろう、
行って墓を見てきなさいと使いの者に告げます。

そして使いが墓まで行き、固くされた封を解いて中を覗いてみると、中の棺の上には
太子が旅人に与えた紫の衣が丁寧にたたんで置いてありました。
棺の中を見てみると、それはからっぽで、驚いた使いの者がその事を太子に報告し
衣を差し出すと、太子は平然として普段通りのようにそれを着用しました。

都の人々はこの出来事を大いに不思議がり、
「聖(ひじり)は聖を知る、というのは誠であった」と噂をしあい、
太子を畏敬した…と伝わる逸話が片岡飢人伝説です。


のちにこの飢人は達磨大師であったという伝承が生まれ、
北葛城郡王寺町にあるこの出来事のあった場所とされている所には実際に小さな円墳があり、
そしてそこには現在では達磨寺というお寺が建っているそうです。


・南嶽慧思の生まれ変わり説

聖徳太子は中国天台宗の第二、あるいは第三の開祖とされる
南嶽慧思の生まれ変わりであるという説が当時あったようです。

これが、唐招提寺の建立で有名な唐の鑑真和尚が
日本に渡来する動機になった可能性もあると考えられているようです。

しかし生没年を見てみると、聖徳太子が誕生した時に南嶽慧思はまだ存命中になるそうで
南嶽慧思の生まれ変わりである可能性は低いとも言われています。


・聖徳太子の逸話に見られる特徴

聖徳太子の逸話を全体的に見てみると、福音書にある
イエスキリストのエピソードと多くの共通点がある事がわかります。

誕生の逸話も、
生母である間人皇女が口に西方の救世観音が入ってくる夢を見た、というのは
主は聖霊によって宿り…というエピソードと共通します。

また中か外かの違いはありますが、有名なイエスキリストは馬小屋で生まれたという
エピソードが聖徳太子の誕生逸話と共通していることはもちろん言うまでもありませんが、
その他にも冠位12階は12人の臣下を従えたということで、これは
イエスキリストの12使徒に対応しているようにも思えます。

また遣隋使の派遣も、見方によっては聖書にイエスキリストが布教のため
使徒を各地に派遣した出来事と重なるようにも思えますし、
太子が神馬に乗って富士を超え信濃の国に飛んだという飛翔伝説は
イエスキリストは天に昇ったという被昇天のエピソードと共通しているようにも見えます。

そして片岡飢人伝説の、旅人の墓の中には太子の衣だけが残され、あとはカラッポだった…
という逸話は、ヨハネの福音書にあるラザロの復活、または聖書の最後のほう、
キリスト復活の物語と非常に共通点があるように思えるのではないでしょうか。

この、福音書と聖徳太子の逸話に共通点が見られるということは、従来では
唐の時代に中国に伝来したネストリウス派キリスト教の福音書の逸話を
記紀の編者が太子の権威づけに借用したものと解釈されてきました。

しかし、そうであるならば、仏教国である当時の日本においてほとんど知られていない
キリスト教の逸話を、太子の権威付けに利用しようと思って借用するものでしょうか。

太子の権威づけをするならば、仏教国の日本ではそれこそ誕生の逸話は、誕生の時に七歩進み
天上天下唯我独尊と唱えたというお釈迦様の逸話などから借用する方がより自然と考えられます。

そして17条の憲法に仏法僧の三宝を篤く敬えとある通り、
聖徳太子が広めようとしていたのは仏教です。それなのに、当時の日本国内では馴染みのない
キリスト教の福音書から逸話を借用し、記紀の編者が太子の権威付けに用いるというのは
筋が通らないように思えます。

つまり聖徳太子の逸話は、キリスト教の福音書から太子の権威づけのために借用されたとするのは、
キリスト教が知られていない当時の日本では権威付けとして有効とは言えず、
従来言われてきたように福音書の逸話が権威付けのために借用されるというのは
状況的におかしいのではないか…と、思えるわけです。

すなわち、聖徳太子にまつわる不思議な逸話は、全てがそうだとは言い切れませんが
福音書からの借用ではなくただ単に、実際にあった事だったのではないか…。と思えるのです。


・聖徳太子の逸話が示すもの

そうなると、
聖徳太子とは一体どのような存在だったのでしょう。

当時の日本で知る人もほとんど居なかったはずの福音書の逸話を、
聖徳太子の逸話として日本書紀やその他の伝記に組み込んで書かなければならなかったような、
何か特殊な知られざる事情があったのではない限り、聖徳太子は、正確な所はやはり謎のままなのですが、
霊的な形で日本に現れたイエスキリストだったのではないか…という風に思えるのです。

日本の歴史を見てみても、聡明で優れていたと記録にある為政者は沢山居ます。
しかしその中でも、聖徳太子のように広く信仰の対象になっている人物は他には見当たりません。
それは太子がただ単に政治に優れた摂政だったというだけではなく、
それを超えた神秘性、そして霊的な作用がそこにはあるのではないでしょうか。

どのような目的なのかは不明ですが、聖書のイエスキリストのエピソードを思わせるような
不思議な逸話に満ちた生涯をもつ聖徳太子が、もし普通の人というより霊的な存在であるならば
その目的はやはり信仰を日本に定着させる事にあったのではないかと思われます。

太子は仏教の広法に努め、法隆寺、四天王寺を建立し、結果仏教は日本に定着して今に至ります。
そして福音書のエピソードを体現する事で、のちの世に、信仰は霊的な繋がりを持っている事を
示されたのではないか…という風に思えるのです。

そうなると、聖徳太子の生涯や業績には遣隋使の派遣など明示的なものだけではなく、
福音書などの関連を黙して示す、いわゆる黙示的、暗示的なものも
多分に含まれているのではないか…とも考えられます。

何気ない逸話にも、もしかしたら何か秘密が隠されているのかも知れません。
それがどういう物なのかは、やはり不明ですが…。



・聖徳太子のその他の逸話

聖徳太子のその他の業績として、法華経、勝鬘経、維摩経の解説書
三経義疏(さんきょうぎしょ)を著したと伝えられています。

このうちの法華経の解説書、法華義疏は太子の真筆と伝えられる草稿が現存していて、
現在では御物として皇室に保管されているそうです。

その他にも現存はしていませんが日本の歴史を編集して国記、天皇記を
著したと伝えられています。

またその他にも日本書紀に聖徳太子が十人の人々の訴えを聞き分けた逸話の部分に
「一聞十人訴以勿失能辨、兼知未然」(一度に十人の訴えを聞き分け、また未然の
事がらについても知っていた)とあり、これは聖徳太子が未来を知る事ができた、
未来予知の能力があったのではと解釈されているようです。

そして後の平家物語や太平記には、聖徳太子が未来に起こる事を書き記したとされる
未来記という書の存在に触れられています。太平記では楠木正成が未来記を読み、
後醍醐天皇の復権と親政を読み取った…という場面が出てきます。

しかし未来の事が記されているという未来記は現存していないようで、
江戸時代に発見された先代旧事本紀という聖徳太子の編纂したとされる経典の中に
未然本紀という書があるそうですが、これは現在では偽書とされているようです。
しかし、真相はどうなのでしょうか…

同様に先ほどあげた日本初と言える歴史書の天皇記・国記も現存はしていませんが、
その後に成立した古事記、日本書紀などの引用文にはこれらの書の名前が見え、
なので古事記、日本書紀はこれらを下敷きに、
または天皇記・国記が編集される際に集められた資料や編集方針を元として
編まれたのではないかと推測できるところがあります。

すなわち天皇記・国記とその後に成立した古事記、日本書紀は内容の多くが
共通していた可能性も高く、そうなると日本書紀、古事記の成立にも
聖徳太子はその大筋を作ったと見る事もできるのではないでしょうか。

その他にも、直接的な関連性は不明ですが
石の宝殿と呼ばれる浮き上がって見える巨大な石の遺跡に
聖徳太子の時代に物部守屋が作ったという伝承が残されています。

さらに太子の建立として有名な法隆寺がありますが、伝承では607年に創建され
670年に一度落雷によって焼失しますが、700年前後に再建されてその後
日本で多い地震や台風、そして多くの戦乱があったにも関わらず今に残り、
これは現在では世界最古の木造建築として世界遺産に登録されています。
そこには何か、不思議な作用がもしかしたら働いているのかも知れませんね…。


・聖徳太子の薨逝とその後

日本書紀によれば、推古28年(620年)に
空にキジの尾のような赤い光が輝くしるしがあったとあります。

これは、奈良の都の辺りで見えるのはごく珍しいオーロラとされていますが、実は
ファティマの奇跡で聖母から第二次世界大戦の始まる合図として不気味な光が現れると
メッセージが伝えられた際にも、ヨーロッパの空に観測史上ない巨大な赤いオーロラが現れ
その翌年に予言された通りに第2次世界大戦が始まったという出来事があります。

このとき都の空に現れた赤いしるしはやはり同じく凶事の前触れだったのでしょうか、
聖徳太子はその翌年の推古29年(621年)2月5日に斑鳩の宮で亡くなったと
日本書紀にあります。
(上宮聖徳法王帝説、法隆寺三尊像光背銘文など資料によっては2月22日)

この時多くの人は、年老いた者はわが子を失ったように嘆き、その悲しみは
塩と酢の味もわからなくなるほどであり、また若者は父母を失ったように嘆きその声は往路に満ち、
男は畑を耕す手を止め、女は杵もつかず、「日と月から光が失われ、天地が崩れ去ったようだ。
今後誰を頼ればよいのだろう」と嘆いたと記されています。

このことを知った、太子が幼少の時の師である高麗の僧・慧慈は
「日本の国に上宮豊聡耳皇子という聖人がおられました。天から才能を授かり、聖なる徳を持って
日本に生まれました。中国の三代の聖王も超えるほどの事をなし、三宝を敬い人々の苦しみを救われた
真の大聖です。太子が亡くなり、国は違えど私は心の絆を断つことができません。
私独りで生きていて何になるでしょう。私は必ず来年の二月五日にこの世を去って、浄土で
上宮太子にお会いして以後共に人々へ仏の教えを広めましょう」と請願し、
その予告した通りの日に慧慈はこの世を去りました。
これを見た人々は、「上宮太子だけではなく、慧慈もまた聖人だった」と言い合ったと書かれています。


・聖徳太子の第一子・山背大兄王

太子が亡くなった後、その7年後の推古36年に推古天皇が崩御し、
そしてその後に残された聖徳太子の第一子・山背大兄王は推古天皇の後の後継問題に巻き込まれます。

山背大兄王は叔父である蘇我境部摩理勢が擁立し、天皇の位へと後押しされますが
それに対して蘇我蝦夷は田村皇子を擁立して対抗します。

境部摩理勢は山背大兄王を積極的に皇位へと推挙しますが、当時権勢を誇った
蘇我蝦夷に対抗するのは難しく、また山背大兄王が皇位争いを辞退し
その情勢に怒った摩理勢は私有地などに立てこもって反抗しますが、
蘇我蝦夷は攻め入って境部摩理勢を殺害します。

皇位は蘇我蝦夷の推挙する田村皇子が継承し、田村皇子は欽明天皇として即位し
事態は一旦は落ち着きます。

しかし欽明天皇が崩御し、後継者が決まらず皇極天皇が仮即位すると
実権を握った蝦夷の子、蘇我入鹿はより意のままに操れる古人大兄皇子を天皇にしようと企て
皇位継承の有力者である山背大兄王を邪魔に思い始めます。

そして皇極天皇2年(643年)、ついに臣下を引き連れ100名ほどの兵を率い蘇我入鹿は
斑鳩宮を急襲します。襲撃された山背大兄王は馬の骨を寝所に投げ入れ、一族を引き連れて
逃亡を図ります。

斑鳩宮は焼き討ちされ、焼け跡から見つかった骨を見て
山背大兄王は討ち取られたものと考えた入鹿の臣下達は引き上げていきます。

数日後、生駒山に逃れた山背大兄王に家臣が東国へ向かい、
そこで兵を整え逆に打って出ましょうと提言します。

しかし山背大兄王は「そうすれば勝てるだろう。しかし、人々を十年は
戦に巻き込んでしまうことも考えられる。私の都合で、どうして万民に苦労を
かけられようか。また、私についたために、戦いで父母を亡くしたという人々も
出ることだろう。戦に勝つものを丈夫(ますらお)と言うが、己が身を捨てることで
国を固めるなら、それもまた丈夫(ますらお)ではないか」
と、兵を挙げるのを拒みます。

そしてその頃、山背大兄王を山深くに見たという報告が蘇我入鹿に入ります。
入鹿は大いに恐れて、早速軍を起こし捕えに向かおうとします。
しかし臣下に止められ、代わって将兵を送り生駒山の山中を探させます。

将兵は山背大兄王を見つける事はできませんでしたが、
山背大兄王と一族は山から出て斑鳩宮へと戻ります。

すぐに兵が斑鳩宮を囲みます。山背大兄王は臣下を通じて周りの将兵らに
「私がもし、兵を起こして入鹿と戦うなら勝つだろう。しかし、私のゆえに
多くの無関係の農民を傷つけたくはない。私の身は入鹿にくれてやろう」
と伝え、山背大兄王は妻や多くの子供、一族もろともに自害します。

その時、空に五色の幡や絹笠が現われ、照り輝きながら舞い踊り
斑鳩宮の上に垂れかかったと記されています。

それを見た多くの人が驚嘆し、入鹿に指し示しました。
するとその旗や絹笠は黒雲へと変わり、それで入鹿は見ることも出来なかったと
日本書紀には伝わっています。

上宮王家はここに絶えたとされ、これを聞いた入鹿の父蘇我蝦夷は激高し
「ああ、大馬鹿者の入鹿、何と暴悪な事だ。お前は自分の身命を危うくした」
と言ったと記されています。

日本の歴史の上でも、山背大兄王のように民のためを想い、
あえて戦を控えたという人物はそうは居るものではありません。

山背大兄王もまた、
聖人と呼ぶにふさわしい心の持ち主であったように思えます。


・乙巳の変

その予感が的中したのか、太子一族謀殺事件から2年後の皇極四年(645年)に
乙巳の変、いわゆる大化の改新が起こって蘇我入鹿は宮中で討たれ、その知らせを聞いた
父の蝦夷は自害して果てたと日本書紀にあります。

乙巳の変を画策した中大兄皇子と中臣鎌足は、入鹿が討ち倒され驚く皇極天皇の御前で伏し
「入鹿は王子達を全て打ち亡ぼし、帝位を傾けようとしています。そのような事が
 許されていいのでしょうか」と訴えます。

乙巳の変、大化の改新が起こった背景には、蘇我入鹿が太子一族を謀殺した事件に対する
大きな危機感が動機となっていた事が表れているように思えます。

この事件の直前に、都では

遠方の 浅野の雉 響もさず 我は寝しかど 人ぞ響もす
(遠方の浅野のキジが鳴いている。私は静かに寝たのに、人の騒ぎのようだ)

等のわらべ歌が流行っていたと記されています。
事件の直後に、この歌は山背大兄皇子の自害と、その後の乙巳の変を暗示していたのだ…
と、都ではまことしやかな噂が流れたと伝わっています。

この事件の後に、改新の詔が発令され、飛鳥から難波宮への遷都などを経て
それまでの制度が廃され天皇を中心とする律令国家の誕生へのきっかけとなった…
と、いうのが、聖徳太子から端を発するこの時代の一連の大きな流れと帰結のように
思えます。


・上宮家・太子一族は本当に滅亡したのか?

日本書紀では、蘇我入鹿によって上宮家、聖徳太子の一族は滅亡したとされています。
しかし、本当の所はどうでしょうか。

上宮聖德太子傳補闕記という聖徳太子の記録には、入鹿の襲撃によって死亡した
聖徳太子および山背大兄王の子女25名の名前が載っています。

それを見る限りでは聖徳太子の次男、三男である日置君、財君、及び
長女の片岡女王を始めとして山背大兄王の妻子のほとんど全ての名前が出ています。

しかし、聖徳太子の系図を追ってみると、上宮記に聖徳太子と膳臣傾子女の子
長谷王(泊瀬仲王)の子に葛木王という人物が居ます。
(古事記では敏達天皇と推古天皇の子)

葛木王は天武天皇8年(679年)に亡くなった事が日本書紀に記されています。
上宮記では聖徳太子の孫になるのですが、古事記では敏達天皇の子とされています。
一体、どちらが正しいのでしょう。

もし、古事記に記されているように葛木王が敏達天皇の子ならば
敏達天皇は敏達天皇14年(585年)に亡くなっていますので
葛木王はその子供とすると亡くなった時には100歳近くか、それを
超える年齢になる可能性があります。

一方、葛木王は聖徳太子の子・長谷王の息子であるとしたなら
長谷王は推古天皇36年(628年)ごろに亡くなったとされるので
単純に考えて敏達天皇とは子供の年齢に30~40年の開きがあると見て、
葛木王が長谷王の息子なら、葛木王が亡くなった年齢は60歳から70歳と
当時としては長生きですが常識的な範囲に収まります。

日本書紀に名の見える葛木王は上宮記にあるように長谷王の子、
聖徳太子の孫だったのではないでしょうか。

また、その他にも亡くなった太子一族の名前が記されている
上宮聖德太子傳補闕記に名前が載ってない聖徳太子の子孫も系図にあります。
伊止志古王、波止利女王、馬屋古女王は上宮聖德太子傳補闕記に亡くなったと
名前がありません。しかし、一方で上宮聖德太子傳補闕記には太子の系図にない名前も見え、
伊止志古王や波止利女王の別名ではないかとも考えられますが…。

またさらに、上宮聖德太子傳補闕記には亡くなったとして
聖徳太子の第二子・第三子・長女である日置王、財王、片岡女王の名前が出ていますが、
第一子の山背大兄王は妻子までも亡くなった事が記されている一方、
日置王、財王、片岡女王の妻子や夫に当たると思われる人物の名前は載っていません。

山背大兄王と同じく、聖徳太子の第二子・第三子・長女である
日置王、財王、片岡女王にも当然妻子や夫が居たとするならば、日置王、財王、片岡女王の
妻や夫、子供達は蘇我入鹿の襲撃を避けて都を離れ地方に逃げ延び、なので
上宮聖德太子傳補闕記で亡くなったと名前が載ってないのではないか…とも考えられます。

いずれにせよ、聖徳太子の血筋は途絶えずに、皇族または臣籍降下によって
人々の間に受け継がれている可能性も考えられます。
もしかして、日本のどこかに、聖徳太子の血統を受け継ぐ人達が
それとは気づかずに普通に生きているのかも知れませんね…。


・唐本御影

聖徳太子の姿と言えば、多くの方は中央に帯剣し笏を持った長身の人物を画き、
左右には児童のように見える二名の人物を画いた絵を思い浮かべるのではないでしょうか。

聖徳太子の姿を画いたものとして有名なあの絵は、唐本御影と言い、伝承によれば
中国の唐の人の前に現れた太子と弟の殖栗皇子、長男の山背大兄王の姿を写したもの、
または百済の阿佐太子の前に現れた姿を写したものとされています。

一時期は聖徳太子ではなく別人の絵ではないかとも言われていましたが、
伝承の通りに八世紀ごろに書かれた絵である事に間違いはないらしく、また
はっきりと誰であると断言できる資料も今の所ないようです。

唐本御影に画かれている服装を見ると服装は唐風であり、
日本のものではないそうです。
これは聖徳太子が唐人の前に応現した姿を画いたためとも言われています。

応現とは、相手に応じた姿で現れる事を言うそうです。
唐のネストリウス派キリスト教、景教の流行を記念して建てられた
大秦景教流行中国碑の碑文にも、

我三一分身 景尊彌施訶 隠眞威同人出代
(三位一体の分身、最も尊いメシアは真の姿を隠して人として世に現れた)

といった一文が記されています。
やはり聖徳太子は、姿を当時の日本人に合わせる形で現れた…
日本に応現したイエスキリストだったのかも知れませんね。

また、各国の歴史を詳しく調べてみれば、
イエスキリストを思わせるような人物が存在した記録が
所々に散見されるものなのかも知れません。
各国の歴史をそれぞれ調べるのは、それこそ多くの時間がかかりそうですが…。


・聖徳太子とは

福音書を思わせるような多くの逸話を持ち、未来を予見する力も
あったのではないかと思われる聖徳太子。

それは日本に姿を変えて現れたイエスキリストのようにも思えますが、
正確なところを言えばその正体は不明です。

言われている様に、後世に業績がつけ足され、伝説化された人物
という可能性もあります。

しかし、隋との外交や寺院の建立、法の整備や国史の編纂など、
はっきりしている業績を見てもそれは日本の歴史に大きな影響を与えています。

聖徳太子は古来から言い伝えらえている様に、
人の世界よりは、人間には不可解な霊の世界に属する存在、
神人と呼ぶべき存在だったのではないでしょうか。霊の世界に属する事がらは、
正確に理解するのは難しいことですが…。

ここまでに挙げた事績の他にも、聖徳太子にまつわる逸話は
探して見ると沢山見つかります。
それらを繋ぎ合わせ、色々考察して見ればより聖徳太子と呼ばれた人物の
実相が明らかになっていくのではないでしょうか。

聖徳太子はその当時から多くの人々の信仰を集め、そのために
数多くの当時の伝記や歴史関連の書籍が残っています。
最後にそれらを紹介して、本項は終わりにしたいと思います。


「上宮記(逸文)」
七世紀に成立し、日本書紀・古事記より成立が古いとされる上宮家に伝わっていた
歴史書です。文書そのものは現存していませんが、継体天皇と上宮家の系図が
釈日本紀・聖徳太子平氏伝雑勘文に引用されています。

「法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘」
法隆寺の釈迦三尊像の背面に、太子と后が病に伏せた時に
太子と后の病の平癒を願い仏像を造る…という塑像当時の来歴が刻銘されています。

「天寿國繍帳」
聖徳太子の后・橘太郎女が太子の病没後に、その死を悲しみ太子が昇ったという
天寿国の様子を見たいと推古天皇に願い作られたという伝承の中宮寺が所蔵する
刺繍になります。その刺繍にある銘文には、作られた経緯が記されています。

「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」
飛鳥時代、651年ごろの成立の可能性もあると考えられている、
日本で最初に仏教を広めた寺として有名な元興寺の縁起(成り立ち)が記された書です。
記録は推古天皇が中心となっていて、聖徳太子、蘇我馬子、最初期に仏教に帰依した
3人の尼僧などの記紀にない日本への仏教伝来・広法の最初期の様子が記された
史料価値の高い書です。

「伊予湯岡碑」
推古天皇4年(596年)に、道後温泉を訪れた太子が詠んだという漢詩が
記銘された石碑です。現在あるのは復元されたものですが、元の碑にあった文は
伊予国風土記、釈日本紀、万葉集註釈に引用されています。

「七代記(通称)」
奈良時代に成立とも考えられている、詳しい成立年代は不詳の
聖徳太子の伝記です。前部と後部が失われていて、全体は不明のようです。
十七条の憲法、片岡飢人伝説、聖徳太子の逝去の逸話が載っています。

「上宮聖徳太子伝補闕記」
平安時代初期か、それ以前に成立した可能性のある、朝廷の膳臣(給仕係)の
家記に記されていた聖徳太子の記録を元に著されたという伝記です。
これよりのちの太子信仰に大きな影響を与えた書とされています。

「上宮聖徳法王帝説」
平安時代初期から中期に成立した、奈良時代の資料を整理したものと考えられる
聖徳太子関係の皇室の系譜や太子の伝記、法隆寺に関連する銘文やその注釈が
載っている伝記です。日本書紀や古事記とは異なる記事もあり、史料的価値は
高いものとされています。

「聖徳太子伝暦」
表題に平氏伝とのみあり、その名前で呼ばれる事もあるようです。
平安時代前期か中期ごろに歌人の藤原兼輔が編集したと考えられています。
聖徳太子の神秘的逸話が多く、太子信仰の基礎となったとも言われています。

「皇太子聖徳奉讃」ほか
親鸞上人は聖徳太子の信奉篤く、多くの和讃(讃歌)を残しています。
この他に「皇太子聖徳奉讃」「大日本国粟散王聖徳太子奉讃」など、
親鸞上人の聖徳太子を讃える歌が現代にも伝わっています。

「中世太子伝」
鎌倉時代から、当時の仏教の興隆と共に日本の仏教の祖としての
聖徳太子への関心が高まり、数多くの伝記や事績を絵で伝える
絵伝が作られました。代表的なものに、「聖徳太子御事」
「聖徳太子伝私記」「聖徳太子絵伝」「正法輪蔵」などがあります。


紹介したこの他にも、数多くの伝記や、地域ゆかりの伝承が
存在しているようです。
それらを探って見れば、面白い発見があるのかもしれません。
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