18・祈り

文字数 13,098文字

皆さんは、信仰のある生き方というものに
どういったイメージを持っているでしょうか。

神様に祈り、過食や深酒は控え、色情に流されずになるべく清い生活を事を心がける…
そういったイメージではないでしょうか。

もちろん、さらに敬虔な人は神社や寺社によくお参りをしたり、
あるいは家の中にも仏像や神棚があって
毎日手を合わせるという人も居ると思います。

さらに敬虔な方になると、仏典を学んでみたり、写経をしたり、
寺社仏閣巡りを趣味としたり、神社で行われる神事やお寺で行われる
法話に参加してみたり…といった所だと思います。

自分もそうだったのですが、神社やお寺に行くのは初詣の年1回程度、
あとはたまたま気が向いた時にお参りしてお賽銭を上げ、
無病息災や金運上昇などを願う…といったのが大体の所ではないでしょうか。

一方、キリスト教の信仰の仕方は、大まかにいうと
神様に感謝と贖罪の祈りを毎日捧げる…というイメージのものになるようです。

旧約聖書では、人間はサタンである蛇にそそのかされて
神の言いつけに背き知恵の実を食べてしまい、完全性を失ってそれ以来
苦労して生きるよう定められた生まれつきの罪を負った存在とされています。

確かに仏教でもキリスト教でも、宗教的な戒律では欲動を抑え、
できるだけ清い生き方が求められます。しかし、完全に世を捨てるまでの
無欲の境地に到達するのはなかなか出来る事ではありません。
これは全善とされる神から見たら、もしかして我々は
戒律破りの罪の塊に見えているのかも知れません。

そして、全能の神ではない人間は、自分の知らないうちにも
神様から見た罪を犯してしまうものとされています。

人が意識的に、または無意識に日々犯してしまう罪の償いと、それでも恵みを下さる神に
感謝して栄光を称え、祈りを捧げる…というのが、キリスト教の理念であるようです。

キリスト教の信仰の仕方は
毎週日曜日ごとに教会に通う…というのがよくイメージされる所だと思いますが、
その他にもクリスマスや受難週などの記念日にはミサが行われ、
キリスト教徒はそれに参加して祈りを捧げたりというのがあります。

その他にも、毎日の祈りが推奨されており、食事の前と食事の後の祈り、
朝目覚めた時に今日一日宜しくお願いします…等、神への挨拶の祈り、晩に寝る前には
今日も一日ありがとうございました等の感謝と一日の行いの反省の祈りが捧げられるようです。

そしてその他に、日中に行われる祈りがあり、いくつか種類があるようですが主なものは
主の祈り、天使祝詞、栄唱、使途信経、ファティマの祈り、
そしてこれらを全て含んだロザリオの祈りという物があります。

これらはどういった内容の物なのか、
これから一つ一つ紹介していきたいと思います。



・主の祈り


(文語)

天にまします我らの父よ、願わくは御名の尊まれんことを。

御国の来たらんことを。

御旨の天に行わるる如く、地にも行われんことを。


我らの日用の糧を、こんにち我らに与え給え。

我らが人に赦す如く、我らの罪を赦し給え。

我らを試みに引き給わざれ、我らを悪より救い給え。

アーメン。



(口語)

天におられる私たちの父よ、御名が聖とされますように。

御国が来ますように。

御心が天に行われるとおり、地にも行われますように。


私たちの日ごとの糧を、今日もお与え下さい。

私たちの罪をお許し下さい。私たちも人を許します。

私たちを誘惑におちいらせず、悪からお救い下さい。

アーメン。


主の祈りとは、聖書に記されているイエスキリストが
こう祈りなさいと伝えた祈りになります。
宗派を問わず、キリスト教では広く祈られているようです。




・天使祝詞(アヴェマリア)


(文語)

めでたし、聖寵充ち満てるマリア

主、御身と共にまします。

御身は女のうちにて祝せられ、

御胎内の御子イエズスも祝せられ給う。

天主の御母聖マリア、罪人なるわれらのために

今も臨終の時も祈り給え。

アーメン。



(口語)

アヴェマリア、恵みに満ちた方

主はあなたと共におられます。

あなたは女のうちで祝福され

ご胎内の御子イエスズも祝福されています。

神の母聖マリア、私たち罪びとのために

今も、死を迎える時も、お祈り下さい。

アーメン。


天使祝詞、アヴェマリアは
大天使ガブリエルが聖母マリアにイエスキリストの御宿りを告げる、
いわゆる受胎告知を祈りにしたものになるようです。
聖母マリアを信仰するカトリックではポピュラーな祈りになります。



・栄唱


(文語)

願わくは、聖父と聖子と精霊とに

栄えあらんことを。

始めにありし如く、

今もいつも世々にいたるまで。

アーメン。



(口語)

栄光は、父と子と精霊に。

始めのように、

今も、いつも、世々に。

アーメン。


栄唱とは、父と子と聖霊、聖三位一体に
栄光がありますようにという祈りになります。
カトリックではこれを小栄唱といい、他に大詠唱と呼ばれる聖歌も存在しています。




・使徒信条


(文語)

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊にてやどり、おとめマリアより生まれ、

ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、

死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり

天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。

かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、

からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。

アーメン



(口語)

私は、天地の造り主、全能の父である神を信じます。

私は、そのひとり子、私たちの主、イエス・キリストを信じます。

主は聖霊によってやどり、おとめマリアより生まれ

ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ

死んで蘇られ、よみにくだり、三日目に死人のうちからよみがえり

天にのぼられました。そして全能の父である神の右に座しておられます。

そこからこられて、生きている者と死んでいる者とをさばかれます。

私は聖霊を信じます。きよい公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、

からだのよみがえり、永遠のいのちを信じます。

アーメン。



使徒信条とは、2世紀中ごろのローマで集成された信条(信仰告白とも。
キリスト教の基本信仰を明確に表したもの)で、新約聖書の要素を
端的に集約したような内容です。
十二節からなり、十二使徒が1節づつ啓示を受けて著わしたものという伝承があります。




・ファティマの祈り


(文語)

ああ、イエズスよ、我らの罪を赦し給え。

我らを地獄の火より守り給え。

また、全ての霊魂、

ことに主の御憐れみをもっとも必要とする霊魂を

天国へと導き給え。

アーメン。



(口語)

主イエス・キリスト、私たちの罪をおゆるし下さい。

私たちを地獄の火よりお守り下さい。

また、すべての霊魂、とくにその御憐れみを最も必要とする霊魂が

天国へと導かれますよう。

アーメン。


ファティマの祈りは、前の方でも説明しましたファティマに出現した聖母マリアが
牧童だったルシア、フランシスコ、ヤシンタの3人に
ロザリオの祈りを一連唱えるごとに付け加えるようにと伝えられたものになります。
また、これを単体でも祈られたりもするようです。




・元后あわれみの母(サルヴェ・レジーナ)


元后あわれみの母

われらのいのち、喜び、希望。 

旅路からあなたに叫ぶエバの子。

嘆きながら泣きながらも涙の谷にあなたを慕う。

われらのために執りなす方。

あわれみの目をわれらに注ぎ、

とうといあなたの子イエスを旅路の果てに示してください。

おお、いつくしみ、恵みあふれる

喜びのおとめマリア。


元后あわれみの母、またはサルヴェ・レジーナとは、キリスト教のカトリックで
聖歌あるいは伝統的な祈祷文として親しまれてきたものになります。
ロザリオの祈りの結びにこれを唱えるのが伝統的な方法になるようです。


キリスト教の祈りは、非キリスト教徒でも祈って良いようです。
何か心が常にモヤモヤしている方や、あるいはイエス様や聖母マリア様に
信仰を捧げてみたいなと感じた方は、試しに紹介した祈りをどれでも
心の中で唱えてみるのもいいかも知れません。

心がスッキリしたり、あるいは高揚感や幸福感に包まれたり等の
いわゆる霊寵というものを感じる方も居るのではないかと思います。
そう感じた方は、もしかしたら自分では気づいてなくても
心や魂の何かがキリスト教にとって良く、あるいは必要とされている方なのかも知れません。
そういう方は、出来れば毎日時間のある時を見つけ、祈りを心の中で唱える事をお勧めします。

またここに紹介した他にも、キリスト教では折に触れて様々な祈りをするようです。
ノベナと呼ばれる、聖母マリアや、聖者に向けて捧げられる九日間の連続した祈りですとか、
その他にも信心業という、主に聖母マリアに捧げられる個人的な願いごとをする祈りがあるようです。

例えば、初土曜日(月初めの土曜日)は聖母マリアに捧げられた祝日になるそうですが、
この日には教会へ行きミサに参加したり、イエスキリストの受難や復活、聖母マリアの喜びや悲しみなどの
ロザリオの祈りの中に含まれる15の玄義と呼ばれる聖書の場面を15分黙想したりといった
祈りが行われるようです。

次は、
キリスト教のカトリックで最も広く行われるロザリオの祈りを紹介したいと思います。


・ロザリオの祈り

これは、ロザリオを用いて行われる祈りになります。
ロザリオとは、十字架とメダル(メダイ)に数珠のついたような、一見すると十字架つきの
珠のネックレスのように見えるものです。

その使い方は、ネックレスのように首にかけるのではなくて手に持って、
祈りを唱えながら珠をたぐり、何の祈りを何回唱えたかを数えながら
一回りする…というものになります。
バラの花輪を編むようにして行われる祈りなので、
ロザリオ(rosario:ポルトガル語)との呼び名がついているようです。

使われるロザリオは正式には教会で祝福される必要があるそうですが、
キリスト教徒でない方もロザリオを手に入れたらそのままの状態で
祈りに使っても構わないそうです。

具体的なやり方としては、
まず十字のしるし(右手を額に上げ「父と」、胸で「子と」、左肩で「聖霊の」、
右肩で「み名によって」、最後は両手を組みアーメンを唱える)を行い、
それから十字架の所で使徒信条を唱え、珠をたぐって主の祈り、
天使祝詞(アヴェマリア)を3回唱え、メダイの所で栄唱、ファティマの祈り…という風に、
1回の祈りごとにロザリオの珠をたぐりながら進みます。
具体的に書き出しますと、


・十字のしるし(父と、子と…)

十・使徒信条
Ι
〇・主の祈り
Ι

〇・天使祝詞(アヴェマリア)3回

Ι
◆・栄唱、ファティマの祈り(唱えたら左側の珠に進む)
Ι
〇・第一玄義、主の祈り        ↑
Ι                  Ι
〇                  Ι
〇                  Ι
〇                  Ι

〇・天使祝詞(アヴェマリア)10回  一
〇                  連

〇                  Ι
〇                  Ι
〇                  ↓
Ι・栄唱、ファティマの祈り
〇・第二玄義、主の祈り
Ι




〇・天使祝詞(アヴェマリア)10回





Ι・栄唱、ファティマの祈り
〇・第三玄義、主の祈り
Ι




〇・天使祝詞(アヴェマリア)10回





Ι・栄唱、ファティマの祈り
〇・第四玄義、主の祈り
Ι




〇・天使祝詞(アヴェマリア)10回





Ι・栄唱、ファティマの祈り
〇・第五玄義、主の祈り
Ι




〇・天使祝詞(アヴェマリア)10回





Ι・栄唱、ファティマの祈り
(ここで、伝統的には結びに元后あわれみの母を唱え一周終わり「一環」)


という様に進みます。
ここに出てくる玄義とは、聖書のイエスキリスト、聖母マリアの喜びや苦しみの場面の事で、
五つの喜びの玄義、五つの苦しみの玄義、五つの栄えの玄義と各玄義五つづつ三種類、
計15の玄義があります。
これを一周づつ変えながら三周、三環祈るのが正式なロザリオの祈りとなるようです。

しかし、一般的には1日に一周、一環の祈りが行われるのが通常のようで、
その場合には月曜と水曜に喜びの玄義、火曜と金曜に苦しみの玄義、
木曜と土日は栄えの玄義…と曜日ごとに決まっている玄義を唱えるようです。
玄義の内容を書き出しますと、


・喜びの玄義(一環目、または月・木曜日)

第一玄義
この一連を献げて、聖母が御告げを受け給いたるを黙想し、
その御取り次ぎによりて謙遜の徳を乞いねがわん。

第二玄義
この一連を献げて、聖母がエリザベトを訪問し給いたるを黙想し、
その御取り次ぎによりて人を愛する徳を乞いねがわん。

第三玄義
この一連を献げて、主の降誕し給いたるを黙想し、
聖母の御取り次ぎによりて清貧の徳を乞いねがわん。

第四玄義
この一連を献げて、聖母が潔めの式にあずかり、主を聖殿に献げ給いたるを黙想し、
その御取り次ぎによりておきてを守る徳を乞いねがわん。

第五玄義
この一連を献げて、聖母が主を聖殿にて見出し給いたるを黙想し、
その御取り次ぎによりて主を愛する徳を乞いねがわん。


・苦しみの玄義(二環目、または火・金曜日)

第一玄義
この一連を献げて、主がゲッセマネの園にて死するばかり憂い給いたるを黙想し、
聖母の御取り次ぎによりて罪を痛悔する恵みを乞いねがわん。

第二玄義
この一連を献げて、主がむち打たれ給いたるを黙想し、
聖母の御取り次ぎによりて罪を償う恵みを乞いねがわん。

第三玄義
この一連を献げて、主がいばらの冠をかむせられ給いたるを黙想し、
聖母の御取り次ぎによりて侮辱を恐れざる恵みを乞いねがわん。

第四玄義
この一連を献げて、主が十字架を担い給いたるを黙想し、
聖母の御取り次ぎによりて苦難を甘んじ受くる恵みを乞いねがわん。

第五玄義
この一連を献げて、主が十字架にくぎ付けにせられて死し給いたるを黙想し、
聖母の御取り次ぎによりて救霊の恵みを乞いねがわん。


・栄えの玄義(三環目、または水曜・土曜・日曜)

第一玄義
この一連を献げて、主の復活し給いたるを黙想し、
聖母の御取り次ぎによりて信仰の徳を乞いねがわん。

第二玄義
この一連を献げて、主の昇天し給いたるを黙想し、
聖母の御取り次ぎによりて天国の福楽を深く望む心を乞いねがわん。

第三玄義
この一連を献げて、聖霊の降臨し給いたるを黙想し、
聖母の御取り次ぎによりて聖霊の賜物を乞いねがわん。

第四玄義
この一連を献げて、聖母の被昇天を黙想し、
その御取り次ぎによりて善き終わりを遂ぐる恵みを乞いねがわん。

第五玄義
この一連を献げて、聖母が天使と人類との元后に立てられ給いしを黙想し、
その御取り次ぎによりて永遠の冠を乞いねがわん。


以上が、ロザリオの祈りの中で唱えられる
喜び・苦しみ・栄えの玄義となります。



・お告げの祈り

(文語)


主のみ使いの告げありければ、

マリアは聖霊によりて懐胎したまえり。


(天使祝詞・めでたし、聖寵充ち満てるマリア~)


我は主のつかい女なり、

おおせのごとく我になれかし。


(天使祝詞・めでたし、聖寵充ち満てるマリア~)


しかしてみ言葉は人となりたまい、

我らのうちに住み給えり。


(天使祝詞・めでたし、聖寵充ち満てるマリア~)


天主の聖母、我らのために祈り給え。

キリストの御約束に我らを適わしめ給え。


祈願 主よ、我ら天使の告げをもって、

御子キリストのご託身を知りたれば、

願わくはそのご苦難と十字架とによりて、

ついにご復活の栄に達するを得んため、

我らの心に聖寵を注ぎ給え。

我らの主キリストによりて願いたてまつる。

アーメン。



(口語)


主のみ使いのお告げを受けて、

マリアは聖霊によって神の御子を宿された。


(天使祝詞・めでたし、聖寵充ち満てるマリア~)


私は主のはしため、

お言葉通りになさいますように。


(天使祝詞・めでたし、聖寵充ち満てるマリア~)


み言葉は人となり、

私たちのうちに住まわれた。


(天使祝詞・めでたし、聖寵充ち満てるマリア~)


神の母聖マリア、

私たちのためにお祈り下さい。

キリストの約束に適うものとなりますように。


祈願 神よ、み使いのお告げによって

御子が人となられた事を知った私たちが、

キリストの受難と十字架を通して

復活の栄光に達する事ができるよう、

恵みを注いでください。

私たちの主イエズス・キリストによって。

アーメン。


お告げの祈りは、天使祝詞と同じく大天使ガブリエルが
聖母マリアにイエスキリストの受胎を告げる聖書の場面を祈りにしたもので、
イエスキリストの救いが私たちにもたらされるよう祈られるものです。

この祈りは朝6時、昼12時、晩6時の1日3回(最低昼に1回)唱えられるものになります。
バチカン市国や、古くのキリスト教カトリックの国では、この時間帯に教会で鐘が鳴らされて
それに合わせて作業の手を一旦休め、皆で一斉この祈りが行われるようです。
伝統的に、この祈りは立って行うものとされているようです。



・アレルヤの祈り


(文語)

天の元后喜び給え。アレルヤ。

御身に宿りし給いし者は。アレルヤ。

のたまえる如くよみがえり給えり。アレルヤ。

我らのために天主に祈り給え。アレルヤ。

童貞マリア喜び給え。アレルヤ。

主、まことによみがえり給いたればなり。アレルヤ。


祈願 聖子(おんこ)イエズス・キリストの

ご復活をもって世界を喜ばしめ給いし天主、

願わくはその御母童貞マリアによりて、

終わりなき命の喜びを我らに得しめ給え。

我らの主キリストによりて願いたてまつる。

アーメン。



(口語)

神の聖母マリア、お喜びください。アレルヤ。

あなたに宿られた方は。アレルヤ。

お言葉通りに復活されました。アレルヤ。

私たちのためにお祈り下さい。アレルヤ。

聖マリア、お喜び下さい。アレルヤ。

主はまことに復活されました。アレルヤ。


祈願 神よ、あなたは御子キリストの復活によって、

世界に喜びをお与えになりました。

キリストの母、聖マリアにならい、

私たちも永遠の命の喜びを得ることが出来ますように。

アーメン。


アレルヤの祈りは、
復活節の間(復活の主日から聖霊降臨の主日、年度によりますが4月~6月くらいまで)に
お告げの祈りに代わって唱えられるものになります。
イエスキリストの復活と、聖母マリアの喜びを記念し栄光を称える祈りとなるようです。



・天主の十戒


(文語)

第一、われは汝(なんじ)の主なり。われを唯一の天主として礼拝すべし。

第二、汝、天主の名をみだりに呼ぶなかれ。

第三、汝、安息日を聖とすべきことをおぼゆべし。

第四、汝、父母(ちちはは)を敬うべし。

第五、汝、殺すなかれ。

第六、汝、姦淫(かんいん)するなかれ。

第七、汝、盗むなかれ。

第八、汝、偽証するなかれ。

第九、汝、人の妻を恋(こ)うるなかれ。

第十、汝、人の持ち物をみだりに望むなかれ。


(口語)

第一、私は、あなたの主なる神である。
  
   私のほか、誰をも神としてはいけない。

第二、あなたは、神の名をみだりに呼んではならない。

第三、あなたは、安息日を聖とせよ。

第四、あなたは、父母を敬いなさい。

第五、あなたは、殺してはならない。

第六、あなたは、姦通してはならない。

第七、あなたは、盗みをしてはならない。

第八、あなたは、偽証してはならない。

第九、あなたは、他人の妻に想いをかけてはならない。

第十、あなたは、他人のものをみだりに欲してはならない。


これは、有名な十戒です。
カトリックでは、ミサの始まる直前に唱えられたりするようです。
旧約聖書でモーセがシナイ山で十戒を授けられる場面は非常に有名ですが、
旧約聖書の十戒とこの天主の十戒は少しだけ違いがあるようです。
その違いについては、少し調べて後ほど考察したいと思います。


ここで紹介した以外にも、様々な祈りがあるようです。
祈りや信仰に興味が出た方は、色々調べてみて不思議と気に入った、
あるいは何か心惹かれるものがありましたら、生活の中にそれを取り入れてみるというのも
いいのかも知れません。

そして、どうやら祈りというものは、一度に長時間行うよりは
継続して行う事の方が重要なようです。

なので、何か心や人生にいい効果がありそうだし始めてみようかな、と思っている方は
初めのうちはごく手短かなものから、それこそ心の中で神様やイエスキリストや
聖母マリア、または大天使等の聖書の内容をイメージして
聖なる方々の御名を称えます…と、ふと思い出した時や何かを始める時に心の中で
軽く唱えるようなやり方から始めていけば習慣として身につくのではと思います。

もちろん、日本人だし仏教の方が馴染みがあるなあ、という方は
仏様をイメージして、一日の折々に軽く祈りを捧げるというのでも
構わないと思います。

仏教にも、実はキリスト教の思想や影響が多く見られますし
そして、聖母マリアを観音様に模したマリア観音というのも存在しています。

そして、秋田に出現された聖母マリア様は、
形に拘らず、とりあえず信仰を持ってくださいとメッセージを残されたそうです。

なので祈りによる霊的な恵みを生活の中に取り入れてみたいな、と思う方は
日本で多くの人々に馴染んでいる仏教と、キリスト教の聖母マリアを融合させた
マリア観音像を思い浮かべて心の中で手を合わせてみるのが
入り口としていいのかも知れません。

そしてまた、どんな小さな事でも毎日継続をするというのは実はけっこう大変な事ですが、
面白いことに中には祈りを特に苦もなく毎日継続できるという方も居らっしゃるようです。
そういう方は、祈りの才能に恵まれていると言われていますが、
果たして、そこにはどんな作用が働いているのでしょうか…。


・願いごとをする場合

祈りの中で、願いごとのある方も多いと思います。
聖書の中でも、信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる…という、
イエスキリストの言葉が何か所かに出てきます。

しかし、例えば100万円欲しいと安直に願ってみても適わないだろう事は
想像に難くないと思います。

いえ、適うとしても、想像を超えた苦労の末にやっとの事で…と
自分の想像もできなかった適い方になる可能性すら考えられます。

よくある事ですけれど、我々は安直に寺社仏閣に行ってお賽銭をあげ、
仕事が上手く行きますように…等、現世利益を願ってしまいがちです。

しかしどうやら、信仰の本質というものはそうではなく、
神様を拝し感謝を表すというのが本質的なものであるようです。

ですので、真剣に叶えて欲しい願いごとがある方は、普段から節制などして
なるべく清い生活を心がけ、願い事にもよりますが何週間か、あるいは何か月か
神に崇拝と感謝の気持ちを込めて祈りを捧げ、そして初めて願いごとをして見る…
というやり方をして見れば、叶う可能性が高くなるのではと思われます。

もちろん、道徳や常識に反した願いは叶えてもらえないそうです。
祈っても叶わない場合は、生活のあり方か、祈りの心の姿勢に良くない所があるから…
とも言われています。
また、神様に何らかの事情があって、願いが叶わないという場合もあるようです。

そして一つ注意しなくてはならないのは、安直な願いの叶い方は
あまり期待しない方がいいのかも知れないという点です。

例えば、仕事がうまく行きますように…と願った場合、逆に、
様々な困難があなたに降ってくるという事も考えられます。

しかし、それら困難を乗り越え対処しているうちに、気がつけば
当初想定していたよりも大きな業績が達成された、といったような、
短期的ではない叶い方をする場合もあったりするのではと思われます。

なので、願いごとをしてみて叶わないどころか逆に苦しくなったという場合でも、
すぐに諦めずに困難に向かっていけば、思いがけない大きな成果となって
返ってくるのかも知れません…。

聖書の中に、神は耐えられない試練は与えない、という言葉が出てきます。
そして試練とともに、耐えられるように脱出の道も与えられるともあります。

どうやら、神様は見込んだ人間にはあえて厳しい道を用意されるようです。
なので願いごとをしてみて簡単に叶ったなら、
あなたの普段の行いが良かったという事でとてもいい事だと思いますが、
逆に困難が生じた場合はあなたは神様に見込まれているという
さらなる恵みのサインという事になります。

一方、願いが叶いもしないし普段と何も変わらない…というのは、
その願いは叶わないのかも知れません。
願ったことが叶うかどうかは、普段の心がけ次第、
という風に考えられるのではと思います。


・願いの性質

これは霊的なものに属する事柄なので確証的な事は言えませんが、
イエスキリストと聖母マリアに願う場合でそれぞれ違いがあるのではと
考えられる所があります。

イエスキリストを念じて願いをかける場合には、勉強や仕事での導きなど、
どちらかと言えば外的な要素を願ったほうが
特に効果的に表れるのではと考えられます。

そして、聖母マリアを念じて願いをかける場合には、
苦しみからの保護ですとか、心の安定など、内的な要素によく効果が
表れるのではと思われます。

しかし、信仰とは、本来的に敬愛の気持ちを捧げる事…というのを、
忘れてはいけません。

叶えて欲しい事を要求するだけになってしまうのは、
いけない事とされています。

なので普段から自分の範囲で良い生活を心がけ、
自分で可能な事は自分でこなし、1日何分かでも祈り、
どうしてもという時に願いをかけてみる…というのが
願いを叶えてもらいやすくなるコツなのかも知れません。

そして、願いというものは自分のためではなく、
人のために願う時にこそよく効果が表れるそうです。

なので、例えば会社などですぐ怒ったりするような嫌な相手がいた場合、
彼より出世させて下さい…と祈るのではなく、逆に、
彼の心に平穏を…と祈った方が効果が表れやすいという事になります。

聖書には、迫害する者のために祈りなさい、
というイエスキリストの言葉があります。

なので、環境が苦しく感じてる時はむしろ自分の利益を願うのではなく、
発想を転換して周囲の心の平穏を願う…という方が叶いやすく、また
聖書の意に適っているのかも知れません。

そして、くれぐれも
安直な願いごとをするはやめておいた方が無難です。

求めよ、さらば与えられん、という聖書の言葉がありますが、
何かを求め達成しようとする場合には困難が付き物です。

願いごとをする場合には、それは自分にとって本当に必要な事なのか、
聖書の意図する所に反してはいないか、自分の力で達成が可能ではないか、
そういう事をよく検討する事が必要となって来ます。

願いはするにしても、少しの心の平穏や、またはどうすればいいか心の中で問いかけて
導きを願ったり、それか世の中や周りが平穏である事を願う、
そういったものにしておいた方が無難に思います。

自分の事を願うより、周りや世の中の人々、さらには聖書にある通り
敵に対して平穏を祈る、そうした方が問題はより容易に解決する、
そういったものなのかも知れません。

情けは人のためならず、とことわざがありますが
あなたの周りや世の中が平穏になれば、それはとりもなおさず
あなた自身の利益ともなるのです…。


どうやら、神様に願いをかけた場合は、ものにもよると思いますが
大抵の場合そのものではなく達成するための道が用意される…と
そんなイメージになるのではないかと思われます。

なので、むやみやたらと大きな願いをうっかりしてしまうと
人生に大きな苦労が訪れる、という場合もあったりするのかも知れません。

そう考えると、なになにを叶えて下さい、と単純に物事を願うのではなくて
こういう事を達成したいのですが、どうしたらいいでしょう…と、
心の中でイエス様やマリア様に相談するようなやり方の方が
願い事はスムーズに達成されやすいのではと思います。

叶えたい事があって、心の中でどうしたらいいでしょうと相談をしておけば、
ふといい方法が思いついたり、または本、テレビ、ネットを見ている時に
偶然有用な情報が目に入ったり…と、そういう効果があるように思えます。

どうやら、無限に属する霊なる方たちも
地上に生きる自分たち人間と全く同じような感情の部分を持っているのでは、
と思われるところがあります。

なので、願い事をする場合は一方的にお願いをするのではなくて
相談し、物事の解決に向けて一緒に協力し合うイメージでするのが
一番良いのではないか、と思われます。


・祈りの力

霊的な世界が実際のものである以上は、
祈り、願いには実際に物事を変える力がある事になります。

ファティマに出現した聖母マリアから、共産国だった旧ソビエトの回心のために
ロザリオの祈りにファティマの祈りをつけ加えるよう要請された
ファティマの事例では、その要請通りに世界中の信者が祈り、
そして共産国旧ソビエトは崩壊して現在のロシアとなりました。

このように、世界中の人々が心を一つにして祈るなら
世界は変える事ができる…という、これは大きなしるしのようにも思えます。

なので、個人的な充足に祈りを使ってもいいと思いますが、
それよりも祈りの力は世界の平和に使うのが1番ではないかと思います。

世の中には、苦しんでいる人達が沢山います。
そういった人達に向けて、人々の苦しみが減りますように、
世界が良くなりますように…と祈るのが、
祈りの力の良い使い方ではないかと思います。

そして、我々の生きる世界だけではなく、天界、
それから不幸にも煉獄や地獄と呼ばれる所にいる人々に向かっても平穏を祈る、
というのがより世の中を良くする秘訣ではないでしょうか。

特に、煉獄、そして地獄は非常に苦しい所であると
昔から伝えられています。
そこにいる霊魂達は、もしかしたら大変な苦しみのあまり
安穏と生きる地上の人々に対して非常な憎しみを抱いているのかも知れません。

それをなだめる慰霊や、施餓鬼などは
昔から行われて来ました。

皆さんも、平和のために祈るなら
我々の住む世界だけではなく、天界と、それからイエス様マリア様を通じて
地獄にいる人々にもお恵みがありますように…と
祈ってみるのはいかがでしょうか。
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