第35話

文字数 5,474文字

 
      その三十五

 森田先生宅に居候していた昭和四十八年に極秘に女児を出産した史歩さんは、まわりに説得されたすえにその子を森田先生の遠縁にあたる家に里子として出したみたいなのだけれど、歌手活動に一区切りがついたら子どもを引き取るという当初の約束は、子どものなかったその家がやはり情がうつってなかなか子どもを返さなかったり、また一区切り後の史歩さんが非常に不安定な精神状態だったりなどでけっきょく消滅してしまったようで、ちなみに、
「わたしは真理子を捨ててデビューしましたから、強くはいえなかったんです。それに、その家はとても裕福でしたし……」
 といっていた史歩さんは、出産によってデビューが遅れた関係で、歳のほうもついでにふたつほどさばをよんでいたとのことなので、じっさいにはランちゃんや太田裕美ちゃんよりも年上ということになるのだけれど、三十数年前のぴちぴちの史歩ちゃんをご懐妊させた真理子さんの実父にたいして史歩さん自体は当時からまったく未練がないらしく、
「森田先生がいうには、五年ほどまえに病気で死んだようです。からだもこころも弱い男でした。自称ミュージシャンだったんです」
 と史歩さんは毅然とおっしゃってくださっていたので、今後ファミリー総出でその男を捜索することもないし、また蘭新組が斬り込みに行くこともない。
 通称史歩ちゃんシェルターからそっと出たぼくたちは、いったん二階にあがって、
「寝室でおもいっきり寝てました」
「そうですか――おもいっきりっていうくらいだから、三回くらいかな……」
 と番頭さんにうその説明をしたのだけれど、キッチンテーブルに、
「こっちのほうが、せまくていいでしょ」
 と鍋を用意してくれた番頭さんは、
「わたしがいるとお邪魔なんで――あの時間のあいだに三回もか……」
 とそれには手もつけないで帰る支度をはじめていた。
「いやいや、そんなよけいな気をまわさないでくださいよ、番頭さん。いっしょに食べましょう。ね、ね、ああ、帰っちゃった……」
「ああいう性格なんです。だいじょうぶよ」
 史歩邸の庭では昨夜にひきつづいて英光御老公が、
「なんとしても捜し出すんだ! 行けぇぇぇ!」
 と指揮をとりはじめていたけれど、御老公にもなにも告げずに番頭さんは軽トラのエンジンをかけていたから、あきらかに番頭さんは深読みしすぎだった。
 ダイエット中の史歩さんは白菜やネギばかり食べていて、肉にはほとんど手を出さなかったが、食事量はむしろより減らしていたのにここにきて体重が増えてしまったのは、子どもより歌手デビューをとった自分の因果だと史歩さんは捉えているようだった。
「わたし、里子に出してからは子どもと一度も会ったことがないんですけど、最近毎日のように真理子に会う夢をみるんです」
「夢のなかで、真理子さんはどんな姿をしているんですか?」
「それがわたしの若いころとおなじなんです。そして当時のステージ衣装を着て、わたしのまえでほほえんでいるんです。わたしにはもうその衣装は着れませんから、なにかそれを見せつけることによって、わたしを責めているのだと思います。久積史歩ちゃんの復活なんて、やっぱり不可能なんだわ……」
 ぼくが、
「真理子さんは責めているわけではなくて、なんていうか、大きくなると母親のものをもらったりするでしょ? ああいう感じでそのワンピースを着てたんじゃないですかねぇ。うちの姪もまだ小二ですけど、母親の指輪だとかネックレスだとかを、ときどき身につけたがっていますよ」
 という説を出しても史歩さんはそれを決して信じようとはしなかったけれど、翌日弥七たちが真理子さんを連れて○○村に凱旋帰国してきて、
「史歩さん、真理子さんですよ」
「えっ!」
「お母さん、はじめまして♪」
 とワンピース姿でニコッとほほえんだときには、
「ほら、ぼくのいったとおりじゃないですかぁ、ね」
「は、はい」
 と史歩さんは深くうなずいていた。
 キャンディーズのビニールプールをみつけた店でまたぞろ史歩さんにそっくりな御婦人と対面した南さんは、弟分の大島さんがいたこともあって、
「やあ!」
 とアニキ面して声をかけたみたいなのだけれど、
「お嬢さん、久積史歩ちゃんていう、むかしの歌手にそっくりですね。天地真理さんにも栗原小巻さまにも似てますが……」
 とマゲを結った南さんがいうと、真理子さんはナンパをはねつけるような対応もせず、
「ええ! 母のこと、ご存じなんですか!」
 とむしろ積極的に交流を求めてきてくれたようで、ちなみに史歩ちゃんグッズを長年収集しているという真理子さんに、
「でも、この白いワンピースは天地真理さんのやつですよね?」
 とおききしてみると、真理子さんは、
「いいえ。これは天地真理さんのとほとんどおなじですけど、お腹のラインの順番がちょっとちがうんです。上から紺、黄色、赤の順番が真理さん。紺、赤、黄色が母モデルなんです」
 といちばんいいときの天地真理さんのように首をかわいくかしげてほほえんでくれたのだけれど、三十代半ばという真理子さんの年齢問題は、
「品子のメイク術にかかれば、わけないわよ」
 とすぐ妹に連絡をとっていた玲子のいうとおりかもしれないが、声の質は似ていても歌唱力までお母さんとおなじとはかぎらなかったので、演出家であるぼくは史歩さんの代役としてステージにあがれるか見極めるために史歩ちゃん兵うんぬんと理由をてきとうにつくって真理子さんに川のほとりでうたってもらうことにした。
「倉間さん『やし酒ハイボール』でいいの?」
「ええ。あと史歩さんはファーストアルバムで天地真理さんの『ミモザの花の咲く頃』をカバーしてますよね。だからそれもうたってください。あと川のほとりで何なんですけど、辺見マリの『経験』も、うたってもらおうかな」
 真理子さんの歌声を聴いて、
「歌もうまい! お母さんとそっくり♪」
 と「ズンズン・チャーカ、ズンズン・チャッ!」のリズムで史歩邸までもどったぼくは、専門家にも聴いてもらおうと思って、みんみん氏にすぐ電話したのだけれど、その日の晩にかおるさんと旅先から駆けつけてきたみんみん氏も真理子さんの歌を聴くと、
「倉間さん、よかったですね。これでオーナーの誕生日に間に合います。うん、よかった、ほんとうによかった……」
 とかおるさんの胸もとより取り出したハンカチで涙をぬぐっていて、みんみん氏はハンカチをさがすさい、相当もぞもぞやったのちにそれを取り出していたので、かおるさんの涙はまたちがう理由によるものなのかもしれなかったけれど、それでも氏の涙によって、南さんも史歩さんも番頭さんもうるうるしつつハンカチを噛みかみしていたから、
「おそらく草葉の陰で、史歩ちゃん兵も泣いてるよ」
 とぼくは真理子さんの肩をこれ以上はないというタイミングでそっと抱いていて、それから八兵衛にも、
「ところで、裕美ちゃんプールはどこですか? まさか、うっかりわすれてきちゃったんじゃないでしょうね」
 とこちらも抜け目なく、耳打ちしたのであった。
 復活コンサートの総合プロデュース(?)は、もともとみんみん氏がやることになっているので、当日までみんみん氏は村に残って総仕上げのレッスンをほどこすことになったのだけれど、〈まるなか〉で村長と泡交をあたためたのちに実家に帰ると、K市内はKの森動物園からまた脱走した「霜降り尾長猿」の話題でなにげにもちきりになっていて、つぐみさんがいうには、なんでもこの霜降り尾長猿はとても凶暴で、民家に侵入して食べ物をあさったり、通行人にジャンピング回転錐揉みキックをお見舞いしたりしているという。
「しかしあの動物園、しょっちゅう脱走されてて、あぶなくてしょうがないね」
「うん。でもコシガヤクジャクは捕まえたみたいよ」
 孔雀として捕獲されていないかとふと心配になって協子さんと香菜ちゃんとすみれクンに電話したぼくは、
「ああ、よかった」
 とそれぞれにいったのちに史歩さんの復活コンサートのこともついでに説明しておいたのだけれど、協子さんだけはこちらから哀願したわけでもないのに、
「じつは、あれからやみつきになってるんです」
 と当日ノーパンになってくださることを確約してくれて、総合プロデューサーにその旨を伝えると、みんみん氏はおそらく真理子さんになにか指示をあたえているあいまに、
「そうですか。偽ジュリーさんも協力してくれるそうです」
 と心ここにあらず、といった感じでそれを了承していた。
 夕方、Kの森テレビにチャンネルを合わせてみると、ちょっとまえの生放送中に成功したらしい霜降り尾長猿捕獲の瞬間がくりかえし流れていたが、追いつめられたのちに、ある民家の窓を自力で開けて侵入した霜降り尾長猿は、そのおなじ窓からぐったりして出てくるところを捜索隊にとり押さえられていて、侵入された部屋の住民はテレビ局のインタビューに、
「食事してたら、いきなり入ってきたんですけど、そのうち勝手に出て行っちゃったんです」
 とつねにカメラ目線でピースをつくりながらこたえていた。
 インタビューを受けていたのがYORIKOだったということをかんがみると、霜降り尾長猿はおそらくあの部屋の散らかりざまに度肝を抜かれて戦意を喪失したのだろうが、真理子さんの住んでいる地域ではアマゾネスさんの屋台通いが一種の妖怪騒動として取り上げられていて、
「そういう市に出向いてうたうの、ちょっと怖い気がする……ホントに妖怪じゃないの? 倉間さん?」
 とわりと本気で心配していたので、霜降りくんにはたしょう気の毒な気もするが、YORIKOの部屋に尾長氏が突撃訪問してくださったのはファミリーにとっては幸運だった。
 じっさいこれ以降のわれわれにはそれまで以上の追い風がふいてきて、『カレーを食べるとカレーシューがする』の市民会館公演が追加されたり、オーナーのお誕生日会が大成功におわったりしていたのだけれど、コンサートの翌々日に送られてきた真理子さんの手紙には、
「あの日はアマゾネスさんが怖くて、控え室に閉じこもっていたんです」
 うんぬんというお詫びがしるされてあって――しかし当日の真理子さんは、圧倒的な輝きをたしかに放っていたのだ。
 とくに圧巻だったのは、白雪姫の衣装で『やし酒ハイボール』をうたったときで、そのさい真理子さんは特別席にいたわれわれ一人ひとりの手にやさしくふれながら祈るように熱唱していたのだけれど、順番を待っていたぼくは、いま真理子さんにふれてもらったら奇跡とおもえることも叶う、という気持ちになっていて、だからコンサート後の晩餐会でも会場まで出向いてにぎっていた〈芳ずし〉の大将に、ウニ、イクラ、トロ、ウニ、トロ、ウニ、ハマグリ、ハマグリ、ハマグリ、赤貝、ハマグリ、ハマグリ、赤貝、ハマグリ、赤貝、ハマグリ、ハマグリ、ハマグリ、ハマグリ、ハマグリ、ハマグリ、ハマグリ、ハマグリと躊躇なくたのんでいて、
「旦那、ハマお好きですね」
「ああ、うまいねぇ、ハマグリ。ハマグリはムシのドク。チュウチュウ、タコカイナ」
 という会話のあとにも、となりのすみれクンに、
「なあ、赤貝にぎってやろうか?」
 とある種の奇跡を受けなければとてもじゃないけれどいまどき許されない口説き文句(?)を連祷していた。
 真理子さんの手紙を文面どおりとれば、
「あの日、ステージでうたっていたのは、じつは史歩さんだった」
 ということもできて、オーナーは史歩さん説、みんみん氏は神の恩寵を受けた史歩さん説、南さんは真理子さん説、さおりさんは宇宙人説、協子さんは「あれだけの光を放出していたってことは……」という理由で史歩さんノーパン説、という見解なのだけれど、後日、
「わたし、まだ知らないので、赤貝、にぎってもらいにきました」
 とたずねてきたすみれクンにたいして、わたくし倉間鉄山がどう対応したのかもいろいろな説があって、しかしそれについては、
「スケベ根性がからんだ問題は、なるべく和貴ちゃんにはふせておくんだぞ、倉間くん。おれの根回しのよさ知ってるだろ? だから女房にもぜんぜんバレてないわけだ。あはは、あはは!」
 と助言してくれたオーナーにしたがって、ここには記さないことにする。


「ただいま帰りました」
「お帰り、和貴子さん」
「ねぇ鉄山さん、さっき〈ケニヤ〉でお紅茶をいただいてましたらね、すみれちゃんが『倉間さんは赤貝をにぎるのも食べるのも、とっても旺盛だった』って、いつもの申告もせずにみんなにうちあけてたんです。市民講座で指圧マッサージだけじゃなく、お寿司のにぎり方も習ってらしたの?」
「あ、あのねぇ、そうなのよ鉄山ね、そうなのそうなの、あっ、きょう、ウチ、お大根、あったかしら? あっ、いけない『牧場のチュツオーラ牛乳』切らしてたんだわ。いま買ってきますわ。 和貴子さん、鉄山、これからお買い物に出てもよくって? よくって?」
「香菜ちゃんのノーパン教育って、どういうものですの?」
「あっ、いやン。ノーパン。パンもなかったんだわ。八枚切の食パンわたくし買ってきますわ買ってきますわ買ってきますわ」
「協子さんに土下座して頼んだんですって?」
「ででで、でもでも、もう、どどど土下座土下座は、ししし、してないですよ。だだだだって、土下座しなくてもノーパンになってくれるんですよ」
「自発的に?」
「そうなんだよ! このあいだもさ、ノーパ……あっ、いけない……」


    (第四部 了)
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み