第28話

文字数 3,678文字

 
      その二十八

 ユタカ叔父さんに電話をかけてみると、英光御一行はあさってごろまでには紀子の嫁ぎ先あたりまで行脚できるとのことだったので、ぼくはともかく紀子姉さんに事情を話して例の旧家に御一行を二、三日泊めてもらうよう段取りしておいたのだけれど、かんがえてみれば、あそこの頑固じいさんはやたらに健康を誇っていて、たとえ病気のおとっつぁん役をやったとしても途中でまちがいなく歩数計自慢などをするだろうし、娘役のほうも紀子お姉ちゃんだったり小姑の“のんちゃん”だったりだと、英光御老公がへそを曲げるかもしれなかった。
 香菜ちゃんは下宿の課題を終了して、もう実家にもどっているので、ほんらいであれば香菜ちゃんに娘役をたのむところなのだけれど、協子さんが連日サイン会や講演に追われている関係で娘の香菜ちゃんもなにかといそがしいみたいだったから、
「はい、四つん這いの姿勢から徐々にスタンスをひろげていく! はい、もっとひろく! はい、もっともっとひろく!」
 程度の振付練習はできても、遠出となるとたぶんむずかしいだろう。
 カレーライスファミリーの動静を細かく調べあげている山崎くんは、こちらがこれだけ酒を飲んでいてもまだどこかナルシス輝男先生がカレーパンを購入していたことなどがひっかかっているという感じだったが、ナルシスさんは、おそらくおつとめ品群のなかからただボリュームのあるものを選んだだけだろうし、そもそもオーナーだって〈ケニヤ〉で、たまにドライカレーを食べている。
「おれだってシューマイのやつとかもあったのに、カレーコロッケ弁当を選んだことあったぜ」
 と山崎くんの気持ちを楽にさせるためにいうと、
「そうですか。いやぁ、わたしも永倉くんに、カレーノイローゼだっていわれて、考えすぎかなぁとも思っていたんです」
 とやっと山崎くんは猪口を湯飲みにもちかえていたが、せんぐり本醸造をこの大ぶりの湯飲みでグイグイやると、実直な山崎くんもたしょう気がゆるんできたのだろう、
「しかしそのスーパーデビルポーズっていうの、いちど観てみたいですなぁ」
 とニタニタしてきて、
「よし! ためしにきいてみようか!」
 と山崎くんのためというか、ほとんど自分自身のために香菜ちゃんに問い合わせてみると、香菜ちゃんは、
「あっ、コーチ! 母がたいへんなんです! サインのしすぎで、腕が、腕が……」
 と自宅でおもいのほか困っていたのだった。
 指圧マッサージの腕に覚えのあるわれわれは、もちろんこのあとすぐ香菜ちゃん宅に向かったのだが、市民講座で七級を取っただけのぼくがやるよりも〈ホテル・マーライオン〉にて長年奉公していた山崎くんに揉んでもらったほうが協子さんにとってはいいに決まっているので、ぼくは悔し涙を文字通り流しながらも、
「とにかく、お願いします――ああ、白くてつるつる……白くてつるつる……」
 と山崎くんにこの大チャンスをゆずったのである。
 じっとすわっていると、
「いえ、奥さん、指圧ではなく、ほんとうは紅茶を飲みながら、チュパチュパさせてもらいたいのですよ」
 などというセリフを練習してしまいそうだったので、ともかく香菜ちゃん相手にお宅拝見ごっこをすることにしたのだが、
「ほおー! ここが寝室ですかぁ、すばらしい、なるほどぉ。それでは、つづいて今度は協子さんのおパジャマを拝見させてもらいましょうか、ええ、ええ」
 とつい本音をもらすと、
「はい」
 と香菜ちゃんはすみやかに寝間着を出してくれた。
 協子さんが愛用している寝間着は「Kの森テレビショッピング」で定期的に紹介されている“幸運を呼ぶネグリジェ”のピンク系のやつだったので、協子さんを崇める気持ちは
「紅茶を飲みながら片手でお揉みしたいんスよ」程度にまで一瞬降下してしまったのだけれど、香菜ちゃんに詰問すると、協子さんはブルー系のやつも二枚ずつもっているとのことだったので、しばし検討したすえに、どちらかといえばスーちゃん党であるぼくは、
「じゃあ香菜ちゃん、こっちのブルー系のほうのみを着て、夜道を歩いてみようか。テレビショッピングの宣伝では『お出かけ着にもなる』って、豪語してるんだし」
 という方法で、スパルタ教育をほどこすことにしたのである。
 着がえるさい、
「のみっていうことはノーパンですか? コーチ」
 と香菜ちゃんは寝室をいちおう出ていたぼくにきいてきたので、和室でマッサージを受けている協子さんにきこえないかと心配しながらも、
「うんうん、そそそ、そうしてくれるそうしてくれる、ももも、もちろん、きみ自身のためにだよ、かかか改善だからね、改善改善、恥ずかしがりやさんのね」
 とぼくはドア越しにこたえたのだけれど、夜道をひとりで歩くのはあぶないし、こちらの責任もやはりあるにはあったので、
「じゃあ審判員として、同行するよ」
 と課題には――あくまでも公的な立場として――協力することにした。
 Kの森テレビショッピングが、この“幸運を呼ぶネグリジェ”を紹介していると、
「こんなジュディー・オングみたいなの、いったいだれが買うのかしらね」
 といつもつぐみさんはいっているのだが、そのつばさ(?)を、人が通るたびに、ひろげなくてはならない香菜ちゃんは、意外にも、
「ねぇコーチ、むかしノーパン喫茶って本当にあったんですか?」
 という感じで、むしろこちらが恥ずかしがりやさんになってしまうくらい、大きくつばさをひろげていた。
 それだけバタバタやっていたのだから、栗塚くんに、
「倉間さん、そっちは危険だ。こっちの裏道を行こう。さあ、香菜さんも」
 と指示を受けなかったら、ぼくたちはきっと捜索隊の人たちに見つかっていただろうけれど、界隈を巡察していた栗塚くんはKの森動物園の職員などが懐中電灯をもってうろちょろしているのをとうに知っていて、
「今朝、動物園のコシガヤクジャクが、いなくなった。K市民新聞の夕刊にも出てる。倉間さん、おれは武州サンタマの百姓のせがれだ。動物園なんかに興味はねぇ。しかし逃げ出したのはクジャクだ。動物園の職員たちも、そのままにはしておかないだろう。名誉にかけて、かならずクジャクを見つけ出す。見つからなかったら、ニワトリでもなんでも拾ってきて、きっとコシガヤクジャクだと言い張る。これはおれの勘だ」
 とぼくたちをいち早くかくまってくれたので、おかげさまでクジャクとして捕獲されずに済んだし、ノーパンの問題も表沙汰にならずに済んだのだった。
 本陣が決まるまで、栗塚くんは実千代さんの家に居候することになっているので、ぼくたちはひとまず実千代さんの家に身を隠すことにしたのだけれど、堅苦しいのが苦手な栗塚くんは、この家のお祖父さんが教えている書道教室用のはなれで、どうも寝起きしているようで、
「夕方になると、子どもたちが来るので、部屋を出なければならないが、それでも、こっちのほうが、母屋にいるより気が楽なんです。それに、おれもゲンさんに、ときどき書道を習っているんだが、あれは剣術に通じるものがあるように、おれには思える。あすこにある竹箒のようにデカい筆で、ゲンさんが書いているのをみると、総司の刀さばきを、ふと思いだすんだ」
 と栗塚くんは掛軸をみつめながら物思いにふけるのだった。
 われわれの気配に気がついた実千代さんは、
「あら、めずらしいわね、鉄山くん」
 と母屋からこちらにあがってきたけれど、事情を話すと、実千代さんはてきとうな服をすぐ用意してくれたので、ぼくたちは、
「それじゃあ、協子さんのこともあるんで……」
 とすぐお暇することにした。
 香菜ちゃん宅にもどると、山崎くんはすでに帰っていて、協子さんに具合をきくと、
「さっきはここまでしかあがらなかったのに、もうこんなこともできるんです。山崎さん、謙遜してたけど、わたしぜったい名人だと思います」
 と画伯は腕をぐるぐるまわしていたが、天然中野流の方法を、
「あん、まずうつぶせになって、あん、それから羽交い締めみたいな感じにされて、あん、それから動かないところを揉みほぐして、あん、それからその周辺も激しく揉み揉みして。それで協子さんは――なになに、いっぱい声が出ちゃった。あんあん」
 と直接体験者にうかがったことにより、
「とにかく大事な仕事ですので、早めに行って準備をととのえておきます。いえいえ、なんていうか……ねえ百合子先生、ひと晩かんがえたんですけど……つまり、ぼくも妻帯の身なんで『あんあん』とか、ノーパンがどうのこうのとか、そんなことではいけないと思うんです、ええ……」
 と翌朝には身を入れ換えて演出の仕事にぼくは取り組む気持ちになっていたので、吉野さんに保護者としてカレー食べ歩きツアーの見送りに行けないことを告げると、お袋に車を借りて、
「ねえ油小路の家って、メロンつくってるんだっけ、スイカだったっけ? ん? ああ、みかん、『コタツダイジン』っていう品種、ふーん、そうなんだね」
 と当初の予定より早く、紀子の嫁ぎ先に向かったのである。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み