第13話

文字数 4,504文字

 
      その十三

 天ぷらそばの昼食後、
「じゃあね、お姉ちゃん」
 と倉間家にもどってきたつぐみさんは、
「お義母さん、すみませんでした」
 とお袋にあやまったり、フルーチェかなんかの不在中の安否を、
「あっ、やっぱりまだプルンプルンだぁ」
 と気づかったりなどして精力的に動いていたけれど、そのつぐみさんが、
「智美、迎えに行くことになってるの。だから小学校行ってくるね」
 とまた出ていくのをハーイと見送ってから、つぐみさんのお母さんにいただいた和菓子を食堂のおやつ棚に、
「そういえば、前回も金太郎ようかんもらったよなぁ……」
 などとしまっていると、このあいだオーナー邸で耐久パチンコ大会をごいっしょしたベレー帽の婦人が、
「すみま、じゃなかった――ええと……ごめんください、ごめんなさい」
 とたずねてきた。
 先日の徹夜あけの朝の祈祷会のとき、ぼくはこの婦人の肩にもたれて仮眠をさせてもらっていたので、
「その節は、ありがとうございました」
 とまずはお礼をいったのだが、表情はぼんやりしていても、このあいだとちがって真っ赤なベレー帽をきょうはしっかりかぶっていた小柄な婦人は、
「どうぞ」
 と食堂にあがってもらうと、
「あの、これ、百合子先生にたのまれて……」
 と若干声を上擦らせながら大きな封筒をさしだしてきて、それで封筒のなかを見てみると、あの晩要請を受けた施設の資料が案の定入っていたのでぼくは、
「二槽式の講師かぁ……」
 とため息をつきつつも、ベレー帽の婦人に協力していただいて講義の予行演習を旧出稼ぎ寮の洗濯場でおこなってみたのだけれど、生徒役をしてもらっている流れでお名前などをうかがってみると、
「吉野舞香。二十七歳。好きな食べ物はめん類です」
 ということだったベレー帽婦人に、
「じゃあ吉野さん、この二槽式をつかって、正しい手順で洗濯してみてください」
 とセリフ合わせのつもりでいってみると、ベレー帽の吉野さんはなにか勘違いしたのだろう、ふるえる手で着ているものを一枚一枚脱ごうとしていたので、あわてたぼくは講義の内容を急遽、
「コインランドリーでの立ち居振る舞い」
 に変更して、のちの下校も、
「はい、左右、よく見てね」
 と保護者として付き添ってあげたのである。
 吉野さんが住むD地区付近の交差点では、秘書の小林さんが、ぼくとおなじように黄色い旗をもって下校する子どもたちに、
「はい、横断歩道をわたるときは手をあげて、あっ、走っちゃ、あぶないよ」
 と声をかけていて、だからぼくは、
「小林さん、つぎの市議選に、やっぱり出るのかなぁ」
 と勘繰りつつ、
「きょうは、よく会いますねぇ」
 とお袋に借りた黄色い旗(母は智美が入学した年から週に一度、子どもの下校を見守る一種のボランティア活動を億劫がりながらもしている)をバタバタ振って、小林さんのそばへ近寄っていったのだけれど、
「ああ、倉間さん!」
 とやはり旗を振って応えていた小林さんの横には今朝Kの森総合公園の多目的広場でチャイの屋台を出していたあの女性が立っていて、
「あれっ? 小林さんにとっては、歳はいっちゃってるはずなのに……」
 とこめかみにひとさし指をあてていると、小林さんは女性に、
「この方が倉間先生ですよ」
 といままでぼくを話題にしていたような口振りで紹介した。
 親睦会兼シンポジウムで思うような成果をあげられなかった小林さんは、ぼくが朝方薦めたチャイの女性になかば開き直りぎみで声をかけたようなのだけれど、昼食の誘いに乗った大島さんというこの女性は、
「四十になるから結婚したい」
 を連呼している小林さんに悪いと思ったのか、最近蒸発してしまった十五歳年上の旦那がいることと女の子をラマーズ法で一人出産していることを早い段階で正直に話したみたいで、それでその誠実さに感銘を受けた小林さんは、じつはわたしは若い子が好きで、いま一番好きなのは『シトロン』の亜紀ちゃんなんですよと、自分も正直に告白したらしいのだが、
「シトロンて?……」
「アイドルグループですよ。七月だからまだ先ですけど、今度キャンディーズの『暑中お見舞い申し上げます』のカバーを出すんです。キャンディーズなら知ってるでしょ? ほら『春一番』とか『微笑がえし』とかの……」
 という会話からさらに出てきたのは、一ヶ月ほど前に旦那がとつぜん蒸発したのはキャンディーズに原因があると、大島さんがにらんでいることで、ツインテールをほどいて髪ぜんたいをふわっとさせていた大島さんは、
「じゃあ、行方不明になったのは一ヶ月前ですけど、御無沙汰なのは、まちがいなく、一年くらいなのですね!」
「はい――ナニしたときには、かならず日記にマークを書いているので、ぜったいまちがいありません」
 という質疑応答ののちに感銘を受けていたぼくに、
「昼食のお誘いに乗ったのも、たぶん小林さんが釣りに行くような身なりをしていたからだと思うんです。ほら、スーちゃんの実家って、釣り具屋さんでしょ」
 というと、チャイの無料券をそっとにぎらせてくるのだった。
 上目遣いでぼくを見ていた大島さんは「見守り隊」と記されたテカテカ光るチョッキを羽織っていたので、
「子どもさん、何年生ですか?」
 とぼくは間をとるために、きいてみたのだが、
「三年生です」
 とこたえた大島さんは、
「ウチには二年生の子がいるんですよ。姪ですけれどもね」
 というぼくの話には乗ってこないで、もう一枚チャイの無料券をこちらのポケットに押し込んでくると、また旦那のことを話しだしていた。
 このような哀願は、
「キャンディーズに詳しい人を知っている――」
 と小林さんが結果的に口をすべらせてからくり返されていることのようで、人のいい小林さんは、おそらくそんな事情により下校の見守りにもいつのまにか付き合わされてしまったのだろうが、いくらなんでもキャンディーズが好き、という手がかりだけで蒸発した人を捜し出すのは困難で、だから、
「お願いします。主人を見つけてください」
 とさらに無料券を手わたしてきた大島さんに、
「奥さん、一種の“オコメ券”だったら、まあ、ちょっとかんがえますけどね……」
 とぼくも無慈悲に宣告しようとしたのだけれど、
「あっ、お母さん、ただいまぁ」
 と帰ってきた娘のおはぎちゃんは小学三年生ではなく中学三年生で、おはぎちゃんのよさは部活帰りにふ菓子やきなこ棒を摂取しなければ身を維持できない同年代の男子たちにはまだわからないだろうけれど、ぼくは三十をすぎていて、小林さんなどは四十になろうとしていたから、この子の素朴な、ちょっと懐かしい感じもするかわいらしさを、
「好きな食べ物は? ああ、ぼた餅ね! うんうん、いい子だね、あーん」
 とデレデレになっていくのも隠せないくらい貴重に思って、ちなみにおはぎちゃんの好きな飲み物は夏はカルピスで冬はホットミルクココアだったので、われわれのデレデレ具合はその瞬間最高潮に達したのだけれど、しかし先のような年齢に達しているわれわれは、こんな貴重なことをタダで聞けるなどとはもちろん思っていなかったので、このあとはすみやかに双方の切り札――つまりオーナーと森中市長に連絡を取って、電話している最中小林さんの焼き芋ルアーになにげに興味をもちだしていたおはぎちゃんにも、
「おじさんたちが、なんとかしてあげるからね」
 と代わり番こに大見得を切ったのである。
 おはぎちゃんとおはぎちゃんのお母さんとに、
「お父さんが残していったノートを見てもらいたいんです」
 といわれたわれわれは、このあとやはりD地区ということだった大島さんの家に『暑中お見舞い申し上げます』などを小さな声で口ずさみつつ向かったのだが、
「これなんです」
 と最初に見せてもらった奥さん日記のここにはしるせないマークを確認してからいよいよ蒸発した旦那のノートというものをパラパラめくってみると、「復活へ」と表紙に書かれた旦那のノートには、キャンディーズの『その気にさせないで』の歌詞が筆ペンで清書されてあるページや、中学生なみに思い詰めていることがあからさまな筆圧で、
「ランちゃんランちゃんランちゃんランちゃんランちゃんランちゃんランちゃんランちゃんランちゃんランちゃんランちゃんランちゃんランちゃんランちゃんランちゃん」
 とびっしり書かれてあるページや、
「キャンディーズが解散してちょうど三十年にあたる二〇〇八年の四月四日という日を、おれたちは、ずっと、待っていた。なぜなら、その日にキャンディーズは復活し、おれたちの前で、あのデビルポーズを再び決めてくれると信じていたからだ。しかし、どうだろう、一年待っても、なんの動きもない。スーちゃんが昼間やっているトーク番組にめずらしく出たときも、キャンディーズというお言葉を一度さりげなく発しただけで、再活動にかんしては、けっきょく最後までなにも言わなかった。もう限界だ。おれはキャンディーズを捜す旅に出る」
 と書かれてあるページがたしかにあったので、奥さんが考えているように、おそらく旦那はキャンディーズ不在の世の中に嫌気がさして、どこかを放浪しているのだろう、という見解でわれわれも一致した。
 捜索するのに役に立つこともあるでしょうから、どうぞもっていてください、といわれたこの旦那ノートは、
「じゃあ、倉間先生だと、なくしてしまうかもしれないので、わたしが」
 と小林さんがとりあえずあずかることになったのだけれど、御無沙汰になっていることの不満がおおむねトップであつかわれている奥さん日記の不満を解消するための具体的な方法が袋とじで掲載されている今月号は、
「おねがいしますよ」
 とぼくがたのんでも、
「でも、これ、まだ推敲中だから……」
 ということでお預かりすることはざんねんながらできなくて、とはいえ、自分の両親と妻子をこの大きな古い家に残してキャンディーズを捜す旅だか放浪だかに出てしまったとてつもなく暴君な大島の旦那に一喝喰らわされていたぼくは旧出稼ぎ寮で、
「お帰りなさい。お疲れになったでしょう? 和貴子、先にアーモンドチョコレートいただいててよ」
 と出迎えてくれた和貴子さんに袋とじを熟読しながらおこないたかったことを大胆に告白して、
「おっしゃらないで――ホントはもっといっていいんですよ――嫌です。もうお聞きしたくありませんわ」
 と和貴子さんを大興奮させていたので、
「こういうのも好きなんだ?」
「ええ――その証拠に、ほら」
「あっ、ホントだ」
 と新たな英知を得て、こちらのほうはむしろより収穫があったといえるのかもしれなかったけれど、二回目の例のあれのあとに、
「もしもし、三原です」
 と連絡してきたみんみん氏も、三回目の例のナニのあとに、
「わたしはねぇ」
 ではじまるメールを送ってきた森中市長も、今回の仕事(?)は、どこから手をつけていいかわからない、といった感想を述べていたので、ぼくは、
「これからしばらくは、ごろごろする暇もないかもなァ」
 と思いつつ、翌日は一日キャンディーズの曲を聴いて、ごろごろしていたのである。
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