第17話

文字数 4,488文字

 
      その十七

 用意してくれたティーセットにお宅拝見の流れで賛美を送ったのちに、いよいよ白くてつるつるしているお肌を、
「白いんダ。つるつるなんダ。すばらしいんダ」
 とほめると、
「そうですか♪」
 と協子さんは手鏡で自身のお顔をあらゆる角度から確認していたけれど、おうかがいしてみると、なんでも肌のお手入れで一番重要視しているのは洗顔なのだそうで、なにをお使いなのですか、とぼくがさらにたずねると、
「いまは赤まむし石けんです」
 と協子さんはこたえるのだった。
「赤まむし石けんて、あの赤まむし石けんですか?」
「ええ。あのう、こういう目印の」
 赤まむし石けんというのは、もちろん赤まむし野郎等をつくっているまむしグループが販売しているのだが、
「イマイチ売れねぇんだよ、これは」
 といつだったか、オーナーもこぼしていたように、まむしシリーズの中ではいちばん売り上げがすくない(らしい)。
 もっとも効能のほうはそれなりにあるらしく、渡部さんがいうには、
「赤まむし石けんにだって、たまには、お客さまからの感謝の手紙がきますよ」
 ということだったけれど、
「もともとは主人がつかってたんですけど、まったく効果がなかったんです」
 と協子さんは紅茶を淹れつつ赤裸々に告白していたので、このあいだ和貴子さんが、
「まあ、これでこうすると、まだまだこんなになってよ」
 と評価していたのは、やはり一種の謙遜だったのだろう。
 協子さんは、
「主人に『協子、この石けんで洗ってくれ』って、たのまれたので、最初はしかたなく使ってたんですね。ですが、そのうちお顔にも、からだにも、あきらかに、はりが出てきまして……」
 と赤まむし石けんを愛用するにいたった経緯も話してくれたが、ぼくがご主人の真意はこれこれこういうことだったんじゃないですかとジェスチャーもまじえて推測すると、
「あっ、そういうことだったんですか、倉間さんも、あっ、これこれこうしてもらって、それで効果のほどは――えっ、そんなに」
 とお顔をあかくさせていたので、ぼくは、
「うっかりしてた!」
 とこれから同行してもらう香菜ちゃんのことを思いだして、
「ハハ、セキメン、チチ、セキシュン」
 ととにかく短文でメールを送信したのである。
 まだ施設にいた香菜ちゃんからの返事は、
「もうすこしで講義は終わります。
 うなぎ食堂のわたしのお部屋で待っていてください。
 PS わたしのお布団を吟味してても、恥ずかしくないですよ」
 というものだったので、ぼくは協子さんに課外授業の説明をしたのちに、うなぎ食堂へすぐ向かったのだけれど、部屋のすみに積まれてあった香菜ちゃんのお布団に正座で対面しながら祖父の映画鑑賞にお供した帰りにはじめてそば屋で日本酒をなめたあの遠い日の午後を思いだしていると、
「ただいま、コーチ」
 と香菜ちゃんがそのうち帰ってきてくれたので、対面しながらずっと闘っていたお布団の誘惑からは結果的にいちおう救われたのであった。
 先のメールでは、くわしいことは連絡していなかったので、
「大島さんを捜しに、これから○○村に行くんだけど、香菜ちゃんもいっしょに行かない? いや、というのはね、オーナーに『香菜ちゃんて子が気に入ったんなら、その子を同伴させてもいいぞ、あはは、あはは!』っていう、ありがたいお言葉をいただいたからね、なんていうか、けっこうその気になっちゃってるんですよ」
 とぼくは今夜の予定を、ともかく説明したのだけれど、
「はい。もちろんそれはいいんですけど、でも、わたしきょう、課題が出てるんで……」
 といっていた香菜ちゃんのその課題は、
「〈ヨーアヒム〉というレストランで、チーズフォンデューをひとりで食べて、レポートを提出しなくちゃならないんです」
 というもので、さらに施設側からは「サービスデーなので客が多いと予想される今晩にかならず食べること」との条件も出されているみたいだったので、ぼくは香菜ちゃんが課題をこなしたあとに○○村へ出向する、とすぐ予定を変えて、
「それくらいの時間だと、たぶん電車はないと思うんですよ。ええ、そうなんです、ええ、ええ。ですから渡部さん、たいへん申し訳ないんですけど、送っていただけませんか? もちろん渡辺さんでもかまいませんけど」
 と電話で車の手配もしたのである。
 香菜ちゃんといっしょに〈がぶりえる、がぶりえる!〉まで行って、
「〈ヨーアヒム〉は三階だからね」
「はい」
「じゃあ、一階のこのベンチで待ち合わせよう」
「わかりました」
「いいかい香菜ちゃん。単独フォンデューは、われわれにとっても難易度が高いんだから、とにかく無理しないこと。これだけは、わすれないでね」
「はい、コーチ」
 と別れると、ぼくは車内でみんなが軽くほおばれるものでも補充しておこうかなぁと思って、一階の食品館にとりあえず入っていったのだが、時間をつぶすために野菜コーナーやお惣菜コーナーなんかもくまなく見ていると、お買い物カゴをひじに引っかけて神妙な面持ちでおつとめ品群を物色しているナルシス輝男先生とばったり会った。
「ナルシス先生、こんばんは」
「倉間さん、しばらく」
 ナルシス先生とは梅が咲きはじめたころくらいにバー〈浮沈〉でいっしょに飲んだことがあって、そのときぼくは、
「ぴちぴちの半ズボンをはいている女性と親密になりたいんですけど、まず、どうすればいいですか?」
 とここぞとばかりに質問したのだけれど、このあと香菜ちゃんと待ち合わせているベンチですこし近況を伝えあうことになってもやはりぼくはナルシス先生に、
「あのう、色が白くて、つるつるで、四十七歳なんだけど、ぜんたい的になんとなく幼い感じの女性と親密になるには、どうすればいいですか?」
 としっかりきいていて、するとナルシス先生は、
「そういう女性には、クッキーが意外と有効なのさ」
 とかなりするどいアドバイスをしてきた。
「クッキーをもっていけば、だいたいそういう女性は『クッキーに合うんですよ』といって、上品なティーセットで紅茶を淹れてくれるんだ。だからそのときに、いいかい倉間さん、ぼそぼそっと『チュパチュパしたいなぁ……』って、つぶやくんだ。相手は『えっ、なにをですか?』って、ぜったいきいてくるから、そうしたら『いやぁ、紅茶にクッキーをひたして、チュパチュパしたいなぁって、思ったんです』と淋しそうにこたえて、紅茶をひとくち飲む。ここは大事だからね、はぶいちゃ駄目だよ倉間さん」
「はい」
「ひとくち飲んだあと、すでにクッキーがテーブルに出ていれば、それをチュパチュパやる。万が一、つまりクッキーに合う紅茶があるっていっておきながら、クッキーが出てない場合、このときは角砂糖でもいいです。女性は『おいしいですか?』と聞いてくる。あるいは『チュパチュパできて、どうですか?』とほほえみかけてくるかもしれない。とにかくなにかいってくる。ここなんだ! このチャンスを、ぜったいに逃してはならない!」
「あっ、はい」
「女性が動いた瞬間、手を取る。そのあと、これくらい首をかしげて、女性を強くみつめる。そして、こう告白するんだ『ほんとうは、あなたをチュパチュパしたいんです』倉間さん、このセリフまでもっていければ、その女性は、もうイチコロなのさ!」
「そそそ、そうなんですか。なんか無性にチュパチュパしたくなってきました――あっ、あと角砂糖じゃなかった場合は、ティースプーンでグラニュー糖をこれみよがしにチュパチュパやってもいいですか?」
 ナルシス先生は今夜もどこかで講義をおこなうらしく、
「それじゃ、わたしはこれで。オーナーさんによろしくお伝えください」
 とやがておつとめ品のコーンクリームコロッケと五十円引きの食パン(八枚切)が入ったレジ袋をもって、去っていったが、先のアドバイスにより、ぼくは贈物コーナーのあの古株婦人を思いだすことができたので、さらなる時間つぶしという要素も大いにあるけれど、ガム類を補充したのちにとにかく古株婦人にもお礼をいいに行ったのである。
 贈物コーナーでお礼をいったさい、もうすこしでハムの詰合せをぼくは買いそうになっていたので、
「お腹がすいているときのスーパーは要注意だな」
 と再認識しつつ、これまた一階にあるファストフード店のような趣のラーメン屋でぼくは腹ごしらえをしたのだけれど、ビニール袋のロールが置いてある長テーブルで購入したものをすみやかに袋詰めしている奥様たちの姿を観察しながらサンマーメンをたいらげてふたたび待ち合わせのベンチにもどると、香菜ちゃんはすでに〈ヨーアヒム〉から無事生還していて、みんなのために彼女もおつとめ品群より厳選したのだろうか、食パンのミミがたくさん詰め込まれたビニール袋をひざの上にのせていた。
「あっ、コーチ!」
「ごめんごめん。いまあそこで食事しててさ」
 香菜ちゃんのお顔には涙を流した痕跡があったので、ぼくは単独フォンデューまでをも達成したんだね、という趣で、
「おめでとう!」
 とすぐ抱擁したのだけれど、さしだしてきたレポートをチェックしてみると、どうやら香菜ちゃんは恥ずかしくて店の中にすら入れなかったようで、しかし、
「お店の外でずっと『体内の水分が蒸発しちゃうくらい恥ずかしい』って、つぶやいていたら、あそこの店長さんが『ねぇお嬢ちゃん、これあげるから帰ってもらえないかな』って、このビニール袋をもたせてくれたんです。新越屋でつくってもらってるから、ミミもおいしいんだって、店長さん、いってましたよ」
 とも彼女は報告してきたので、
「パンのミミのおつとめ品なんか、売ってたかなぁ……」
 という長年精進している観察力にかんする個人的な懸念は、すくなくともこの場で解消されたのである。
 単独フォンデューの経験があるぼくは、
「成長いちじるしい香菜ちゃんではあるが、あそこにひとりで入るのは、レベルが高すぎて、なかなかむずかしいだろう……」
 とこの結果をある程度予想していたのだが、そんなぼくが、ではなぜ香菜ちゃんの涙の痕跡を見てすぐ「成功」と取ったかといえば、それはおそらくその直前まで講義してもらっていたナルシス先生にかつて注入していただいた教えをぼくがどこかでおぼえていたからで、抱擁したさいにパンのミミにかけて香菜ちゃんの耳を甘噛みするのはさすがにまだ無理だったというか今後の課題だけれど、それでもこのあと渡部さんと待ち合わせている旧出稼ぎ寮に香菜ちゃんを、
「とりあえず部屋で待ってようよ」
 と招き入れると、すぐさま単独フォンデューの失敗を楯にとって、ふたたびぼくはスパルタ教育を彼女にみっちりほどこしていたので、もはや原型をとどめていないスーパーデビルポーズをまたぞろとらされて恥ずかしがっている香菜ちゃんの姿に自身のまだ知らぬ嗜好をおもいがけず発見しながらも、ぼくはナルシス先生に、あるいはオーナーに、
「ここまで成長できたのは、おふたりのおかげなんダ、鍛えてくれたんダ、わかってるんダ」
 と深く感謝したのである。
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