第7話
文字数 4,450文字
その七
翌日、案の定かなり寝坊して起きると、あれからもさまざまなおねだりをしてきた和貴子さんは「食堂にサンドイッチとココアを用意しててよ」というメモを残して、もうどこかへ出てしまっていたのだけれど、ゆうべのことや、夢に出てきた八秒おきに足を組みかえてくださるパートの面接相手だったシャロン・ストーンさんのことなんかを漠然とかんがえながらその遅い朝食を食べていると、側近の渡部さんが、送ってもらったときにうっかり車内に置きわすれてしまったぼくの二枚のレコードを、家までわざわざ届けにきてくれた。
つぐみさんに許可を得たのちに、こっちの旧出稼ぎ寮前に来たはいいが、インターホンみたいなものがみつからなくて、その場でもじもじしているという趣だった渡部さんにあたたかいココアを片手にもったぼくが、
「ああ、どうもどうも、寒いから、あがってください」
と声をかけてあげると、靴をぬぐそばから渡部さんは、
「さっきの方、妹さんですか?」
「あの人は兄貴の嫁さんなんですよ」
「感じがいいなぁ。わたし、ああいう女性によわいんですよねぇ、好きになっちゃいそうだなぁ、まいったなぁ……」
となんだかつぐみさんのことばかりをしゃべりだしていたのだが、レコードのほかに赤まむし野郎の十本パックもわざわざもってきてくれた渡部さんに、つぐみさんの話を一段落させる狙いもあって、
「赤まむしとの馴れ初めは……」
という感じできいてみると、なんでもこのドリンクをつくっている会社の社長だか会長だかは、あのこわもてのオーナーということになっているらしく、
「今年も赤まむし野郎は、ドリンクも錠剤も絶好調で、かなりの利益をあげてますよ。うーん、たぶん〈高はし〉だけじゃないかな、あんまり儲かってないのは……」
と渡部さんはさらにつづけていたので、体格のいい女将が上手に客と接しているあの料亭もオーナーが裏で牛耳っているのかもしれなかったが、渡部さんは母屋からお茶菓子などをもってこっちにあがってきたつぐみさんに、
「旦那さん、ママさんコーラスの大会で、わたしたちが優勝したとき、赤まむし野郎をたくさんはこんできてくれた方ですよね?」
とあの大げさな笑顔を向けられると、
「あっ、はい、そ、それ、わたしです、あっ、わたしとあと、渡辺とふたりで、ええ、あっ、あのコーラスの、ええ、あっ、そうですかぁ、あっ……あの、お好きな色は、あっ、じゃあ、お好きな健康食品は、あっ、じゃあ、また、ぜったい来まーす、あっ」
と好きな女の子に通学路でばったり会った少年のようにあわてて逃げてしまっていたので、今回はざんねんながら、そのほかのまむしファミリーにまつわる伝説は、おききすることができなかったのだった。
もうすぐお昼だけどなにあがる? というつぐみさんに、サンドイッチがまだ残っているのでそれを食べますよ、とこたえると、ぼくはきのう買ったこの中古レコードや喫茶店のマスターに録音してもらったカセットテープなんかを、史歩ちゃん、クロスフィーバーズ、桑江知子、の順番で、ともかく聴いてみることにしたのだけれど、
「おや」
とこれは三回目の鑑賞のさいに気がついたのであるが、オーナーにあげようと思っていた久積史歩さんの『やし酒ハイボール』のシングルは、B面のほうに若干の傷がどうもあるようで、だから、
「うーん、どうするかなぁ……」
としばしかんがえたすえにぼくは、オーナーにプレゼントするのはキャンディーズの写真集といっしょに買ったほうにして、こちらの傷もののほうは自分用とする、ということに大事をとって変更しておくことにした。
きょうで二学期もおわりらしい姪っ子の智美は、この音楽鑑賞の最中に一度こっちにあがってきて、
「見てろよ!」
と最近凝っているフラフープをぼくの私物をいくつもなぎ倒しながら約三十回ほど連続でまわしていたのだが、ふたたびこっちにきて、
「ねえ、これから出かけない?」
と誘ってきたつぐみさんに、
「べつにいいけど、智美は?」
ときいてみると、そういえばさっきゲームがどうのこうのといっていた智美はお義母さん(つまりぼくの母)と買い物に行ったわ、ということだったので、このあと、
「きょう、友だちの実千代さんが、スコットランド民謡を発表する日なんだけど『なるべく観にきてつぐみさん、お客さんがたくさんあつまってくれたほうが、恵みも大きいから』って、わたし、おねがいされちゃったの。へんてこりんな感じのイベントだからね」
「あのママさんコーラスのやつ?」
「ちがう。実千代さんはママさんコーラスもやってるけど、スコットランド民謡の倶楽部にも入ってるのよ」
「どこでやるんですか?」
「〈がぶりえる、がぶりえる!〉の一階にあるホール。扉が映画館みたいになってるところ、知ってるでしょ?」
「そういえばこのあいだ、あそこで家族対抗歌合戦の収録やってたね。だけど、おれでも入れるのかな?」
「だれでも入れるのよ。ねえ、行きましょうよ、鉄山くん」
「どうしようかな……」
「実千代さん、けっこうむちむちしてるわよ」
「え」
「しかもちょっと受け口よ」
「え」
とそそのかされたぼくは、けっきょくつぐみさんの車で、
「おれが運転するよ」
「うん、ありがとう」
と最終的にはお出かけすることにしたのだった。
ジュニアシートをうしろに移動させたのちに、
「ああ、こっちひさしぶりぃ」
と助手席に乗り込んだつぐみさんは、車が走りだすと、
「あっ、そうだ! ゆうべ『あのぼんくらは最近どうしてるんだ』って、またお義父さん、きいてきたわよ」
とぼくに母屋情報を報告してきていたけれど、親父になにかきかれたら、とにかくてきとうにごまかしておいて、と前もっておねがいしている関係で、つぐみさんはその晩もいちおうぼんくらというのがユタカなのか鉄山なのかを確認したのちに、
「タッチパネルにもタッチしたりして、がんばってますよ」
とうまくいってくれたみたいだったので、
「ああ、ありがとうございます、つぐみお義姉さま」
と胸を撫で下ろしたぼくは、ともかくお礼として、パネルをタッチしたさいに、となりの席で掟破りの間食をずうっと敢行していた女性のものまねを、義姉にみせてあげたのである。
二袋目のポテトチップス(一袋目同様コンソメ味)を開けるバリッという音を耳にしたときの衝撃を伝えたあとも、
「七級の認定書、もらったの?」
「うん」
「じゃあ、お嫁さんは?」
「もらうどころじゃないじゃん」
「でも、和貴子さんなんか、合うんじゃない?」
「あれ? 知ってるんですか?」
「だって、今朝すこししゃべったもん」
などとつぐみさんとお話していると、そのうち大型ショッピングモール〈がぶりえる、がぶりえる!〉にもおかげさまで無事到着することになったのだが、一階のオペラ公演にもつかえそうなホールに両方の指をからめ合わせながら入っていくと、
「倉間さぁん!」
とおそらく上のほうの席からみんみん氏が思い掛けなく声をかけてきて、
「ん?」
と立ち止まったぼくが、氏はどこにいるのだろう、としばらくあたりをきょろきょろ見回していると、飴類などを補充して、いよいよホールに入ってきたつぐみさんは、
「ああ、三原先生!」
と上の席に向かって手を振った。
みんみん氏がすわっていた席は両サイドがひとつずつ空いていたので、ぼくとつぐみさんは、
「ここ、だいじょうぶですか?」
といちおうみんみん氏に確かめたのちにそこに席を取ったのだけれど、つぐみさんとみんみん氏はお話している感じだと、あきらかに面識があるようだったので、ぼくはともかくそこらへんのことをまず氏にたずねてみた。
「みんみんさん、つぐみさんのことを、知ってるんですか?」
「ええ。わたしは不定期ですが、ママさんコーラスの講師をしています。ですから、つぐみさんを知っているのです。おなじ理由により、実千代さんもわたしは知っています」
みんみん氏から先のように説明されたぼくは、
「いやぁ、世の中ひろいようで、ぐるぐるまわってますね」
と前の席にすわっていたどこかのおばさんに、
「正しくは、広いようで狭い、ではないでしょうか、アーメン」
と訂正される発言なんかも、ついしてしまっていたのだけれど、やがて照明も落とされて、開会となり、
「ねえ倉間さん、あの人、見たことありませんか? わかります? ほら、オーナーの本妻さんですよ」
とみんみん氏に耳打ちされて、
「あっ、ホントだ!」
と反射的にアーメンおばさんのつむじに急接近などもしてしまった本妻の百合子夫人の牧師だか先生だかとしての説教をお聴きしてみると、夫人は、
「わたくしの主人は、今回もこころよく、焚き出しと子どもたちにあげるプレゼントの費用を出してくれました。かれは女性関係にかんしては、まだ悔い改めてはいないようですが、そのほかのことでは、ずいぶんわたくしの意見を聞き入れてくれます」
というようなことも述べていたので、
「女房に知られないように、おれは独自の根回し表までつくってあるんだよ倉間くん、あはは、あはは!」
とメロンをほおばりながらみせてきたオーナーのそのノートには、じっさいにはいろいろ欠陥があることが、あきらかになったのである。
つぐみさんのお友だちが入っているスコットランド民謡の倶楽部は百合子夫人の説教がおわるとすぐ一番手として登場していたのだが、三曲ほど披露したのちに舞台からさがると、倶楽部の方々はこちら側の席にぞろぞろ移動してきて今度は観客としてつぎつぎと出てくる出演者たちの歌や踊りを観ていた。
それで、われわれのちかくに移ってきた倶楽部の方々を執拗に吟味させてもらった結果、
「実千代さんは前列のこっちから見て右から三番目。ね、それなりにむちむちしてるし、口もとのホクロも色っぽいでしょ?」
とさっき義姉におしえてもらった実千代さんではなく、中央の位置で八〇年代の子どものようなぴちぴちの半ズボンをはいていたリーダーのYORIKOのほうにより興味をもつことになったぼくは、みんみん氏にパイプ役になってもらって、
「演出家の倉間鉄山です。今度ゴハンでも食べながら相談にのりましょうか」
とそのYORIKOにあいさつなども、こののちしていたのだけれど、
「ケータイが圏外かなんかだったんで、けっきょく原始的にさがしました」
という側近の渡辺さんがまたぞろ後方よりぼくの肩をトントンとたたいて、
「オーナーが『ちょっと来てくれ』といってます」
と耳打ちしてきた関係で、われわれは急遽このホールを途中で抜けだすことになっていたので、
「もうすこしで順番がくるんだけどぉ……」
と実千代さんがやたらにざんねんがっていた、市内全域に出没しているので、いまでは一種の名士(?)になっている、あの偽ジュリー氏のヒットメドレーは、そういうわけで聴くことはできなかったのだった。
「きょうは水戸光子ちゃんの浪曲も聴けるのに――特別出演なのよ」