随想 清岡卓行の「ミロのヴィーナス」について

文字数 709文字

 三島由紀夫の日本語をうつくしいと形容する人たちがいる。なるほど、旧字体を駆使(くし)した文章を読むと、うつくしいという感覚が呼び覚まされる。たびたび、このような感覚にふるわれることがあるのだが、それはなにも和歌や能の詞章(ししょう)を目にしたり、耳にしたりするときばかりではない。
 高校の教科書に採用されている「ミロのヴィーナス」という批評文を読んだ時にも同じような感覚に愉悦を覚えたことがある。どうしてこのような感覚が呼び起こされるのだろう。清岡はミロのヴィーナスを「パロス産の大理石でできている彼女」といった擬人法を用いて表現している。このようなレトリックもそうした感覚を引き起こすひとつの要因であることは言うまでもない。
 清岡の文体はうつくしい。彫像に対する美意識も神秘的だ。けれども、それはかならずしも彼の感性と考えに共感することを意味しない。少なくとも私にとっては。
 清岡はヴィーナスの腕の欠落に理想を観ている。この欠落に対し、「特殊から普遍への巧まざる跳躍」、「部分的な具象の放棄による、ある全体性への偶然の肉薄」があると清岡は捉えている。彼は欠落を賛美する。

一方にあるのは、おびただしい夢をはらんでいる無であり、もう一方にあるのは、たとえそれがどんなにすばらしいものであろうとも、限定されてあるところのなんらかの有である。

 しかし、私はヴィーナスの欠落に彫刻美の完成を見出すことはできなかった。文学には、『明暗』など、未完の作品として知られる名作があり、水村の『続明暗』といった、欠落を埋めるような作品が書かれることはあるけれども、やはり漱石のそれを読みたいと思う。欠落に理想を観ることよりも、普遍より特殊を望んでしまう。
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