小説 スケッチ 慰霊登山

文字数 1,228文字

 人はなぜ山に登るのだろうか。ジョージ・マロリーはエベレストで死に、植村(うえむら)直己(なおみ)はマッキンリーで死んだ。毎年山岳事故で死者が出る。突然死するものもいれば、滑落死するものもいる。しかし、山を登る人は絶えない。人はなぜ山に登るのだろうか。
 今一人、山を登る一行の中に20代後半の男がいる。頭にヘルメットを被り、リュックを背負い、右手はトラッキングポールを握りしめている。あの日の装備とはちがう(よそお)いである。あの日まで、男は山の恐ろしさを骨身に()みるほど経験したことはなかった。今はちがう。あの日の山の光景を直接目にしたもので、山を侮るものは誰一人いない。
 
 男には山に登るはっきりとした目的がある。あの日、彼らが登る山が噴火して以降、火口から数百メートル離れた登山道は立ち入りが禁止されていた。しかし、数年の時を経て、その規制が解かれたのだ。男を含む一行は、噴石(ふんせき)による損傷で命を落とした人たちの慰霊(いれい)を行うために山を登っているのである。
 やがてその場所が男の視界に入ってきた。火山灰はないが、あの日の記憶がよぎる。あの日、空は青く、山頂付近からの見晴らしは心が洗われる思いがした。ふと、大きな音が聞こえた気がした。なんだろうと思い、音がした方を探していると、眼前に噴煙(ふんえん)が迫ってきていた。噴火に伴う噴煙が辺りを一変させ、噴石が飛散してきた。小さな石が左足に当たり、強い衝撃を受けた。

「死ぬかもしれない」

強くそう思った。その後も、噴石の飛来はつづき、近くにいた夫婦に直撃した。奥さんは即死した。少し噴石の勢いが弱まり、生存者の中から「下山しよう」という声が上がったが、足が痛く、自分が下山するのは無理だと思い、「石が足にあたり、歩いて下山するのは無理です。この辺りで救助を待ちます。どうぞ先に下山して救助を呼んでください」と言って別れを告げた。こうして、自分と同じような状態の人たちは即死した人と共に山頂付近にとどまった。
 大きな岩を見つけ、しゃがんでそれにもたれ、運を天に任せていると、男性が携帯電話で話しているのが聞こえてきた。

「すまない。帰れそうにない。取引先に行けなくなった。あとはよろしく頼む。」

やがて夜となり、気温が低くなってきた。ダウンジャケットを出し、長い一夜を過ごし、朝を迎えたが、救助はまだ来なかった。意識が薄れるのを感じる。

「普段、忘れていることが多いけど、死って身近なものだったんだな。心づもりもできないうちに亡くなったあの人たちは最期に何を思ったんだろうか・・・」

ぼんやりとする意識の中で上空を見上げていると、ヘリコプターが視野に入ってきた・・・。

 男は我に返り、花束を手に持つ。そして祈りながら平穏に過ごせることがどれほど幸せなことであるかを心に刻む。男は、慰霊のため、そしてあの日のことを風化させず、一日一日を生きれることのありがたさを改めて体感するために山に登ったのだった。やがて一行は下界(げかい)へ戻り、痛みを背負いながら生きる日々が再開される。
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