随想 サン・フォン伯爵夫人に見られる頽廃主義

文字数 1,247文字

 décadence(デカダンス)とは、衰退、凋落、頽廃を意味するフランス語の単語である。しかしこれは一般の意味であり、この語を文学上の観点から説明すれば、伝統的な規範や道徳に反発する、耽美的、悪魔的、頽廃的思潮といった意味を内に備えた語である。
 アイルランド出身の作家、オスカー・ワイルドがその代表的作家のひとりと考えられており、三島や谷崎にも彼の影響で書いた作品がある。

 私はいま三島の『サド侯爵夫人』という戯曲を読んでいるのだが、その中でこの精神を体現する人物に遭遇した。サン・フォン伯爵夫人である。この夫人が語る次のセリフは、これだけでも鬼気迫るものがあるのだが、真咲(まさき)美岐(みき)という生身の女優の口から語られるのを耳にしたときには、いっそう真に迫るように思われた。シェイクスピアの劇はそうではないと考える人もいるかもしれないが、やはり劇というものは舞台を通してこそ理解できるものなのかもしれない。

「人間だつてテーブルになるくらゐ(わけ)もありませんわ。はつきり申せば、私はこの(からだ)を裸にされて、ミサの祭壇に使はれたのです。・・・黒い(ひつぎ)の布の上に、私のまつ白な裸が仰向けに()かされました。・・・私の(そう)の乳房の谷間に銀の十字架が置かれました。・・・私の丁度股のあひだに銀の神聖な杯が置かれました。・・・祝聖(しゅくせい)の時が近づき、私は两手(りょうて)に火をともした燭臺(しょくだい)を持たされました。・・・司祭はイエス・キリストの名を唱へ、私の頭上で悲しげな仔羊(こひつじ)()(ごえ)が急に異様な(うめ)きに(かわ)ると、そのときですわ、そのときはじめて、私の上で流れたどんな殿方の汗よりも熱い、どんな殿方の汗よりも(おびただ)しい、仔羊(こひつじ)の血が私の胸、私のお腹、私の股の間の聖杯の中へ滴りました。・・・みだらな十字架の形をまねて思ひ切りひろげた私の两手に、ゆらめいた蠟燭(ろうそく)が熱い蠟を垂らし、その两手の火が(はりつけ)の釘をあらはすといふ祕儀が如實(にょじつ)にわかりました。」(サド侯爵夫人. 新潮社. pp.90-91)

 カルト的秘儀を瀆神(とくしん)の喜びとして語る悪徳夫人は、三島が想像した人物なのだが、頽廃主義から造形されているということは明らかであろう。
 神を冒瀆(ぼうとく)しながら神と交わる、このような宗教儀式の描写がある文学作品は、教育に用いるには不適切と判断され、教科書に掲載されるようなことは絶対にないと思われる。けれども、マルキ・ド・サドに見られるように、人間には通常道徳から狂気と判断される思想が発現する可能性を秘めた存在であることも事実なのだから、文学を通して人間を理解しようと欲するのであれば、こうした作品を読むこともどうしても必要になってくる。
 体制に従順なる精神が強い「優秀な」生徒ほど、教育上好ましいとして選ばれるような文学作品が「適切な」もの、正典とみる傾向があるのかどうか知らないが、このような評価基準しかもたない場合、『サド侯爵夫人』を低く評価するのではないだろうかと想像する。あるいは、内容を無視して、三島の名声だけで作品を高評価しようとする心の働きが生じることもあるかもしれない。
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