随想 とある和歌の試験問題に対する愚痴 

文字数 830文字

 和歌には掛詞という技巧がある。これはたとえば、「まつ」に「松」と「待つ」の意味をもたせるといった技巧のことで、掛詞が用いられた和歌を鑑賞したり、批評したりするためには、何と何が掛けられているのか、ちゃんと理解する必要がある。
 しかし、だからといって掛詞の技巧を見抜くために何十もの掛詞をひたすら記憶するという作業は、和歌の学習からは、少なくとも学習の本道からは、はずれているように思う。

 ある大学の試験問題では、和歌に用いられた掛詞を指摘しなさいという問題で、「よしあし」に何と何が掛けられているかを見抜かせる問題が出されたという。これに正答するためには、よほど掛詞の受験勉強をしていなくてはならない。私が答えられなかったのは言うまでもないことだが、「善し悪し」と「葭葦(よしあし)」が掛けられていると正答できた受験生はどのぐらいいたのだろうか。

 このような試験問題を解く人は、知識問題を解くのが得意なクイズ王のような人で、掛詞を何十も暗記するのが苦痛でないのなら、それはその人の好みだけれども、こうした学習を促す試験問題を個人的には評価できない。こうした問題にことごとく正答できるクイズ王は合格しやすいことはちがいないが、だからといって、その人がすぐれた鑑賞能力をもち、すぐれた歌を詠めることを示しているとも思わない。和歌に関する才能を選抜するには、歌の鑑賞文を書かせたり、和歌を詠ませるほうが、よっぽど合理的に思える。
 作問者に理由を問えば、国立の偉い先生が選抜試験に必要な理由をあれこれと回答するのかもしれない。また、競争環境に置かれた受験生は、まじめな受験生ほど、試験問題の質に疑問を抱かず、あるいは諦念の思いで忍従し、他の受験生が答えられないような問題も答えたいという願望から、こうした問題に正答するための学習に精を出すのかもしれない。しかし、個人的な思いを率直に述べると、落第の()である自分にとっては、そうした回答や学習は受験によって歪められた学習に見える。
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