小説 星のかけら

文字数 22,113文字

警告

物語に科学的矛盾を見出そうとする者は射殺されるべきである。
これから語られるのは物語である。ゆえに、
この物語に科学的矛盾を見出そうとする者は射殺されるべきである。
嘘つきには寛容でなくてはならない。

著者の命によりて 陸軍兵器本部長 G・G 

 機械の発明に(ともな)う工業の発展は近代化を促したが、やがて資源や市場をめぐる争いと帝国主義的支配をもたらした。このような歴史をふまえ、機械文明を否定する人たちが現れた。ガンジーもその一人であろう。産業革命後の社会の否定的側面を描いた小説家たちも、そうした人たちに数えられるかもしれない。
 著者の立場としては、数学や自然科学的認識は素晴らしいものだと考えており、科学や科学文明を全面的に批判する心情はないのだが、科学原理主義や科学崇拝とよばれるような、いきすぎた科学主義に対しては危惧(きぐ)を覚える。

 さて、物語を始める前に、この物語に登場する主な人物たちを紹介しよう。実際の科学者に関する情報を参考にしたところもあるが、彼らは当然のことながら空想上の人物であり、特定のモデルはなく、科学的素養の高い人たちとして設定されている。

登場人物

高橋(たかはし)(りょう)

 ラーカム大学の鉱物学者。収集癖があり、子供のころから昆虫採集や鉱物採集をしていた。格子(こうし)振動(しんどう)に対する興味から、振動に関する実験を行い、振り子の等時性を確認するなど、実際に検証することも好んでやっていた。現在は鉱物コレクターである。鉱物の構造や成り立ちを調べることで、星がどのようにできるのかを明らかにしたいと考えている。
 趣味は釣りで、特にサーモン釣りに熱中している。また、俳句を詠むことも好きで、釣りをかねて吟行(ぎんこう)することもある。好きな俳人は松尾芭蕉で、「夏草や(つわもの)どもが夢の跡」がお気に入りの句で、たびたび俳句を口にしては、それに込められた余情(よじょう)を味わっている。いつか岩手県平泉町に行きたいと考えているが、その機会はまだ訪れていない。

早川(はやかわ)文哉(ふみや)

 理学研究所のウイルスハンター。教科書を読むことと運動することが好きな少年時代を過ごし、学校以外に特別な勉強はせず、むしろ柔術に打ち込んでいた。周囲の期待から、なんとなく医学部に入り、入学後、ミハイル・ヌクタロフへの憧れからMMAをはじめ、医学部の学生のときにプロデビュー。5連勝をかざるが、6戦目で減量に失敗して判定負けしたことに失望し、感染症が世界的に流行してからウイルス学の研究者を志すようになった。現在は臨床的な研究より基礎的な研究に関心があり、生命の起源や進化をめぐる議論にウイルス学から貢献したいと考えている。
 大衆文化が好きで、息抜きに漫画を読み、手塚治虫の作品を好んで読んでいる。特に『火の鳥』、『ブラックジャック』がお気に入りのようだ。また、アイドルやロックバンドのコンサートによく行っており、ときどき知り合いに連れていかれるクラシックコンサートではすぐに眠くなるが、アイドルのコンサートでは、他のファンとともに独特の応援パフォーマンスをすることがある。

アンドレイ・オザワ

 ラーカム大学の大学院生。富豪の長男で、これまで何不自由なく生きてきた。スイスの寄宿学校出身で、学士論文で第三不全性定理を証明した数学の天才である。金融工学にも精通しており、実際の投資活動もうまくいっている。孤立しがちな天才ではなく、また自分を大衆よりすぐれていると感じ、優越感で結ばれたグループだけで交際するようなこともなく、たびたび素性を隠し、知らない人と一緒にパーティゲームに興じている。
 関心のある人物はゲーデル、ラマヌジャン、南方熊楠。最近読んだ本は『ビート・ザ・ディーラー』、『スペードの女王』、『賭博者』だが、ファウスト伝説のコレクターでもあり、まれにロシア文学の長編を読んでいる。ワーグナーやモーツァルトの歌劇を見に行くこともあり、年末になると「第九」を聴きに行くのが恒例となっている。

大島(おおしま)(あきら)

 ラーカム大学出身の獣医。ふだんは獣医師として働いている。幼少のころから探検、特に登山が好きで行動力がある。エベレストよりもK2の冬季登頂を夢見ている。狩猟も好きで、イヌイットの師匠に学んだ猟銃の扱いが非常にすぐれている。これまでにアザラシ、イッカク、セイウチを捕まえたことがある。
 菜食主義者ではないが、ヴィーガン料理を好んで食べている。 趣味はヨガで、インド哲学にも関心をもっている。探検家が書いた本や文化人類学に関する本をよく読んでいるが、愛読書は『ヴァガバッド・ギーター』であり、サンスクリット語を勉強するほどはまっている。

立花(たちばな)(さとし)

 科学ジャーナル『探究』の編集者。生物学の博士号を取得している。『種の起源』をくり返し読む無神論者であり、進化論を否定するひとたちを軽蔑している。ただし、優生思想に関しては否定的である。
 黒人は遺伝子的に知能が低いとするワトソン博士の主張はまったく信じていないが、博士がノーベル賞のメダルを数億円で売却したことについては愉快な話だと思っている。権威主義者を嫌ってはいるが、左派政党を支持したことは一度もなく、表現の自由を奪う独裁体制をひどく嫌っている。
 コナン・ドイルの作品を読むことがあり、ニーチェが書いた本もよく読んでいる。お気に入りの作品は『ザ・ロスト・ワールド』、『動物農場』、『すばらしい新世界』。好きな言葉は「神は死んだ」、「生物は遺伝子の乗り物に過ぎない」である。

用語説明

ラーカム大学:世界最大の大陸の北方にある世界最大の国土ルシンに存在する、この国最古の大学。軍事研究を含む理工学や医学の分野で世界的に知られる。ルシンは天然資源を豊富に有する世界有数の軍事大国であり、IT革命後は世界中にサイバースパイの基盤を構築している。

理学研究所:島国にある研究所。基礎研究から応用研究まで行う研究所であるが、もともと国の産業や工業を興すために設立された。この島国は革命により政治社会体制を変え、ルシンのライバル国などと協力関係を築き、急速に近代化を達成させたことで知られる。

第三不全性定理:数理論理学に関する定理。ある形式的体系において、証明も反証もできない決定不可能な命題を示すものである。論理学は古代以降、あまり進展がなかったが、近代に入り、論理学の記号化と公理化が試みられてから研究が進展し、公理系に関する理解が深まり、計算理論の発展にも寄与した。

探究:学術出版の企業が発行する、国際的な総合科学雑誌。この雑誌に掲載される論文の研究水準は高く、国際的に高く評価される。世界各地にオフィスがあり、世界中から膨大な論文が寄せられるが、掲載率は10%以下である。商業的な理由もあり、近年アクセシビリティを高め、科学に関心のある人に対して、よりリーダブルな雑誌にしようと試みられている。

第一場面

      天つ(そら) ふりさけみれば ながれ落つ 流星(かきゅう)におもふ 生命(いのち)のもとい

 惑星間を飛来する固体物質。この小天体が惑星に衝突するとき、大きさによってはクレーターが形成される。このクレーターという言葉は古代ギリシア語のクラテールに由来し、自作の望遠鏡で月の表面を観察したガリレイが最初に用いたと言われている。彼が行った観察記録については『星界の報告』を参照してほしい。発見された木星の衛星についても述べられている。
 また、隕石の衝突が生態環境に影響を及ぼすことがあり、大きな隕石の衝突によって発生した大量の(ちり)が太陽光をさえぎり、地球の寒冷化と光合成をする植物の減少が鳥類をのぞく恐竜を絶滅へと追いやる要因になったという説がある。
 このように、火球は地上の生命に大きな影響を与える可能性があるのだが、今ひとつ、数メートルであろうか、比較的小さな隕石が標高8000メートルを超える山の中腹(ちゅうふく)めがけて、長い尾をひきながら飛来している。この山は地元の住民の信じる神の名と同じアグリナークと呼ばれているが、別名をアブジョーラという。アブジョーラは大食漢という意味であるが、この山の登頂は非常に難しく、特に冬期登山による犠牲者の多さから、登山家の間で人を食う山として噂されるようになり、やがてアブジョーラと呼ばれるようになったのである。火山と言われるが、前回の噴火がいつだったのか、それを知るものは誰もいない。
 火球はやがて山に到達し、閃光と爆音とともに姿を消した。爆発の時刻は夜なかであり、この山アグリナークにもっとも近い街カルナパルクでは、強風で窓が割れる家があり、大きなものではなかったが地震が体感された。閃光を目撃し爆発音を聞いたものたちは、何事かと話し合い、いろいろなことが噂された。

 半島ヌークに存在するアグリナークの中腹、くぼ地に死骸が見える。頭部だけしか見えないが、どうやら氷期に冷凍保存された動物が腐食連鎖で分解されなかったらしい。
 その死骸に興味をもったのか、一頭の白い肉食動物が闇にまぎれてそれに近づいている。頭胴長は2mで猫のような顔。腐肉食が習性なのだろうか、死骸に噛みつき、姿を消した。

 ヌーク半島の70%は氷床と万年雪に覆われており、残り30%は沿岸地域である。有史以前から入植が行われ、彼らの子孫と近代以降の入植者によってカルナパルクの近代的な社会基盤が形成された。近年ルシンによる資源開発が計画されている。
 現在、周囲を海に囲まれたこの街は、アグリナークのほか、漁業と観光で知られている。クジラ、イッカク、シャチ、シロクマを見るために訪れるひともいれば、氷山やトナカイをみながら氷の大地をハイキングするために訪れるひともいる。また、夜空に輝く光のカーテン、オーロラを見るためにカルナパルクを訪れる人も多い。

 いま、沿岸部に位置し、海に囲まれたカルナパルクの街が新たな陽光に照らされる。この街の住民カニックが目を覚まし、覚醒が十分でない頭で壁にかかった仮面を見つめている。
「それでも・・・」
と彼は心中でつぶやく。
「計画は変更したくない。そこには(いま)だ山がある。マロリーがタイムズ紙の記者に登山の理由を尋ねられたとき、どのような思いでそれに答えたのか明確にはわからないが、彼の答えには、ただ自分がなすべきことをなすという決意を感じる。決断力のある人に、なぜそれを為すのかなどと問うても、思索にふける性質をもちあわせない以上、問いを投げかける人を満足させる答えなどかえってはこないだろう。新しい一日がはじまった。なすべきことをなす。それだけだ。」
 壁の仮面が表情を変えずにカニックをみつめている。能面には女の恨みを表したものがあるが、それよりも呪術的な異彩を放っている。もともとは、シャーマンが用いた呪術に起源があり、他の人間からかけられる呪術から身を守るためのものと信じられたものだが、今では家を守るためのオブジェとして用いられることが多いようだ。神棚(かみだな)に似た役割を担っているのかもしれない。
 カニックは携帯電話を手に取り、友人に電話をかけ、イギクがそれに応答する。
「・・おはよう。昨日騒がしかったが、無事か?」
「ああ、こっちは問題ない。そっちはどうだ。」
「割れた窓ガラスがあるようだ。それ以外は特に。まあ新しいのと交換するいい機会にするよ。」
「そうか。それで、例のことだが、予定通りアグリナークに登りたいと考えている。ナーナクとイシクからはすでに変更しないでいいという了承を得ている。どうしても延期したい理由でもあれば検討するが?」
「いや延期はしなくていい。山が光ったというものもいて、気になってもいる。」
「わかった。じゃ明日、予定通りアグリナークに向けて出発しよう。」
 カニックは通話を終え、朝の散歩に出かけた。太陽の光が雲間に輝いている。白夜の季節を過ぎており、平均気温は零度前後だ。自宅に戻る途中で声をかけられた。
「やあ。山で爆発があったらしいな。」
「隕石でも落ちたんだろう。」
「隕石か。そうかもな。だが、飛行機が落ちたとか言ってるやつもいるし、UFOが着陸に失敗したんじゃないか、なんて言ってるやつもいる。」
「UFO?地球外からお客さんがきたんなら挨拶にいかないとな。」
「ははっ。ちがいない。山には行くのかい?」
「そのつもりだ。ルシンの調査隊が入るかもしれないが、その前に登りたい。」
「やめたほうがいいとは言わないが、気をつけろよ。」
「まあ、あの山は人を食う山だそうだからな。覚悟して行くよ。」

 翌日、カニックを隊長とする一行はアグリナークに向けて出発した。カルナパルクからアグリナークまで数十キロメートルあり、歩いていく場合、山のふもとに辿り着くには雪原や氷床の上を歩かなくてはならない。突然氷が割れ、深いクレバスに落下すれば死は免れないだろう。
 カニックは、荒涼とした風景にそびえる山を前にし、イギクたちに語りかけた。
「山頂を目指すが、山頂に立ったところで、山を征服したことにはならない。単調さに耐え、弱音を吐かずひたすら前を進む。死を覚悟して進むが、むこうみずな挑戦はしない。命の危険にさらされる場合には迷わず引き返し、次の機会を待つことにする。」
「それでいい。しかし・・ここは死を感じさせる山だな。火山らしいが、地球の鼓動は聞こえない。モンタンヴェール展望台から見える光景が与えるような印象は全くない。」
「そろそろ登ろう。中腹にあるくぼみも気になる。火口でないことは明らかだが。」

 カニックたちは標高5000メートル付近でベースキャンプを設置し、山頂を目指したが、途中の岩場にすき()を見つけ、探索の結果、紫外線ライトで虹色に光る石を発見した。
 その後、ナーナクとイシクが高山病の症状を訴えたため、ベースキャンプまで戻ることになったが、夜間、イギクが負傷する事件がおこった。これ以上の登山が不可能であることを悟ったカニックたちは下山を決意し、カルナパルクに戻ろうとするが、その途上で殺人事件が発生し、無事カルナパルクに帰還できたのはカニックただ一人であった。
 カニックは、カルナパルクの自宅に戻ると寝室に入り、すぐに深い眠りについたが、長時間の睡眠から()め、朝食をとり、落ち着きを取り戻すと、知り合いの鉱物学者に虹色に光る石を見つけたことを伝えた。
「高橋、ちょっといいか?」
「大丈夫だ。」
「アグリナークに登ったんだが・・・」
「アブジョーラに?」
「ああ。アブジョーラに登った。ただ、いろんなことが起こって・・・」
「山岳事故か?」
「山岳事故・・あれをそう呼んでいいかはわからない・・。殺人事件がおこったことは確かだ。」
「殺人だと?」
「そうだ。しかし、連絡したのはそれを伝えるためではない。俺たちはアグリナークで虹色に光る石を発見した。今は手元にないが、動画はある。」
「光る石?蛍石か。」
「紫外線ライトを当てると虹色に光った。」
「なるほど。とりあえず動画を見せてもらいたいな。・・すまない、少し用事ができた。またすぐこちらから連絡する。」
「わかった。」

第二場面

 登山家のカニックから、虹色に光る石がアグリナークに存在することを知った高橋は、その石を入手するための登山隊を結成すべく、調査に関心のありそうな人たちに連絡を取り、インターネットを介して会議を開いた。

「諸君、お集まりいただきどうもありがとう。貴重な時間を割いてくれたことに感謝している。大まかのことはすでに伝えたと思うが・・。今日はカニックを呼んでいる。アグリナークに登り、虹色の石を見つけた登山家だ。
 この調査は容易に遂行できるものではない。風の強さや気温の低さといった環境が登山を難しくしているのだろうと、そう考えるかもしれない。それは確かにそうなのだが、どうやらそれに加えて、別の危険もあるらしいのだ。まず、カニックの話を聞いてほしい。」
「こんにちは。カニックです。よろしくお願いします。どこから話しましょうか。・・・そうですね、アグリナークのふもとに着いたところから話しましょう。
 ふもとに着いた私は、イギク、ナーナク、イシクとともに中腹に半球型のくぼみがあることに気づきました。何かが落ちたか、何かが爆発したか、どちらかでしょう。アグリナークに向かう前日、カルナパルクでは爆音が聞かれ、地震がありました。家の窓ガラスが割れることもあったようです。くぼみが形成されたことは気にはなりましたが、我々の目的はその調査ではないため、あまり長くそこに留まることはなく、くぼみより標高の高いところにベースキャンプを設置すべく上へと向かいました。
 くぼみから上、標高6000メートルあたりからだと思いますが、岩場が多く、登山がより困難になっていきます。デスゾーンよりも低い位置に最終キャンプ地を設置する予定でしたが、途中で岩場にすき()を見つけ、少し調査したところ、紫外線ライトで虹色に光る石を見つけました。これが証拠の動画です。
 その後、最終キャンプ地を設置し、山頂を目指そうとしたのですが、ナーナクとイシクに高山病の症状があらわれたため、ひとまずベースキャンプに降りることになりました。
 まあ、ここまでは、珍しい石の発見をのぞけば、それほど珍しいことでもないでしょう・・・。事件は、夜中、キャンプ地で休んでいるときに起こりました。私は目撃していないのですが、そいつは突然イギクを襲ったようです。イギクによると、どうやら白い2から3メートルの肉食動物で、左肩を少し噛まれました。
 登頂はあきらめ、下山し、ふもとからカルナパルクに戻る途中で別の事件が起こりました。あのイギクの姿をどう説明すればいいのか・・・。ナーナクとイシクの症状は下山とともに落ち着いてきたようですが、突然、イギクにピッケルで襲われ、心臓や頭を刺されました。人間の身心が機械であるなら、狂気に支配された人間の振る舞いも物理的に説明できるのでしょうが、何が彼の理性を狂わせ、常軌を逸する行動へ導いたのか、私にはわかりません。彼は私にも襲ってきました。三日月蹴りで、アイゼンを肝臓に刺せたのでしょうか、運よくイギクの動きを止めることができました。しかし、彼が立ち上がり再び襲ってくる可能性もありましたので、ナーナクとイシクには申し訳ないとは思いましたが、そのすきに私はカルナパルクに向けて必死に逃げました・・・。
 登山隊が結成されるのであれば、途中でナーナクとイシクを探していただきたい。イギクから受けた傷の程度からして、最悪の事態は覚悟していますが・・・。」
「カニック、話してくれてありがとう。諸君、お聞きの通り、虹色の石を採取するための探検には危険生物に遭遇するリスクがある。」

 そう言うと、高橋は大島に話しかけた。
「大島くん。君は登山経験が豊富で、狩猟の腕もいいと聞いている。アグリナークを登ったことはあるのかい?」
「いや残念ながらない。関心はあるが・・。それに銃の扱いはそれなりに自信はあるが、私の場合は海獣狩猟が中心なんだ。」
「なるほど。カルナパルクに行ったことは?」
「白夜の季節に何度か行ったことがある。観光と狩猟が目的だったが。」
「アザラシ猟はよく聞くが、シロクマを仕留めたことは?」
「ないこともないが、数えるほどだな。」
「十分だ。」
「最近は大国の圧力が厳しくなってきて、猟をするだけで蔑視されることも多くなってきた。何を狩ってよくて、何を狩ってはいけないのか、何を食べてよくて、何を食べてはいけないのか、政治的、経済的、軍事的に優位にあるひとたちが恣意的に決定し、その価値観を正しいものとして否応(いやおう)なく受け入れさせようとするのは野蛮だと思うね。」
「ある民族の価値観を盲目的に擁護する気はないが、その点については同意できる。『野生の思考』は、科学的な思考よりも基礎的で普遍的な思考という考えもあるしね。それはそうと、カニックの話からわかるとおり、今回の調査は危険生物に遭遇する可能性がある。大島くんには隊長になってもらいたいのだが。どうだろうか。」
「いいだろう。K2の冬季登頂に向けて、いい経験になるだろうしね。」

 つぎに、高橋は大学院生のアンドレイ・オザワに話しかけた。
「アンドレイくん。大学院での研究はすすんでいるのかい?」
「そうですねえ。計算理論の文献を読んでいます。」
「計算理論か、私にはさっぱりわからない分野だな。しかし、君ならなにかしら素晴らしい発見ができると思っているよ。」
「ありがとうございます。がんばります。」
「それで、カニックが発見した石についてはどう思う?残念ながら採取された石はカルナパルクへ戻る途中で紛失されたのだけれども。」
「いやあ、たいへん興味深いです。外見からして、ベンゾぺリレンが含まれていると考えていいんでしょうか?」
「その可能性が高い。」
「アグリナークは新規造山帯に位置する山ですか?」
「そう考えられている。」
「油田は新規造山帯に多く分布していると聞きます。」
「その通りだ。ただアグリナークは火山といわれるが、最後の噴火がいつだったかよくわかっておらず、調査もすすんでいない。」
「・・・そうですか。では私はスポンサーを申し出ます。最近、投資がうまくいっているんです。まあ、運がよかっただけですが。」
「それは大変ありがたい。本当にいいのかい?」
「ええ。できればコアボーリングなんかもしたいのですが、今回は岩石の採取が目標ですかね。隕石も見つかればいいのですが・・。」

「では、早川くん。ウイルス学が専門だと理解しているが、最近はMMAはやってないのかい?」
「競技者としてはもうやってない。健康のために軽くやるぐらいだ。それも週一回程度だな。」
「そうか。それで、カニックの話をどう思う?アグリナークに隕石が衝突した可能性が高いが。」
「隕石のかけらが見つかれば、それを裏付けることができるだろうね。隕石の衝突が生命の誕生にきっかけを与えたと、そう考えるひとたちがいる。
 この世の生命、地球上の生命がどのようにして誕生したのか、なにゆえ生命がうみだされたのか、後者の深遠な問いにこたえることは難しいが・・。とにかく、私も隕石のかけらを見つけたいとは思っている。」
「そうだな。隕石の破片を見つけられるかどうかわからないが、調査はしてみたい。あと、発狂といっていいのか、イギクの行動についてはどう思う?」
「正直わからないが・・。ただ、肉食動物に噛まれたというのが気になる。しかし・・・、狂犬病ウイルスのようなものであれば、一般に潜伏期間は一か月以上だ。初期症状の後、精神錯乱や興奮状態などが現れるといわれているが・・・。」
咬傷(こうしょう)部位からウイルスが侵入し、脳に到達した可能性があると考えていいのか?」
「可能性はあるだろう。しかし、確かなことは分からない。調査が必要だ。登山隊に加わりたい。」

「最後に立花くん。どうする?」
「もちろん同行させてほしい。新鉱物の発見があるかもしれないしね。個人的にはアイスマンのような考古学的発見のほうが興味あるのだけれど。」
「アイスマン?氷河で見つかったミイラのことかい?」
「そうだ。氷が溶けた結果、観光客に発見された凍結ミイラのことだ。いろいろな死因が考えられているが、弓矢で殺された可能性があるらしい。」
「争いか・・。それより以前のことになるが、後期旧石器時代の墓地から発掘された人骨には武器による傷があり、その時代にも戦争はあったそうだ。戦争の起源がいつなのか知らないが、そもそもヒトは戦争をする動物なのかもしれないね。」
「人口増加と資源の偏在と分配が戦争の原因、もしくは誘因になるという考えがあり、戦争は人間の本能に基づく宿命ではなく、いろいろな要因によって発生するという考えもある。しかし、どうなんだろうか。コンラート・ローレンツなんかは動物の攻撃性が戦争をもたらすと考えたようだが。」
「なぜヒトはヒトを殺すのか、私にはわからない。個人であれ集団であれ、殺人行動が本能的なものに基づくものではないなら、そうした行動が発生しないコミュニティをつくることは可能だと思うが、この考えは理想主義者の信念のように思える・・・。結局、レイモンド・ダートがいうようにキラーエイプ仮説が正しい可能性を否定できない。少なくとも私には。」
「そうかもしれないね。まあ、科学調査には参加させてもらうよ。」
「わかった。」

 カニックをのぞき、会議に参加したものたちすべてが科学調査に参加する意志を示した後、高橋は全員に質問あるかと問いかけると、大島が口を開いた。
「イギクが襲った肉食動物のことについてもう少し知りたい。カニックさんが知っていることはすべて教えてもらいたいのですが。」
「わかりました。とはいっても、私はイギクから聞いただけで、はっきりしたことはわかりません。猫のような顔をしていたとか・・・。」
「襲われたのは標高何メートルの地点だったんですか。」
「5000メートル付近だと思います。」
「そうですか・・。標高の高い岩場で生息する、白っぽいネコ科の肉食動物で思い当たるのはユキヒョウですが・・。あれは人間を襲わないと聞きますし、何なんでしょうね。」
 カニックと大島の話を聞いていた早川も口を開く。
「当然のことだが、噛まれないように注意する必要がある。狂犬病ウイルスではないと思うが、唾液に未知のウイルスが含まれている場合、どうなるかわからない。イギクさんがいれば何かわかるかもしれないのだが・・・。イギクさんはどうなったんですか?」
「あの事件の後、彼がどうしたのか私にはわかりません。イギクは私を追いかけてはきませんでした。」
「そうですか・・。」
「では、会議は閉じよう。詳細については大島と決め、後日連絡する。ごきげんよう。」

 こうして一行は、ヌーク半島にある山、アグリナークを目指すことになった。彼らの目標は登頂ではなく、ナーナク、イシク、イギクの捜索、隕石および紫外線を当てると虹色に光る石の採取であり、集合場所はカルナパルクである。

第三場面

 ヌーク半島上空のジェット機が風を切りながら滑走路に着陸する。大島を隊長とする一行は、陸路および空路でヌーク半島に向かい、漁業が盛んな街カルナパルクにあるホテルに集合した。なかなか立派なホテルである。カニックの姿もあった。
 「ようこそ、カルナパルクへ。大陸の都市ほど発展してはいませんが、食べ物はおいしいですし、たまには喧騒から離れた自然の中で過ごすのも心と身体(からだ)にいいと思いますよ。まあ、みなさんの目的が観光でないことは知ってますけどね。」
 カニックの言葉に大島がこたえる。
「自分みたいな連中だと狩猟もできるしね。今日はよろしくお願いします。」
「はい。海岸線まで散歩して、その後、入山前に安全祈願の儀式をしましょう。」

 そう言ってカニックは、大島たちを海岸線まで連れて行き、彼らをボートに乗せた。ボートをしばらく走らせると氷河が見えてきた。
「お、手ごろなサイズの氷が流れてきた。」
 そういうと、カニックは氷をとりあげた。
「この氷はしょっぱくないんだよ。飲み物にいれるといい。時間があれば釣りをしてもいいんだが、それはまたの機会にして今日は早めに戻ろう。」

 街に戻る途中で、アンドレイ・オザワがカニックに尋ねた。
「この街の主要産業は漁業なんですか?」
「漁業ですね。輸出品の大半は魚介類と水産加工品です。ししゃもは、ここでは食べられていません。そういう食習慣というだけのことですが、その代わり島国に輸出されるばかりです。」
「生魚を食べるところは私たちと共通してますね。島国では、沿岸地域の食文化がひろまった結果だそうですが・・。ところで、それ以外の産業はどうなんですか。鉱物資源産業とか。この半島にどれぐらい資源があるかわかっているんですか?」
「そうですねぇ、ルシンの資源開発が計画されていますから、何かしらそれなりに埋蔵量があると思うのですが、まだ本格的に開発されてはいませんね。ただ、資源開発が進めば主要産業の一つになるかもしれません。」

 カルナパルクに戻ると、カニックは高橋たちを連れて安全祈願の場へと向かった。大島が立花に尋ねる。
「どうする立花くん。先にホテルに戻るかい?」
「いや、さすがにつきあうよ。正直にいうと拒否感がないこともないが、この程度であれば、有用性が認められないこともない。」
 一行が目にした儀式は、インドのホーマや密教の護摩(ごま)(ぎょう)を思わせるもので、火壇の中の火が煌々(こうこう)と勢いよく燃えるなか、呪師が何やら呪文を唱えていた。
「この儀式は火山の神アグリナークに祈願するもので、荘厳な自然のさまを畏敬する感情から発展したといわれています。科学者のみなさんからみれば、このような行為は無意味なものに思われるでしょうけれど、士気を高める決起会のようなものだと考えれば、それなりに有益なところもあるでしょう。」
 カニックの発言を聞き、大島が口を開いた。
「超自然的な存在を想定して、そのはたらきにたよって願いを達成しようとするんだから、これは君の嫌いな呪術(じゅじゅつ)と考えられるだろうね、立花くん。」
「勘違いしてもらっては困るね。嫌いなのは、正確にいうと、迷信がもたらす不幸や暴力だからね。まあ、それはともかく、フレイザーの考えだったか、こういう話をきいたことがある。呪術による世界の操作が失敗することを契機として、想定された超越的な存在にひれ伏す宗教が誕生し、やがて、実験や論理的思考によって見出された客観的な因果の法則を利用して世界に向き合う科学が成立したとかなんとか・・。
 それが人間精神がたどるべき唯一の道とまではいわないが、科学的理解と方法が発達してきた時代において、因果関係を不正確にとらえる呪術にたよろうとする人の気持ちは自分にはよくわからないな。」
「なるほど、科学的精神が発達したことで人類の不幸が減った例はいくらでもある。魔女狩りを終わらせたのもそうだろう。悪天候による不作や疫病が神による天罰や魔女による魔術ではなく、気候現象の変動によるものだという客観的な理解がひろまったことで、迷信に基づく暴力がなくなったのだから。」
「魔女狩りに関しては、異端者の排除という政治的な理由による迫害もあったと思うけどね。」
「話を聞いていると、立花君は科学的ヒューマニズムとでも言ったらいいのか、そういう考えをもってるようだね。科学誌の仕事をすることを志したのは、啓蒙による平和運動でもしようと思ったからなのかい?」
「結果として人類の大いなる目標にいささかでも貢献できればいいとは思っているが、そうした主義を声高(こわだか)喧伝(けんでん)するために編集者を志したわけではない。そういうのは、活動家の仕事であって、布教のために僻地(へきち)に入る宣教師のように、非科学的な考えを抱くひとたちの中にはいっていって、科学の宣教をするつもりは全くない。
 信教の自由という考えがあるだろう。他人からそう見えなくても、その自由をそれなりに尊重してるんだよ。ただ・・・そうだな、個人的には神なき時代において、科学的ヒューマニズムがひとつの指針だという直観は抱いているけどね。」
「ほう。興味深いね。もう少し話してもらえないか?」
「ニーチェは、ツァラトゥストラに語らせた。神は死んだと。一説によれば、これは次のように説明される。キリスト教の誠実であれ、真実を語れという教えが科学的精神を有するものに響き、その自由な思考が神に対して向けられた結果、それは人間がつくりだしたものにすぎないことがわかってしまったのだと。
 処女懐胎、復活などの言説が信じられなくなり、神も信じることができなくなってしまった。価値あるものが価値を失い、神のない世界にどう生きればいいのかわからなくなってしまった人たちはどういった状態におちいるだろうか。喪失感、生きる指針の欠如、よりどころのなさ、ニーチェはそれをニヒリズムと呼んだ。
 神なき世界、神なき宇宙はどのようなものだろうか。物質とエネルギーは絶えず変動している。結合と分裂。生成と消滅。これはまだ確定的ではなく、否定される可能性がある見方だが、宇宙は膨張と収縮を永遠に繰り返しているようにも思える。
 コヘレト書を書いたものはこう記している。「かつてあったことは、これからもあり、かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。見よ、これこそ新しい、と言ってみても、それもまた、永遠の昔からあり、この時代の前にもあった。見よ、これこそ新しい、と言ってみても、それもまた、永遠の昔からあり、この時代の前にもあった。」と。
 そしてニーチェは問いを発する。無限に繰り返される苦痛と快楽の人生を欲するか、それを諦念(ていねん)の思いなく、望むものとして肯定できるか、と。
 大島くん、君がこれにどう答えるか私は知らない。ニーチェはツァラトゥストラに、生じたことを自分が欲したことにつくりかえることが救いだと語らせているが、これもそのようにできる者でないならば、納得できるものではないだろう。少なくとも私が首肯する答えではない。
 それで、私が選んだのは、「それでも、科学的認識による世界の直視とそこから生まれる同胞愛に基づく行動をとる」、という答えだった。科学的精神に目覚めたものは、もはや非科学的な言説を盲目的に信じることはできない。無理にそうしようとしても精神に狂いが生じるおそれがあるだろう。そういう人は、科学的に世界を観るしかないのだ。そして、その心で世界を直視すれば、いかに人間がもろい存在であるか、いかに悲惨な状況に置かれているかを悟るだろう。こうした事態を直視したとき、同胞に対する同情、慈悲あるいは寛容の情が生じるのではないか?そうなれば、おのずから、あるいは望んで、同胞愛に基づく行動をとることになるだろう。」
「なるほど・・。そうすると、自然に従い、自然を征服し、生活条件を改善せよといったフランシス・ベーコンや、科学の目的が生存条件のつらさを軽減することだといったブレヒトは、行為に関しては立花くんと同じようことを主張したことになるのかな。もっとも、君と同じ思いを背景にしているとは言えないが・・。
 ただ、私が気になったのは、世界には、少なくとも人間の世界には道徳律に関わる問題があるということだ。これは科学の対象でない場合がほとんどだろう。妊娠中絶や死刑制度などの是非について、人々あるいは代表者の合意でなく科学的証明で決着がつくのであれば、こんなにも長い論争にはなっていないと思う。
 立花くんの考えに大いに賛同するが、科学的思考が世界を捉えきるという前提には疑問をもっているんだ。」
「まあ、世の中が複雑なことは認めるよ・・。証明も反証もできない真なる道徳律があるといって教化しようとする人は狂信状態だと思うけどね。」

 儀式が終わると、大島たちはカニックに礼を言い、彼と別れてホテルへと戻っていった。

 夕食を終え、自由時間となり、大島たちはそれぞれの部屋へ入っていったが、しばらくすると高橋が立花のいるガラスイグルーを訪れた。夜空にはうすくオーロラが出ている。
「立花くんはオーロラ見るの初めて?」
「初めてだね。こうして、ゆったりと光のカーテンを見ていると不思議な気分になるよ。」
「科学的には、太陽風が地球の磁場にひきつけられ、酸素原子や窒素原子と衝突する結果ひきおこされる現象などと説明されるけど、こういう人為によらない宇宙の働きを目の当たりにすると、神秘的というか、そういう気分になるのもわかる。銀河鉄道なんてものがあるなら乗ってみたいもんだね。」
「そうした宇宙の働きで生命が生まれ、やがて人間も存在するようになったわけだが、いったい人間なんてものはなんで存在してるんだろうか。まあ、特に理由もなく、ただそこに、おそらく一時的にそこに在るだけかもしれないが。」
「そりゃまたずいぶん哲学的な問いだね。よくわからないが、サルトルがいったように、まず存在があって、存在理由なんかはそれなりに発達した意識が決めるものかもしれないね。」
「そうかもしれない。ただ・・。」
「ただ、なんだい?」
「ただ、自分には人間の崇拝行為というものがわからない。神をあざむくほどの策謀家であれ、アレクサンダー大王のような軍事的英雄であれ、あるいはカリスマ的宗教指導者であれ、帰りつくところはみな同じ。社会にとって、人間にとってどんな存在理由があろうと、所詮(しょせん)は人間に過ぎない。誰であれ、宇宙的存在価値なんてものは無に等しく思える。それにもかかわらず、ある人間が別の人間を過度に崇め奉るのはどうしてなんだろう。」
「さあ・・。そういうのも個人や集団に現れる人間の特性なんだろうけど。」
「まあ、明日に備えて、あまり難しい話はやめにするか。」
「それがいい。」

 翌日、青空の(もと)、大島たちはアグリナークを目指して氷河を歩く姿があった。彼らはときどき氷河の裂け目を目にしながら進んでいったが、山のふもとに至る途上で、ナーナクとイシクの姿を見ることはなかった。
 高橋が大島に話しかけた。
「大島くん」
「なんだ?」
「ナーナクとイシクのことだが、どこにも見当たらなかった。」
「ああ。」
「どう思う?・・カルナパルクに戻ったとは思われないが。」
「・・・カニックさんが歩いたのと同じコースを通ったのであれば、やはり見過ごしたと考えるのが自然だと思う。帰りにもっとよく探そう。」
「わかった。」

第四場面

 大島たちはアグリナークに辿(たど)り着き、重々しく存在する雪山を見つめていた。中腹には、カニックが言った通り、半球型のくぼみが見える。荒涼とした光景に屹立(きつりつ)する姿は、それを見る者の心に恐ろしくも崇高な思いを抱かせる。大島が口を開いた。
「アブジョーラとはよく言ったものだ。これまでどれだけの人間が犠牲になったのだろうか・・・。
 あのくぼみは・・・やはり隕石によるものと思われるが、物的証拠がない以上断定はできない。圧力や温度の変化にともない、永久凍土に含まれる固体のメタンハイドレートが気化し、爆発することでクレーターが形成されることがあるときく。
 まずは、予定通りあのくぼみを目指すことになるが、気をつけて登ろう。足下に気をつけるのはいうまでもないことだが、この山には人を襲う生物がいるからな。何か凶暴な獣を見たら知らせてくれ。」

 こうして、大島たちは一歩一歩、上へ上へと荒涼とした雪山を登り始め、森林限界を越え、標高4000メートル付近にあるクレーターに辿り着いた。
 そのくぼみは、富士山の宝永火口を思わせもしたが、火口クレーターであるはずもなく、高橋とアンドレイ・オザワは隕石の破片を探したがすぐには見つからなかった。
「どこかにあると思うんですけど、いつまでも探すわけにはいかないですし、今日は切り上げたほうがよさそうですね。」
「そうだな、アンドレイくん。ひょっとすると隕石コレクターが先に見つけてしまうかもしれないが・・・」
 2人の会話を聞いた大島が口を開いた。
「いったん上に登ってベースキャンプを設置することにしよう。まずは虹色に光る蛍石を手に入れたい。
 幸い、私の猟銃が火を吹くことはなかったが、カニックさんたちは、ここから上の岩場で白い肉食動物に襲われたというのだから、より危険になることを覚悟してほしい。」

 一行が上へ登っていると、高橋が立ち止まったので、不思議に思った大島が声をかけた。
「どうした高橋くん。獣か?」
「いや・・・。」
「高山病の症状でも出たのか?」
「ちがう・・・。あれを見てくれ。」
 高橋が示したところに視線を向けた大島たちは、虹の谷のグリーンブーツを思わせる登山者の遺体を目にした。
「あれは・・イギクだ・・。」
「イギクさんだと?」
「ああ・・損傷しているが・・。滑落死だろう。」
「しかし、どうして・・。」
「わからない。下山したイギクがなぜここに・・・。」
「検査材料を採取したいところだが、ご遺体の回収は別の機会にしよう。」
「ああ。」

 大島たちはさらに上に登り、標高5000メートル付近にべースキャンプを設置し、その日はそこで夜を過ごすことになった。
 星空を眺めながら、立花がアンドレイに話しかけた。
「アンドレイくんに聞いてみたいことがあるんだけど、いいかな。」
「なんですか?」
「優生思想、とくに社会の進歩や発展のために、遺伝的に優秀な人間を残していこうとする考えについてなんだけど。」
「優生思想ですか。もちろん、国家のために犠牲となる人間が必要なんてことは思いませんが、現代のありふれた常識に含まれる優生思想的なものに対しては、無批判に受け入れて過ごしてしまっているように思います。」
「そうなんだよね。みんなヒトラーの政策や劣等遺伝子を排除しようとする政策を批判する。
しかし、より速く走れる馬を残そうとして遺伝子を選別することなんかに対しては強い批判はない。また、ある国では精子や卵子の提供がビジネスとして成り立っていて、当たり前のように選抜が行われている。これは劣等遺伝子の排除ではないが、遺伝的に優秀な生命を生み出そうとする人為的操作であることは疑いえないだろう。
 我々は優生思想に基づく過去の政策を否定しながら、その一方で、より生存に有利な遺伝子をもつ生命を誕生させようとすることに対しては、それほど否定的ではないように見える。これは優生思想の呪縛から解放されていないことの証拠なのではないか?」
「・・・遺伝子操作までいかなくても、スポーツ、教育などの分野で、競争によってよりすぐれた人間を選別し、厚遇することは常識です。その選別が厳しくなればなるほど医学的手段による能力のエンハンスメントが助長されることは避けられないと思います。」
「そうだ。スポーツではドーピングがなくならないし、そうした状況から考えても、デザイナーベイビーの需要は確実に存在しているといえるだろう。遺伝性の病気に対する治療を希望する声がある一方で、望ましい容姿、望ましい身体能力、望ましい知能などを備えたデザイナーベイビーを生みたいという需要があるのだ。」
「程度は別にして、淘汰(とうた)は人間に避けられない本能(ほんのう)(てき)(さが)なのかもしれません。」
「淘汰・・・。ダーウィンは生存競争に有利な変異は保存され、有害な変異が廃棄されるという自然選択の考えを提唱したが、この考えは優生学や社会的ダーウィニズムの考えにつながった。」
「優秀な遺伝子をもつものたちにより多く生殖させ、人類を遺伝的に改善していこうとするような考え・・・ですか? たしか、ダーウィンの従弟(いとこ)、ゴルトンに始まると聞いたことがあります。」
「優生学は生得的質の改善、それを最善にする要因のすべてを扱うとされたが、目的はそのためだろう。社会的ダーウィニズムは自然選択を社会に応用するもので、社会の進化を生存競争に求める考えのことだ。しかし、この考えは『種の起源』が発表される前から存在している。」
「そうなんですか。」
「ああ。古代ギリシアにはすでに似たような考えがあった。プラトンやアリストテレスも優生思想をもっていた。
 プラトンは『国家』でこう書いている。最もすぐれた男たちは最もすぐれた女たちと、できるだけ多く交わり、最も劣った男たちと最も劣った女たちは、その反対でなければならない。すぐれた人間たちから生れた子を育て、劣った人間たちから生れた子は育ててはならない、と。
 『法律』では、羊飼いが健康なものを選び出して世話するように、立法者は国家の浄化に関する手続きを示すべきだと述べているのだ。」
「・・・国家のために、よりすぐれた人間を産ませようとするのは、国益を考えてのことで、私的で利己的なものとは異なりますが、この考えはたしかに優生思想ですね。」
「現代では、露骨(ろこつ)な優生政策は見られないかもしれないが、競争に打ち勝てる容姿、身体能力、知能などにすぐれた少数の人間たちが選抜され、優遇され、富と支配権を握りやすい状況にある。
 生まれによらず、努力によって社会的地位が定まる競争環境は公平だという考えもあるが、先天的性質が同じでない以上、真に公平とは言えないだろう。すぐれた先天的性質を有するものが競争に勝ちやすく、生存に有利であることは否めない。
 優生学に対抗するものとして、環境を改善し、人間のよい素質の発現を促し、よくない素質を抑えようとすることで、人間の幸福を増進しようとする優境学が提案されたことがあったが、これは結局、先天的性質がすぐれた人間や彼らの子孫を繁栄させ、彼らの支配に資するものではないだろうか。先天的にすぐれた性質をもつ人間に富が集中しやすく、彼らのほうがそうでないものよりも生活環境を整えやすいのだから。」
「それはリチャーズという女性科学者が提案したものですね。有能な人間の確保が目的というのですから、この目的は優生学と変わらないように思います。目的達成の手段は異なりますが・・・。」
「遺伝的にすぐれた人間のデザインが議論される時代になった。これは人間の品種改良に思える。出生前診断も優生思想を抱くものにとっては、遺伝子の選別に用いられるものだ。」
「人類が優生思想から解放されているとは言い難いですね。ただ・・気になることがあります。」
「なんだ?」
「サラブレッドは、種の塩基配列の多様性が非常に低いそうです。遺伝的多様性が低いのですから、環境適応力が高いとは言えないでしょう。」
「アイルランドのジャガイモ飢饉は、栽培されていたジャガイモが遺伝的に均一で、多様性に乏しく、疫病の流行で不作になったことが原因だったらしい。
 遺伝性疾患をもつ人にとって、遺伝子治療の発展は期待されることだが、優生思想による淘汰の結果、遺伝的多様性を失うことになるのは(あや)ういことかもしれない。」

 大島たちの背後から忍び寄る一匹の動物がいる。大島たちは誰もきづかない。ネコ科の白い獣は岩場を一気に駆け出しアンドレイ・オザワに襲いかかり、次の瞬間、アンドレイは獣と共に数10メートル滑落していった。
 高橋、早川、立花があっけにとられているうちに、大島は銃を構え、獣を狙って撃った。獣には命中しなかったが、銃声の響きに驚いたのか、その白い獣はアンドレイを置き去りにし岩場を走り去ってしまった。
 大島たちはできるだけ急いでアンドレイがいるところまで下りていき声をかけたが、早川が注意した。
「まて。()まれている。私が手当てしよう。君たちはアンドレイくんに触れてはいけない。」
 早川が応急手当をする間、大島が山岳救助を要請した。

第五場面

 早川に介抱されたアンドレイは、気を失っていたのだが、目を覚ましたかと思うと銃を握り、おもむろに立ち上がり、立花の頭に向けて引き金を引いた。銃声が哀しいほど透き通って響きわたる。立花はその場に倒れ、頭から流れる赤い血が白を染めた。
 大島が銃を手に振り向くと、アンドレイは焦点の定まらぬ目をしている。その目を通してわかることは、気が触れているということだった。やがて、何かが憑依(ひょうい)したごとく、アンドレイの口が動き始める。

「どこから生じ どこに行くのか 
人間の その正体は 何なのか

ふと目覚めれば ここにゐる
ここは一体 何なのか
何かが起こり 何かが失せる
その背後には 何があるのか

世界を統べる 働きがある
万物を 統べる存在
ある者は言う それは神だと

しかしわからぬ 私には
神とは何だ
金持ちの 心を満たし
貧乏人を 空腹にする
ある者は 知力が強く
ある者は 知力が低い
ある者は たくましく
ある者は 弱々しい
ある者は 美しく
ある者は みにくい
神がいるなら 汝に言おう
是正してみよ

いないのか 死んだのか
いや神はゐる
冥界の神 汝はさらふ
権力者 奴隷たち
富める者 窮する者
病める者 健やかな者
汝はさらふ 冥府へ
差別なく 公平に

ヒトとは何だ
ヒトは求める 意志の支配を
己の心を 治めぬものよ
まず支配せよ 自分自身を

ヒトとは何だ
目を覚まし 食べて寝る
ただそれだけだ
ヒトの理性は しれている

より良い未来は 何がもたらす
哲学か? 理想をこめた 芸術か?
歓喜の歌を 響かせるな
恍惚感を もたらす麻薬
酔いから醒めれば 禁断症状
現実を観よ しかと観よ
理想主義者よ 逃避のうちに 滅ぶもの
夢から覚めよ

捨てるべき 命がなんだ 
生に()り 老いてゆき
憂い嘆いて 死が生まれ
死に()り 老いはとまり
嘆きも憂いも 消え失せる
輪廻などない
生れた命は 一度きり

時よ止まれ 汝は美しい
来たれ ハデスよ
冥府の神よ」

 この言葉を述べた後、アンドレイは口を開け、銃を入れて発砲した。大島たちは、アンドレイの亡骸(なきがら)が下に向かって滑落するのをただ見つめるばかりであった。

 沈黙があった(のち)、大島が静寂(せいじゃく)を破った。
「・・一体、何が起ったというのだ。イギクさんの身に生じたことがアンドレイくんの身にも生じたというのか。早川くん、どう思う。」
「おそらく・・。しかし、もしそうであるならば、われわれは遺体を回収し、同じような悲劇が起こらないようにしなければならない。
 私はイギクさんとアンドレイくんの遺体を調べ、ウイルスを研究することになるだろう。それが私の使命だ。」
 高橋も口を開いた。
「そうだ。それがいい。自分は蛍石を分析することになるだろう。」
「結局、我々は現世の義務に従い、なすべきことに心を集中させるしかないのかもしれない。私もイギクさんやアンドレイくんを襲った白い獣について調査し、警告する必要がある。
 アブジョーラか・・・。このような脅威を前にすると人間の無力を思い知らされる。パスカルは宇宙がいとも簡単に人間を殺すといったが、その言葉は正しい。
 しかし、人間が宇宙より尊いというのは間違いだ。人間による自然の支配などしれている。人類が存在する間に自然の働きが解明できるともかぎらない。まして、生れたときに放り込まれる世界を支配することなど到底できるものではない。
 自然は制御できるものであり、科学の英知がそれを成し遂げると考える者は、人間が適応できない空間に一歩足を踏み入れるといい。その自惚(うぬぼ)れが跡形もなく崩れ去るのを感じるだろう。」

 再び沈黙が大島たちを支配した。白色の獣が再来することに備えながら過ごしていると、やがて機械音とともに救助のヘリコプターが姿を現した。

 こうして大島たちはカルナパルクに帰還し、ひとまず身心を休ませることになったのだが、大島は眠りに入る前に日誌を書こうと思い、筆をとった。日誌の一部には、次のようなことが書かれている。

 アンドレイくんの問いが頭に響き続ける。よく知られたゴーギャンの絵の画題。カテキズムの問い。

     我々はどこから来たのか。我々は何者なのか。我々はどこに向かうのか。

自然の創造力

 アミノ酸が創造され、核酸が創造された。遺伝情報は多様化し、星に満ちた。ヒトは第一の受動文に対し、その主語は何か、という疑問を抱く。そして答えようとする。
 ある者は神と言い、ある者は超越者と言い、ある者は宇宙の統一力、またある者は宇宙の働きと言う。私にはそれが何かわからない。しかしそれは在る。畏怖すべき対象として存在する。そして、次の古人の言葉が頭に響く。

        造化の天工、いづれの人か筆をふるひ(ことば)を尽くさん

自由意思

 自由意思とは何だ?ハムレットはこう言った。運命は我々が決めるのであって、星が決めるのではないと。
 自由意思などというものがあるとして、どれだけのことができるのだろうか。為すべきことを決める?生きる意味を見出す?社会の合意に参加する?
 しかし、考えてみるがいい。たとえば、己の体の働きを。不随意筋の働きを。心臓の鼓動を。これは誰が動かしているというのか。我々の身体は宇宙の働きと結びついたものなのだ。
 自由意思があるとしても、宇宙の働きの影響を免れることはない。生れたヒトは、やがて遺伝情報の伝達に不具合が生じ始め、やがて死に至る。この縛りは免れない。これを決めたのはヒトの自由意思ではなく、宇宙の働きだ。

人間の理性

 パスカルは人間は考える葦だと言った。人間は理性的動物なのだろうか?たしかに、知を欲する人たち、知を愛する人たちはいる。たとえば、数学の言語で書かれた自然という書物を読み解こうとする人たちは、限られた生の時間の中で、万物の振る舞いを、数学的関係で解釈しようとする。
 しかし、いかに理性によって、科学的に捉えられた世界観だからとはいえ、宇宙の一点に存在するともいえる、ひとつの生物の世界観が絶対に真であるとなぜいえるのか。
 ゲーテは言った。望んでいたものを手に入れたと思い込んでいるときほど、願望の対象から遠く離れていることはないと。我々が信じる世界観が、種特有の認識世界、種特有の幻想ではないと、どうしていえるのだろうか。

人間の直感

 昔、インドにいた人たちには、宇宙の根本原理であるブラフマンと自己の本質であるアートマンは同一であると説く人たちがいたといわれる。
 宇宙と自己との一体化・・・。なんとも壮大な神秘思想だ。似たような思想は他の宗教にもないわけではないが・・。
 座禅による悟りなのか、読書と思索による悟りなのか知らないが、西田も似たようなことを言っている。我々の精神活動の根底に働く一つの統一力は人格、あるいは自己であり、思惟意志の根底に働く統一力と宇宙現象の根底における統一力は同一であると。
 ウィトゲンシュタインは、語り得ぬものについては沈黙しなければならないと言った。なるほど、これは科学的な言明ではない。はたして、これが真理なのかどうか私にはわからない。しかし・・、規約主義の考えを参考にすれば、数学的世界観は論理的空想の体系に見えなくもない。
 いつはじまったのか、いつおわるのか、物質の合成と分解が循環する世界の真実在を語る言語がほしい。科学の言語、数学の言語で足りないのであれば、それを補う言語がほしい。語り得ぬものを語る言語が。・・・それとも、それはヒトにとって不可知なXなのだろうか。

人類の進化、あるいは変化

 ヒトが生物的にどれだけ進化したのか知らないが、精神的な転換期を経験したことは事実のようだ。我々は倫理によって自らを律しようと試み、科学的精神によって世界を把握しようとする。
 その心の働きで考えれば容易にわかる。ヒトがいかにもろく、無力に生きる存在であるかが。
ヤスパースは、「人間は世界の恐ろしさと自己の無力さを経験する。人間は根本的な問いを発する。彼は深淵を前にして解脱と救済への念願に駆られる。」と言った。
 宇宙の畏怖すべき力、人間の悲惨、生物の悲惨の自覚からおこる同情が自らを導く。絶滅の運命を知りながら。ヒトの絶滅を悪とするのは、ヒトの特異な基準に照らしてそう判断しているにすぎない。
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